俺の同居人は普通じゃない


 朝食を囲むテーブルで、俺は黙々と箸を動かしていた。
 ……のだが、どうしても正面が気になる。
 宵のお箸の扱いが怪しい。全く使い方がわかっていないようだ。
 話し方も幼いし、狐原宵なんて名前も珍しすぎる。
(もしかして、外国人説とかある?)

 見かねた俺は、箸を持つ手を少し掲げて見せた。
「宵、箸の持ち方はこうだよ」
「こう?」
 宵は俺の手元をじっと観察しながら、不器用に箸を動かす。
 
「ちがう、こっち。 指をこう添えるのが正解」
「なおや、やさしいね」
 宵はふにゃりと、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
 
「優しいわよねぇ、尚弥」
「……どこが?」
 おばあちゃんの茶化すような声に、俺はあえてぶっきらぼうに返した。

 朝食を終えたあと、おばあちゃんいわく「午前中は宵くんが家に慣れる時間にする」とのことで、俺は一人で大学に行く準備を整える。玄関へ向かう俺の背中を、宵の視線がずっと追いかけてくるのがわかった。

「大学、行ってくる」
 俺が告げると、宵の顔が目に見えて曇った。
 
「いく。ぼくも、いく」
「いや来ないで。家でおとなしくしてて」
「いく」
「ダメに決まってんじゃん。遊びに行くわけじゃないんだから」

 宵はしゅんとうつむいて、捨てられた子犬のような顔をする。それを見ると、まるで俺が悪いことをしているような罪悪感に襲われた。

「はぁ……。帰ってから話そう。……ちゃんと。な?」
 宥めるように言うと、宵の瞳がぱあっと明るく揺れた。
 
「うん、やくそく」

 **
 
 大学へ向かう道すがら、いつもの景色を眺めながら、昨夜からの出来事を反芻する。
 突然現れた銀髪の男。整いすぎた顔立ちで、中身は子供のように無垢で、正体は一切不明。
 それに、昨日聞いたあの名前のことが耳の奥にこびり付いて、離れない。

『――灯弥(とうや)

 誰の名前だ?
 いや、もしかして俺? 俺かも。
 なぜかそう感じてしまう自分が、たまらなく不気味だった。

「はぁ……気持ちわりぃ」

 胃が重いし、胸も痛い。
 考えすぎだな。ただの疲れだ。そう自分に言い聞かせても、講義の内容は全く頭に入ってこなかった。
 友人の坂下に声をかけられても、曖昧な生返事を返すのが精一杯だ。

「大丈夫? なんか寝不足?」
「まあ、ちょっといろいろあってさ……」

 寝不足の理由が「美貌の男が俺の布団にいたから」だなんて、絶対言えないでしょ。
 きっと理解されないし。
 
 だって、俺も理解してないもん。

 ノートの端に目をやると無意識にペンを動かしていたのか、歪んだ文字が並んでいた。
綾空(あやそら)
 何の字だろうな?
 今まで見たことも聞いたこともないはずの漢字。

 ……もう、考えるのはやめよう。
 深呼吸しようとして窓を見たとき、遠くに銀髪が揺れるような錯覚を覚えて、ぎょっとした。

 ……もちろん、そこには誰もいない。
(俺、やばいな。本当になんか病気かも……)

 **

 授業を終え、まっすぐ帰宅した。玄関の扉を開けた瞬間――
 凄まじい勢いで、銀髪が飛びついてきた。

「なおや! かえってきたね!」
「わ、わかったから! やっぱ距離感おっかしい……」

 腕の中に、ふわりと銀髪が広がる。
「なおや、きょう……いなくて、さみしかった」
「いや毎日大学あるんだけど?」

 おばあちゃんがニコニコしながら口を開いた。
「尚弥、良かったわねぇ」
「よくないっての」

 宵は俺の肩に頬を寄せ、嬉しそうに囁く。
「なおや、あいたかった」
 
 はぁぁぁ。
 なぜか、その声が嘘じゃないことだけは分かる。
 釈然としない思いはあるのに、もう面倒になって、この異常な状況に流され始めていた。


 居間の隅でちょこんと座り、宵は改めて俺を見つめてくる。琥珀色の瞳が優しくて、見つめられるたびに胸が騒ぐ。

「ここ、すき」
「家は物じゃないから……『ここ』じゃなくて『この家』な」
「なおや、すき」
「物じゃないし! 昨日初めて会ったのに、懐き方のスピード早すぎじゃない?」
 呆れてつい吹き出してしまうと、宵もつられて楽しそうに笑った。
 
 その日、初めて心がほぐれた気がした。
『なおや、すき』という言葉が、あまりにも自然に染み込んできて、身体の芯に心地よい温かさが残った。

 **
 
 風呂の湯気の中で、俺は昨日からの出来事を頭でまとめようとした。

 見知らぬ男が家にいて。
 おばあちゃんが拾ってきて。
 名前呼ばれて。
 同居が決まって。
 抱きつかれて。
 胸が変に痛んで。

 ――意味わかんない。まとまるわけないな。

 天井を見上げると、湯気でぼやける視界の奥に、また銀色の残像を見た……気がした。
「……疲れてるだけだよな、俺」
 自分に言い聞かせる声が、湿った空気に紛れ込んだ。

 風呂から上がって脱衣所に出ると、宵が扉の前に直立不動で立っていた。
「うわっ、びっくりしたぁ!」
 宵は裸足のまま、タオルも持たず、ただ俺の出てくるのを待っていたみたいだ。
「えっと……、なに?」

 宵は少しうつむいて、俺のパジャマの袖をぎゅっと掴んだ。
「ごめん。なおや、きょう、いなかったから」
「えっ? いや、だから俺大学行ってただけ……」
「なおや、いないと、さみしい、こわい」

 その言葉が、嘘とは思えないくらい切実に響いた。
 またズン、と胸が重くなる。
 宵は俺をじっと見つめ、ふわっと弱々しく笑った。
「でも、いまは、いる」
 
 俺は何も言い返せなかった。

 宵と入れ替わりで居間の方に向かうと、おばあちゃんが鏡台の前で髪をとかしていた。
 鏡越しに俺を見ると、彼女は穏やかに、けれど重みのある声で言った。
 
「尚弥」
「うん、なに?」
「宵くんのこと、よろしくね」
「いやまだ信用してないんだけど」

 おばあちゃんは櫛を止め、鏡の中の俺をまっすぐ見据えた。
 
「大丈夫よ。あの子、悪い子じゃないから」
「会ったばっかりでよく言えるなあ」
 
 おばあちゃんは、鏡越しにまた笑みを浮かべる。
 
「――会う前から、知ってるのよ」

 ゾクッとした。
 
「えっ?」
「宵くんが来たとき、すぐ分かったの。ああ、やっと帰ってきたって思ったわ」
「帰って……きた? 誰が?」
 
 おばあちゃんは優しく頷くだけだ。
 
「そのうち分かるわよ、尚弥。宵くんが、あなたを探していた意味がね」

 どういうこと? なにそれ、まじで意味がわからない。おばあちゃん、何を言っているの? 何を知っているの?
 怖いけれど、怖いだけじゃない。身体の中でなにかが疼く。
 これは一体なに?

 それ以上は聞けず、答えも出ないまま自室に戻ると、宵が先に俺の布団を被って待っていた。
 もう、「何で一緒の布団でねるの?」と聞く気力も残ってない。
 
「なおや、おやすみ」
「……おやすみ」
 
 俺も同じ布団に潜りこむ。宵は布団の端で小さくなり、ギリギリ俺には当たらないが、でも温度は感じる距離で横たわった。
 目を閉じると、俺はすぐに意識を手放した。

 ◇◇

 夢を見た。
 
 湖のせせらぎと冷たい夜風。銀色の尾が揺れる。
 誰かが俺を抱いていた。
 
 あったかいなぁ。すごく安心する。
 
 そして、声がした。

「とうや」

 低くて優しく、今にも泣き出しそうな声だ。

「……また会えた」

 その瞬間、呼吸が震えた。
 
 名前を呼ばれただけなのに、涙が溢れ出す。
 理解なんてしていないのに、俺の中にある『何か』は、すべてを知っていた。

 ――この声を、失いたくない。

 ◇◇

 目を覚ますと、宵が俺の手をぎゅっと握っていた。
 指先からぬくもりが伝わってくる。

 離したくない、と思った。
 違う……こんなこと俺が思うわけがない。

 静かな部屋の中で、知らないはずの記憶がかすめる。
 どこかで誰かと、こうして手を繋いでいた気がする。
 でも全然思い出せない。そもそもそんな覚えはないはずなのに。

 でもなんか落ち着くなぁ。
 なんで落ち着くって思うんだろう。
 どこから来てるの? この気持ち。
 まるで別の俺が動いてるみたいだ。

 この、何かが始まってしまったような予感は、一体なんなんだ?