土曜日の朝。俺は相変わらず、背中にピタッと宵を貼り付けたまま台所に立っていた。
正直、重いし動きにくい。けれど、洗い物をする俺の腰に回された宵の腕から、体温が伝わってきて、それが心地よかった。
そこへ、おばあちゃんが茶化すような声をかけてきた。
「宵くん、いつまでも尚弥の古着ばかりじゃかわいそうね」
「えっ、突然なに?」
「宵くんに、夏用の新しい服でも買ってあげなさいな。尚弥、今日お休みでしょう?」
「休みだけど……。宵、新しい服、欲しいの?」
俺が首をひねって尋ねると、宵は「なおやのふく、すきだよ?」と、どちらでも良さそうな顔で首を傾げる。すかさずおばあちゃんが口を挟んだ。
「いいじゃない、お小遣い渡すから、二人で『デート』でも楽しんでいらっしゃい」
「服買いに行くだけだって。デートなんかじゃない!」
カッと顔が赤くなるのを感じながら全力で否定する。おばあちゃんは満面の笑みを浮かべたまま、とんでもない爆弾を投下した。
「あら、昨日、首筋に『情熱的な跡』つけておいて、よく言うわねぇ。ふふふ」
「〜〜〜〜!! み、見ないでください……っ!!」
最悪……。今すぐ気絶したい……。
俺は逃げるように洗面所に向かうと、初夏だというのに薄手のストールを首に巻いて鏡の前に立った。
宵のやつ、よりによってこんな目立つ場所を噛むなんて……。
「宵! なんで昨日、あんなことしたんだよ! よりにもよって学校で!」
後ろについてきた宵に詰め寄ると、きょとんとした顔で答えた。
「さかした……あのひと、なおやに触るの、やだった。……まえも、こうやって……なおや、隠したことある、気がしたから」
(隠した……?)
俺はハッとして、鏡越しに宵を振り返った。
昨日の、あのマウント。それに今の、無意識に漏れた記憶の断片。
間違いなく、宵の中の『綾空』が、少しずつ息をし始めている。
「……わかったから。ほら、行こう」
俺は照れ隠しに宵の手を強く引き、家を出た。
**
街に出ると、爽やかな風が吹き抜けた。
服屋に入ると、宵は初めて見る「自分だけのための服」に目をキラキラと輝かせている。
「なおや、ぼく、にあう?」
「うん。……似合うよ」
俺が選んだ白いシャツをあてがうと、宵は嬉しそうに目を細めた。
口では澄ましているが、見えない尻尾がバシバシと、幸せそうに床を叩いているのが気配で分かった。
試着室の狭い空間で、うまくボタンをはめられない宵を手伝う。
至近距離で触れ合う身体。宵から漂う、あの雨上がりのような甘い香り。
昨日つけられた噛み跡がズキっと疼いて、勝手に心臓が忙しくなった。
「なおや、……ちかいね」
「……お前、なんでそんなこと言うの……。ほら、終わったから出るぞ」
(はぁ……。なんであんな色気のある声出すの……。俺、絶対試されてるだろこれ!)
買い物を終えた俺たちは、宵のリクエストでアイスクリーム専門店に寄った。
宵はトリプルサイズのアイスを抱え、小さな子供みたいに夢中で食べている。
「なおやも、たべて。あーん」
「……一口だけな」
差し出されたスプーンを咥えると、バニラの甘さが口いっぱいに広がった。
その後、公園のベンチに座り、木漏れ日を浴びながら俺は隣の宵を盗み見る。
アイスのカップを大事そうに持って、幸せそうに頬張る銀色の青年。
俺は彼の整った顔を見ながら、昨夜のおばあちゃんとの会話を思い出していた。
◇
『……おばあちゃん、聞いてもいい?』
『何かしら?』
『記憶の中の綾空は……あんなに強くて、神様みたいな威厳があったんだけど……。どうして今の宵は、あんなに子供っぽくて、世間知らずなんだ?』
おばあちゃんは鏡台の前にいたが、わざわざ俺の正面まで来て座り直した。
『この子はね、あなたを追いかけるために、神様であることをやめたのよ』
『神様を、やめた……?』
『そう。本来、神は現世の輪廻には入れない。……灯弥を失ったあの子は、自分の魂を無理やり引き裂いて、神としての座も、高い知性も、数千年の記憶も……そのすべてを「通行料」として捨てて、こちらの世界に落ちてきたの』
おばあちゃんは、どこか誇らしげで、けれど悲しげな声で続けた。
『ただ一筋、「灯弥に会いたい」という純粋な本能だけを残して、他のすべてを失くしてしまったのよ』
『……っ』
『だから宵くんは、こんなに幼くて危ういの。あなたという光がなければ、自分が誰かもわからなくなってしまうくらいにね』
俺に会うために。
ただそれだけのために。
綾空は、自分が持っていたすべてをゴミみたいに捨ててきたのか……。
◇
「……本当、バカだよなぁ、お前」
「なあに? なおや」
「……なんでもないよ。ほら、口にアイスついてる」
親指で宵の口元を拭ってやると、宵は嬉しそうに俺の指をペロリと舐めた。
「ひゃあっ!? ……お、お前、そういうこと外でやっちゃダメ!」
心臓がもたない、とおばあちゃんは言った。
けれど、こんなに愛おしい神様に全力で縋られて、保たせていられるほど、俺の心臓は強くできていない。
公園を出て、穏やかな帰り道。
俺たちは、あの白い一本桜の前へと差し掛かった。桜の花はすでに散り、枝には若々しい緑の葉をつけていた。
その時、不意に宵が足を止めた。
「……宵?」
聞こえていないのか返事はなく、宵は吸い寄せられるように、桜の木の下へ向かった。
俺が慌ててついていくと、そこにあるはずのない光景――もう咲いていないはずの白い花びらが空に舞っている幻覚が見えた。
宵もそれが見えているかのように、枝先から空へと視線を動かし、そして俺の方を振り返った。
視線がぶつかった。
その瞬間、宵が急に頭を抱えて、その場に崩れ落ちた。
「あ……っ、あたま、あつい……! な、なおや、なおやぁ……っ! あたま、いたいよぉ!!」
静かな道に、宵の絶叫が響く。
俺はパニックになりながら、倒れ込む宵の身体を必死に抱きとめた。
「よ、宵! しっかりしろ、宵!!」
腕の中の宵の瞳が、黄金色に発光していた。

