――ああ、朝だな。
そう思ったのは、身体が尋常じゃない「重み」を真っ先に感じたからだ。
いや、正確に言うなら、腰に太い尻尾が巻き付き、宵の長い足が俺の身体をがっちりとホールドしている重み、だ。
「……宵? 起きてんの? 重いって」
肩に回された腕に、ぎゅっと力がこもる。返事はないが、代わりに腰の尻尾が「離さない」と言うようにさらに強く締め付けられた。
「ほら、そろそろ起きよう。朝飯作るから」
なんとか上半身を起こそうとしたが、宵の拘束は緩むどころか、俺を布団に引き戻そうと力が増すばかりだ。
「……んん、はなさない……」
「今日は休みなんだよ、ちゃんとご飯作ってやるから、台所行こう」
なだめるように言いながら、俺は気合いを入れて布団を脱ぎ捨て、力ずくで立ち上がった。
結局、宵を引き剥がすのは早々に諦めた。どうせ今何を言っても無理なのだ。
結果、俺は大型犬――いや、大型キツネを背中に張り付かせたまま、のろのろと台所へ向かった。
**
台所では、既におばあちゃんが朝食の準備を始めていた。
「おはよう、おばあちゃん」
「……おばあちゃん、おはよ……」
宵は半分寝ぼけたまま、まだきちんと開いていない目で挨拶をする。……が、俺への密着度は寝ている時より上がっていた。
背後から腰に腕を回し、尻尾は俺の太ももに絡みつかせ、鼻先を首筋に埋めてくる。
俺が冷蔵庫へ動けば、背後霊のようにぴったりとくっついてくる。正直歩きにくいし、何より邪魔で仕方ない。
「おはよう、二人とも。お米は炊けているわよ。……でも尚弥、その状態で本当に朝食なんて作れるのかしら? ふふ」
「宵が全然離れてくれないんだよ。……ほら、宵、包丁使うから危ないって。一回離れて」
「やだ」
断固拒否だ。
フライパンに火をつけても、味噌汁の味を整えていても、宵は頑なに離れなかった。その結果、すべての動作がいつもの倍以上の時間がかかる。
「重いって。味噌汁こぼしちゃったら危ないだろ。一回そこの椅子に座れってば!」
「やだ……。なおやたりない。まだ身体、『しん』ってするの……」
「しんって何? ったくもう……」
(昨日、あんなに格好よく助けてやったのに、台無しじゃん)
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朝食を終え、居間でおばあちゃんが淹れてくれたお茶を啜っていた。
俺の膝には宵が頭を預けていて、ブラッシングの余韻のせいか、さっきよりもいっそう気持ちよさそうに寝息を立てている。
「……お茶、もう一杯入れようかしら?」
おばあちゃんが、空になった俺の湯呑みを覗き込みながら、静かに急須を手に取った。
「おばあちゃん……昨日のあれ、何だったの? 俺の指先から出たあのオレンジ色の光。あれが『巫』の力なのか?」
俺がそう聞くと、おばあちゃんは急須を置いて、俺の目をじっと見つめた。
「そうよ。あれはあなたの魂が燃やす、命の『灯』。……宵くんを暗闇から呼び戻すための道標なの」
「道標……」
自分の手のひらを見つめる。昨日、あの温かい光が指先から溢れた感覚が、まだそこに残っている気がした。
「巫というのはね、神様の荒ぶる力を自分の身体に通して、穏やかな愛の形に変えて還してあげる。……いわば『魂の避雷針』なのよ」
「避雷針……?」
「そう。宵くんのような神獣は、力が強すぎて、自分一人では制御しきれなくなることがあるの。放っておけば、その大きすぎる神気で、自分自身の魂を焼き切ってしまう。……それを留めておけるのは、唯一の番である『巫』のぬくもりだけなのよ」
おばあちゃんは、俺の膝で眠る宵を愛おしそうに見つめて微笑んだ。
「尚弥が触れることで、この子の心は安定する。尚弥が灯を灯すことで、宵くんは二度と迷子にならずに済む。……巫はね、神様が孤独で壊れないための、たった一つの『錨』なのよ」
俺は寝ている宵の銀髪にそっと指を通した。
おばあちゃんの話す「俺にしかできない特別な役目」を頭に刻み込む。
俺がいないと、宵は消えてしまう。
俺の灯がなければ、宵は焼き切れてしまう。
その事実が、怖くなるほどの愛おしさとなって胸に込み上げた。
おばあちゃんはお茶を一口飲み、「ふう」と息を吐くと、少しだけ背筋を伸ばして俺の目を見て言った。
「でもね、尚弥。これだけは忘れないで」
おばあちゃんの声が、急に低く、真剣なものに変わった。
「あなたが弱ればあの子も消えるし、あの子が暴走すれば、巫である尚弥の心臓がもたないかもしれない。……番は『運命共同体』なのよ。わかっているわね?」
心臓がもたない――。
その言葉の重みに、俺は一瞬、息が止まった。俺と宵の命は、もう切り離せないところまで混ざり合っているんだ。
「……さて、説明はおしまいよ。……私は夕飯の買い物に行ってこないとね。若い二人の邪魔をするのは、語り部の粋じゃないわよねぇ」
「ちょっ、邪魔とか変な言い方しないでよ!!」
おばあちゃんは「ふふふ」と楽しげに笑いながら、居間を出て行った。
静かになった部屋で、俺と宵だけが残される。
避雷針。
錨。
命の灯。
……全てを捨てた神様。
おばあちゃんに言われた言葉が、頭の中で何度も反芻される。
「……宵」
名を呼んで、俺は自分から宵の体を抱き寄せた。
重い。
あったかい。
生きてる。
――愛おしい。
「んん……なおや……?」
宵がようやく目を覚まし、とろんとした瞳で俺を見上げた。
「宵、こっちおいで。……安定させてやるから」
俺がそう誘うと、宵は驚いて琥珀色の瞳を丸くした。次の瞬間、あぐらをかいて座る俺の胸へと飛び込んできた。
「だっこ、うれしい……。なおや、きょう、やさしいね?」
向き合う形で膝に乗る宵は、ふにゃりと笑って俺の首筋に顔を埋める。
……くんっ、……ん。
宵は鼻を俺の肌に直接押し当てて、何度も深く、飢えているように俺の匂いを吸い込んだ。必死な手つきで俺の背中に爪を立てる。
「ちょっと!? くすぐったいって……ッ!」
首筋に熱い息がかかって、俺の顔はさっきよりもさらに温度が上がった。
(前も思ったけど、この匂い嗅ぐ行為、無意識に本能でやってんの?)
「こ、これは、巫としての義務なんだからね!!」
「ぎむ……?」
「そ、そうだよ。安定しないと……。だから……ほら、もっとくっついて。俺が、お前の錨になってやるから」
自分から言っておきながら、あまりの密着具合に俺自身の顔が沸騰していくのがわかる。
宵は、一瞬きょとんとしたあと、風を切るみたいに尻尾を激しく振り回した。
「わあ……! なおやの義務、だいすき! ずっと、ずっといっしょ!」
「うわっ、こら、尻尾当たるって! 痛っ、痛いから!」
バシバシと尻尾で叩かれながら、俺は宵を離さなかった。
記憶なんて、あってもなくてもいい。
神様に戻れなくても。
俺が宵を、一生離さない。
窓の外では、昨夜の狐火の余韻を上書きするような、初夏を思わせる陽射しが、庭の新緑を明るく照らしていた。

