宵はまだ、俺の腕の中で泣いていた。
夜屑の消え去った、静かな俺の部屋。しがみつく宵は、もう声は上げていなかったが、怯えた子どものように、肩を震わせて嗚咽だけ漏らしている。
背中に回した腕の中で感じるその身体は、驚くほど軽くて、同時に、現実味がない。
(……また、急に消えたりしない?)
ふとそんな不安が、胸の中で引っ掛かる。俺はそれを振り払うように、宵を抱く腕にぎゅうっと力を込めた。
「……大丈夫。もう、どこにも行かない」
自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。
ズボンのポケットの中で、あの『火打ち石』が、ジン、と心臓の鼓動と同じリズムで熱を帯びた。
(……あ、火打ち石?)
ドクン、ドクンと脈が打つたびに石が応えるように温度を上げていく。
その熱は、俺の指先から手のひら、腕を伝わって――抱きしめている宵の背中へ、流れ込んでいった。
派手な光はなく、痛みも衝撃もない。
ただ「巡っている」という感覚。
すると、宵の震えが少しずつ収まっていくのが分かった。俺の服を掴んでいた指の力が抜け、代わりに、宵の全体重が俺の腕に預けられる。
軽かった身体に重みが戻っていく。
(……抜けたんじゃない。落ち着いたんだ)
俺の灯が、宵の魂にちゃんと届いた。
そう確信した。その瞬間だった。
――パキ。
乾いた音が、部屋のどこかで響いた。
小さい音のはずなのに、俺の耳に鮮明に残る音だった。
宵が、ぴくりと耳を揺らした。俺はすぐに、彼をもう一度強く抱きしめた。
「……平気だよ。俺がいる」
自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
宵の身体から、あの消えてしまいそうな冷たさが完全に消えている。胸の奥にずっと張り付いていた嫌な予感が、すっと引いていく。
守れたんだ。今回は、俺の手で。
火打ち石の熱はまだ続いている。けれどそれは、もう焦げ付くような熱さではなく、穏やかな熱だった。
ふと気づけば、宵の呼吸が穏やかになり、彼は俺の首筋に深く顔を埋めていた。
安心したのかな、と思った矢先――
「……くん」
宵が鼻先を俺の肌に押し付け、小さく息を吸い込んだ。
「……え?」
くんくんと、まるで獲物か何かを確認するように、熱心に首筋の匂いを嗅ぎ始める。
くすぐったいし、何より触れ合いすぎて、俺の心拍数は一気に跳ね上がった。
「……えっ! 宵、なに、してんの……っ」
慌てて引き剥がそうとしたが、宵は離れない。むしろ、うっとりしたようなとろんとした声で囁いた。
「なおやの『灯』のにおい……。これないと、まだ、ふわふわするの……」
待て待て。なにこれ!
一瞬で顔が沸騰するのが自分でも分かった。
「匂いって……! 犬なの? いや、狐だけどさ! 恥ずかしいからやめてって!」
抗議する俺の首筋に、さらに宵の銀色の耳がふわふわと触れた。
さっきまでのシリアスな空気はどこへ? 俺の心臓は、全く別の意味で、破裂しそうなほど激しく鳴っていた。
**
やがて宵の寝息が、規則正しいリズムになった。
さっきまであれほど必死に泣き、本能のように俺の首筋の匂いを嗅いでいたのが嘘みたいに、今は完全に力が抜けている。
(あれだけ泣いたら、疲れるよな)
その安らかな重みを確かめるように、俺はそっと彼の背中を撫でた。
――そのときだった。
ふと、部屋が明るくなった気がした。
「……?」
顔を上げると、障子の向こう側が、淡く橙色に染まっている。
電気をつけた覚えはないし、カーテンも閉まったままだ。
暖かくて、ゆらゆら揺れる不思議な光。
俺は息を殺して、窓の方を見つめた。
そこには、本来あるはずのない灯りがあった。
庭先に、いくつもの小さい火が、ふわりと浮かんでいる。
風に揺れても決して消えない、優しい光。
「……狐火」
理由は考えなくても分かった。
それは威嚇でも警告でもない。ましてや、夜屑の気配でもなかった。
まるで――祝福だ。
俺たちを包み込むように、家の周りを静かに灯る火。
俺の腕の中で、宵が小さく身じろぎした。
銀色の耳がぴくりと動き、尻尾が、するりと俺の腕に絡んできて、そのまま離れない。
――今度は、輪郭が消えない。
さっきまで、感情が乱れるたびに宵の輪郭が曖昧になっていたのに、今ははっきりとしている。
耳も、尻尾も、宵の存在そのものも。
家の外で揺れる狐火は、しばらくの間、消えずに灯り続けていた。
まるで、ようやく重なった二人の魂を、見守るように。
光に見入っていると、背後でかすかな音がした。
障子の軋む音だ。
そこに立っていたのは、割烹着姿のおばあちゃんだった。
おばあちゃんは部屋に入ってきてすぐ、まず俺の腕の中を見た。
眠る宵と、絡みつく銀の尻尾。
それから小さく、ふう、と息を吐いた。
「……ああ、そう。そうなのね」
おばあちゃんの独り言のような穏やかな声が漏れた。
おばあちゃんは、ゆっくり俺たちのそばに腰をおろした。
その手の中に、何かを持っていた。
見覚えのある、あの狐のお守りだ。
けれど、耳の欠けた白い狐の石は、今は完全に二つに割れていた。
さっき聞こえた「パキ」という音。あれは、これだったのか。
「……割れちゃったわねぇ」
そう言ったおばあちゃんの声は、驚きや悲しみはなく、むしろどこか誇らしげで清々しかった。
「でも、いいのよ、これでいいの」
彼女は俺の顔を見て、優しく続ける。
「これはね、あなたたちがまだ一人前じゃなかった時の『保険』みたいなものだったから」
「……保険?」
「そうよ、転ばないように、迷子にならないように、誰かが代わりに守ってくれるためのもの。……でもね、尚弥」
おばあちゃんは、割れたお守りを、そっと布の上に置いた。
「もう必要なくなったのよ」
その言葉がストンと胸に落ちた。
腕の中の宵を見る。もう不安に揺れていた気配はどこにもない。
「……守られるだけの縁じゃなくなった、ってことよ」
おばあちゃんはそう言って、目尻を下げて微笑んだ。
「自分の足で立って、自分の意思で相手を選んで、守る。それが本当の『番』。……今のあなたたちは、もうそうなったのよ」
おばあちゃんは、今度は俺の顔をじっと覗き込むようにして告げた。
「……おかえりなさい、灯弥」
その名で呼ばれても、不思議ともう心は揺れなかった。
「……ううん、尚弥。今のあなたの名はそっちね」
柔らかく言い直され、鼻の奥がツンとなった。
おばあちゃんは宵の寝顔に視線を落とし、頷いた。
「この日を、ずっと待ってたのよ。大丈夫、もうこの子は迷わないわ」
それだけ言い残すと、おばあちゃんは何も聞かずに、静かに部屋を去っていった。
部屋にはまた静けさが戻り、俺は腕の中の宵の額に、そっと自分の額を寄せた。
「……なおや……」
小さな声の寝言が、今の俺の名前を呼ぶ。
「うん、ここにいるよ」
腕の中で、宵が小さく寝息を立てている。
前世の記憶は、確かに重い。
失った夜も、泣かせてしまった別れも、決して消えることはないだろう。
けれど。
俺はあの夜に死んだ灯弥じゃない。
今ここで、宵を救って、共に生きることを選んだ――南尚弥だ。
「……離さないよ、宵」
――今度こそ、死ぬまで。
そのまま、俺は銀色のぬくもりを抱きしめたまま、瞼を閉じた。
おばあちゃんが言っていた『語り部』。
南家が何を背負い、おばあちゃんが何を見てきたのか。その語り部の役目がなんなのか。聞きたいことは山ほどある。
……けれど、今はいい。
今は俺の腕の中にいる宵を、一秒でも長く、深く安定させてやることの方が、重要だ。
俺は、こも消えそうで消えない宵の体温を、抱き込みながら意識を手放した。

