――行ける。
そう信じた、まさにその瞬間だった。
世界が、鳴いた。
まるで、この宵界が泣き叫んでるような、絶叫。
地の奥から、軋むような音が立ち上がって、悲鳴を上げている。
湖が波打って、空が裂ける。
白銀の炎は、一瞬、揺らいだ。
――そして。
すべての音が、消えた。
炎も、風も、悲鳴も。
すべてが、嘘のように、止まった。
地を揺るがしていた轟音が消えて、世界は完全な無音になった。
綾空は、最後の一群を掃討しようとしていた。
その一瞬の隙に、闇の爪が、神獣の核を狙って背後から振り下ろされる。
「――やめろ!!」
叫ぶより先に、俺の身体が動いていた。
静寂を切り裂いて、俺の背後で嫌な音がした。
理解するより先に、熱が暴れた。
――夜屑の爪が、俺の胸を貫いていた。
「――灯弥ッ!!」
叫んだ綾空の瞳から、黄金色がみるみるうちに引いていく。
俺の胸を貫いた夜屑の爪。その指先から、どろっとした赤い血を滴り落とすのを見て。
夜屑の爪が引き抜かれるより先に、俺の身体が宙を浮く。
――抱き上げられたのだ。
頬を掠めていた銀色の毛並みの感触が、一瞬で、震える人の肌の温もりに変わる。
人型に戻った綾空が、俺を強く抱きしめていた。
震えているのに、決して落とさない、強い腕だ。
「……なぜだ! なぜ私を庇った! 私のために生きると、そう言ったじゃないか!」
声を出そうとしたが、口から溢れたのは、赤い血だった。
「俺にも、守らせてくれよ。……綾空」
震える指先を伸ばし、彼の頬をなぞる。
俺は精一杯、口角を上げた。
「……笑えよ、綾空。お前が泣いていたら……俺の火が、消えてしまう……」
「灯弥、喋ってはだめだ! 今、お前を助ける、私がこの力で……!」
視界がゆっくりと白くなっていく。
その向こうで、白い、いや白銀の、桜の花びらが舞い散っているのが見えた。
痛みは、もう感じない。
代わりに、身体の輪郭が、少しずつ薄くなっていく感覚があった。
「……灯弥、灯弥……っ!!」
綾空の声が、近いのに、遠くに聞こえる。
彼は必死で、俺を繋ぎ止めようと、腕の力を強めた。
「嫌だ……。灯弥、目を開けろ……!」
震える声で、何度も名前を呼ぶ。
その切実な声に応えようとしても、もう喉がうまく動かなかった。
綾空の身体から、凄まじい圧の神気が溢れ出す。
銀色の光が、俺の身体に流れ込んでくるのが分かった。
――だめだ。
それはもう遅い。
俺の身体はもう、神の力を受け取れる形を、していなかった。
指先からも、胸の傷口からも、光がこぼれ落ちていく。
砂のように、細かく砕けて、この夜に消えていく。
「だめ……だめだ、だめだ……っ!」
綾空が、半狂乱で首を振る。
「いくな! 行くな、灯弥!!」
「お前がいない世界なんて……私には、守れない……!」
「何の、意味も、ない……!」
その言葉たちが胸に刺さると同時に、どうしようもなく、愛しかった。
俺は残った意識をかき集めて、手を伸ばす。
綾空の頬に、触れる。
その頬は、ひどく濡れていた。
「……綾空、……泣くな」
掠れた声で名前を呼ぶのが精一杯だった。
綾空は、泣き崩れそうな顔のまま、俺の手を包む。
「……お前の、銀色は。……世界で一番……綺麗だ」
綾空の瞳が、大きく見開かれる。
「灯弥……」
俺は微笑んだ。
ちゃんと、笑えていたと思う。
「大丈夫だ……、また、会える。……だ、から……」
最後に、もう一度だけ、頬を撫でる。
「……笑って。……綾空……」
そう言ったとき、俺の視界は、完全に真っ白になった。
身体が、音もなく、光の粒に変わっていく。
霧のように、細かな粒子になって、宵界の空へ散っていく。
最後に見えたのは――
俺を抱きしめようとして、空を掴んだ、綾空の震える腕だった。
**
次の瞬間。
綾空の咆哮が、宵界のすべてを引き裂いた。
天を仰ぎ、喉が裂けるほどの声で、愛した者の名前を呼び吠える。
白銀の神気が暴走し、空を割り、湖を崩して、世界が悲鳴を上げる。
宵界は、神獣の慟哭とともに、静かに、終わりを迎え始めていた。
すべてが、壊れていく。
銀の毛並みを真っ赤に染めて、絶望に吠えるあいつの声が、遠くなっていく。
――待ってて。
――必ず、見つけるから。
薄れゆく意識の端で、そんな声が聞こえた気がした。
次に目を開けたとき。
視界に入ったのは、月明かりの届かない、見慣れた俺の部屋の天井だった。
「……っ、は、……あ……ッ!!」
肺が張り裂けそうなほどの勢いで、俺は現実の空気を吸い込んだ。

