宵の温もりを腕の中に感じながら、俺は必死に意識を現実に繋ぎ止めようと抗っていた。
これ以上、あの場所へ行ってはいけない。
あそこに待っているのは、今の俺が耐え切れるような記憶じゃない。
なのに――熱い。
おばあちゃんに手渡された『火打ち石』が、俺の心臓を叩いてるみたいだ。
その時。耳の奥で、カチッと乾いた火花が散る音がした。
「……っ、宵……っ!」
抱きしめていたはずの宵の身体が、急に遠くなる。
景色が、壊れていく。部屋の壁が、天井が夜の闇に溶けるように剥がれ落ちていく。
代わりに鼻をついたのは、平和なバニラアイスの甘い匂いじゃない。
何かが焦げる、むせ返るような死の臭いだ。
一瞬、まばたきをした。
――次に目を開けたとき。
俺の視界は、真っ赤に染まっていた。
静かだった宵湖は煮え立ち、白銀の桜は火の粉が届き、ところどころ黒くなり、ちりちりと広がっていく。
夜の空には、月光を遮るほどの『夜屑』の群れが雨のように降り注いでいた。
ひとつひとつは小さいのに、集まれば、世界を飲み込むほどの圧を放っている。
その気配に当てられ、胸が抉られるように疼いた。
(……来た)
視線を向けた先に、その白銀はいた。
巨大な狐――神獣。
月光を受けて、逆立つ毛並みが鋭く輝く。
ただ立っているだけで、空気が張り詰める存在感。
――綾空。
その名を呼ぶより早く、彼は振り返った。
曇りのない琥珀色の瞳が、俺を据える。
次の瞬間、背中に回された尾が、俺を突き飛ばすようにして、迫った。
「……灯弥! 何をしている。早く逃げろ!」
低く、重い声を張り上げる。
「これは、私の戦いだ! お前は関わるな!」
――だめだ。
その叫び声を聞いたとき、胸の中で悲鳴を上げた。
下がれない、下がれるわけない。
巫である俺には、分かってしまったから。
夜屑の狙いは、この世界じゃない。
綾空の『核』だ。
神獣としての命。
この宵界を繋ぎ止めている、唯一の光。
それを奪われたら――綾空は二度と、俺のところには戻らない。
その時、胸の内側が、再びカチリと鳴った気がした。
違う、胸じゃない。
俺がずっと握りしめていた、右の手のひらだ。
ただの石ころのはずなのに、それは今、熱を帯びている。
(……火打ち石)
おばあちゃんに手渡されたはずのもの。
なのに今、俺の手の中にあるそれは、ただの石じゃない。
俺の鼓動に合わせて脈打つそれは、まるで魂の核のように熱かった。
俺はこれを知っている。
灯を起こして、闇を払うための石だ。
俺が最初に灯す火だ。
俺は、一歩踏み出していた。
「待て、綾空」
呼び止める声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
巨大な白銀の狐が、訝しげに首を巡らせる。
「灯弥。下がれ」
「嫌だ」
短く言って、俺はそのまま距離を詰めた。
綾空の放つ神気の圧が、肌を刺す。普通の人間なら、立っていられないだろう。
でも、俺は――巫だ。
俺はその大きな胸元に手を伸ばし、額をそっと合わせた。
銀色の毛に、指を沈めた瞬間、熱が伝わる。
綾空の吐息がかかるだけで、肌がじり、と焼ける感覚。
それでも、俺はこの『神』に、手を伸ばしてきた。
呼吸のリズムが、ゆっくりになっていく。
「……灯弥」
綾空の声が、わずかに揺れた。
「聞け、綾空」
俺は額を離さず、低く言った。
「俺の灯を分ける」
その言葉に、綾空の身体が強張ったのが分かった。
「やめろ! それは――」
「知ってる」
遮るように俺は微笑む。
「これをやったら、俺は無事じゃいられないかもしれない。
お前だって完全な姿では戻れないかもしれない」
それでも。
俺は額を押し当てる力を、さらに強めた。
「でもな、綾空」
声が少し震えた。
「お前が戻らない未来の方が、俺には耐えられないんだ」
呼吸の間に、俺から綾空へ灯が移る。
胸の中が、焼けるように熱くなる。けれど、その熱は不思議と痛くはなかった。
むしろ、身体の端々まで綾空の色に染め上げられていくような、抗いがたい快感さえあった。
「俺の火は小さいけれど」
自嘲気味に笑う。
「でも、お前の夜を照らすくらいなら、足りるだろ」
綾空は、少し沈黙してから、低く、苦しげに喉を鳴らした。
「……愚かだな。だが――」
綾空の声は、いつもよりずっと近くて、額を離さないまま、彼は俺の名を愛おしそうに呼んだ。
「灯弥。必ず戻る。お前の灯を、無駄にはしない」
「戻ってこい」
俺は、願うように言った。
「戻ってこい、綾空。……俺は、ここで待つ」
一瞬、白銀の気配が、俺をすべて包んだ。
それは、触れ合えることへの至上の幸福と。
そして二度と同じ形ではいられないことを、残酷に告げる温度だった。
額が離れた瞬間、白銀の衝撃が、夜を震わせた。
綾空が、地を蹴った。
俺から分け与えた灯をその身に宿して、銀色の毛並みを黄金色に輝かせ、彼は闇の中へと飛び込んでいく。
その速さは、もはや人間の視線では追いきれない。
綾空が駆ける軌道に沿って、白銀の炎が道を作っていく。
押し寄せる黒い塵――夜屑らが、その神聖な光に触れただけで悲鳴を上げて、灰となって消えていった。
(……強いな、やっぱり)
あれが、俺の愛した神獣の、本来の姿。
けれど、俺は知っていた。
彼が強く輝けば輝くほど、俺の胸の中にある火種が、じりじりと削り取られていくのを。
身体が急激に冷えていく。さっきまでの熱が嘘みたいに、指先から感覚がなくなっていく。
(……そろそろ、やばいな)
そう思ったけれど、少しも怖くはなかった。
俺は薄れゆく意識の中で、綾空を視線で追うことをやめなかった。
黒い絶望に塗りつぶされそうな世界で、ただひとつ。
俺の命を燃料にして戦う、あの、美しすぎる姿を。
「……いけ、綾空」
膝をつきそうになるのを、精神力だけで耐える。
まだ、消えるわけにはいかない。
俺がここで『灯』を絶やせば、あいつは闇に呑まれてしまう。
綾空は、一度も振り返らずに前だけを見ていた。
――それが、神獣としての正しさだと、俺は知っていた。
白銀の炎が、夜屑の群れを次々と押し潰していく。
綾空の一歩一歩が、滅びゆく宵界に、光の道を刻んでいた。
これなら――。
これならきっと、綾空も、宵界を守りきれる。
そう、確信した瞬間だった。

