夕べ、布団に入って宵の頭を撫でていたところまでは、はっきりと覚えている。
博物館の帰り道に起きたことや、あの不気味な声。……溜まった疲れが出ただけだと思っていた。
はずなのに――熱い。
身体の内側から、じわじわと熱が広がってくる。
風邪なんて久しぶりだ、なんてのんきに思っていたが、それにしては様子が変だった。
汗が出るほどの不快感はない。ただ、胸の奥の方が、燃えるように熱い。
(……なんだ、これ。何が起きてるんだ)
意識が浮いたり、沈んだりを繰り返す。目を開けようとしても、瞼が言うことをきかない。
呼吸するたびに、息苦しくて、脈をうつ音が爆音で鳴り響いていた。
遠くで、誰かの呼ぶ声が聞こえる。
「……なおや……っ」
俺、呼ばれてる……すぐ近くで、泣き出しそうな、焦った声だ。
誰だっけ? と思った瞬間、きゅうっと胸が締め付けられた。
その声に呼ばれるのが、ひどく安心するのに、同時に恐ろしい。
……なんだろう……?
頭の中で、何かがひび割れる感覚がした。
熱がさらに上がる。
これは体温じゃない。
もっと別の――思い出してはいけない『何か』が、無理やり目を覚まそうとしている。
「……だめだ」
自分の声かも、そうじゃないかも、分からない。ただ胸が、どうしようもなく痛かった。
そのとき、熱すぎる俺の額に、冷たいものが触れた。
その直後、背中から強い力で抱きしめられる。必死で、離すまいとする力で。
「なおや、だいじょうぶ。……ぼく、ここにいる」
宵の声だ。
震えているのが、はっきりわかった。
布団の中で、宵が俺を丸ごと包み込むように抱え込んでいた。
熱を逃そうとするみたいに、何度も俺の額や首に触れ、俺の呼吸を確かめている。
(……宵、なんでそんなに怯えているの?)
宵の顔は見えていなくても、分かる。
焦ってる。怯えてる。
俺より、俺の身の異変を、ちゃんと分かってるみたいに。
そして、宵が俺の手を強く握り、呟いた。
「なおや、いかないで」
その一言が、決定的な引き金となった。
視界が、ぐらりと反転する。
身体が俺のじゃないみたいだ。内側から熱い何かが溢れて、皮膚を突き破ろうとしてる……!
(あ、……あつ、い)
宵の声が、遠くなっていく。
「なおや、あつい……! だめ、そっちに、いかないで!」
宵の声が聞こえなくなる。その代わりに、水の音が聞こえ、清涼な風が吹き抜けたのを感じた。
――どこだ、ここ。
そう思った瞬間、足元の感覚が変わっていた。
布団の柔らかさじゃない。土でも、床でもない。
静かで、冷たい空気が足首のあたりを撫でている。
息を吸い込むと、胸がひりっと痛んだ。
夜の匂いだ。澄んだ水と、満ちた月。そして――少し焦げたような火の粉の匂い。
ふと、無意識に、自分の手元を見た。
「……あれ?」
そこにあるのは、見慣れた大学生の手ではなかった。
指は少し太く、筋が浮いている。手のひらの皮膚が硬く、何度も火や刃物に触れてきた証拠のように、ところどころ白くなっていた。
ペンを持つ手じゃない。ゲームのコントローラーを握る手でもない。
――呪具を扱う手だ。
なぜか、そうだとわかった。
考えたわけじゃない。ただ身体が知っている。
手を握ると、指の動きが自然に馴染みすぎていて、逆に怖くなった。
力の込め方も、皮膚の厚みも、全部だ。何もかもが俺の知っている「南尚弥」とは別物だ。
思い出したように、顔を上げた。
目の前には、静かな湖が広がっていた。水面は鏡のように澄んでいて、夜空をそのまま映し出している。
「……宵湖」
口から、勝手にその名前が零れた。
博物館の絵巻物で見たあの景色。いや――絵なんかより、ずっと生々しい。
そして、俺がよく見る夢の景色だ。
湖の向こうには山の影が見える。
空には、満ちきった月が浮かんでいる。
月光が、水面を白く染めて、ゆらゆらと揺れていた。
胸が、ずきりと痛んだ。
ここを知っている。
何度も、何度も、俺は来たことがある。
ここで、
祈って、
灯りを掲げて、
――そして。
「……戻ってきたのか。俺は」
誰に向けた言葉かも分からないまま呟いた。
これは夢なんかじゃない。
けれど、今の『現実』でもない。
――俺は、思い出している。
かつて『灯弥』として、この世界を生きていたあの夜を。

