目を開けた瞬間、息苦しさを感じた。
胸が……重い。
いや、物理的にだ。
胸元にはじんわりとした温もりが広がり、呼吸に合わせて柔らかい何かが肌に当たった。
「……なに、これ……?」
視線を落としたところで、ようやく事態を理解した。
宵が俺の胸に顔を埋めて、ぴったりと隙間なく密着している。
「おっも……」
「なおや、じゅうでん中」
「は? そんな言葉、どこで覚えたの!?」
ツッコミを入れながらも、昨夜の出来事が、頭の中をよぎる。
死ぬほど怖い思いをした……けれど今は、それよりも!
じわじわと顔に熱が集まるのがわかる。
――俺がお前を、絶対に離さないから。
(……思い出しただけで死ねる! 昨日俺、なんであんな恥ずかしいことが言えたんだ!)
のたうち回りたい衝動を抑えて逃げ出そうとしたが、身体が動かない。
足元を見ると、俺の足に尻尾が『ほどけないように』きつく結ばれていた。
「なおや、ぼくのくすり。はなさない」
「〜〜〜っ!! 薬とか言わないで! 恥ずいだろ!」
昨日までの俺なら笑って流せていたはずなのに、自分の想いを認めてしまった今の俺には、宵の言動すべてが破壊力が跳ね上がっている。
「じゅうでん、たりない。もっと、もっと……」
宵は無邪気な顔で寝返りを打つように動き、さらに深く、俺の胸の中に滑り込んできた。
「……あー、もう、……好きにしたら?」
逃げるつもりだったのに。気づけば俺は、宵の背中にそっと腕を回していた。
昨日までと同じ、宵。
なのに――「好きだ」と自覚しただけで、こんなに全部がやかましくなるなんて。
小さくため息をついた俺の腕の中で、宵が満足そうに、ふう、と息を吐いた。
「あら」
ふいに、部屋に控えめな声が響いた。
「起きていたのねぇ」
俺は息が止まった。ついでに心臓も止まりかけた。
「お、ばあちゃん……!?」
いつの間にか、部屋の扉が少し開いている。
そこには、朝用の割烹着姿の俺の祖母が立っていた。おばあちゃんは、密着している俺と宵を、静かに眺める。
……終わった。
「い、いや、これは、その……昨日いろいろあって、その流れで……」
説明しようとしても、言葉が何一つ出てこない。
だって、どう説明するの!? この状況! アウトだろ。
「朝は冷えるものねえ。朝ご飯、できてるわよ」
おばあちゃんは何も見ていないかのように、扉を閉め去っていった。
何も言っていないのに、全てを理解された顔で。
**
居間に降り、おばあちゃん特製の朝食を宵と並んで食べ始める。
縁側の向こうでは、おばあちゃんが洗濯物を干していた。昨夜の戦いで泥のようなものを浴び、狐火でところどころ焦げている、ボロボロになった俺たちの服だ。
食後の片付けをしていると、おばあちゃんが台所やってきて、静かに口を開いた。
「お疲れ様だったのね。狐火が綺麗に夜を焼いたのねぇ」
昨夜の光景を見ていたかのようにおばあちゃんはそう言って、古びた石のようなものを俺の手のひらに乗せてきた。
「ん? なにこれ」
「尚弥、これを持ってなさい。暗闇を照らすためじゃないわ。自分の中の『火』を忘れないためよ」
受け取ると、手のひらにゴツゴツとした硬い感触と重みが伝わった。
「火? ……また意味わかんないこと言って」
「ふふ。これは『火打ち石』よ。宵くんも、今度は間違えないわよね?」
俺は手の中の冷たい石を、まじまじと見つめた。火打ち石なんて、時代劇とかゲームの中でしか見たことない。
隣にいた宵は、首を傾げて不思議そうにその石を眺めている。
「大事にするよ。ありがと、おばあちゃん」
そう言って顔を上げた時、ふとおばあちゃんのもう片方の手が、何かを慈しむように撫でているのに気づいた。
「……おばあちゃん、それ、何?」
彼女の指先にあったのは、白い狐の形をした、小さな石のお守りのようなものだった。
そのお守りを見た瞬間、昨日俺を必死に守ってくれた銀色の背中が重なった。
けれど、その狐の耳は、根元からぽっきりと折れている。
全体に細かなひび割れが走り、今にも砕け散ってしまいそうだった。
「これ? ……ええ、あの子の代わりに、役目を果たしてくれただけよ」
おばあちゃんは困ったような、けれどどこか誇らしげな顔で微笑んだ。
「あの子の、代わりに……?」
問い返したが、おばあちゃんはそれ以上何も答えず、それを大切そうに懐へとしまい込んだ。
**
結局、俺は午前中のうちに外出することにした。
昨夜の黒い影、おばあちゃんが持っていたボロボロの狐、そして自分の中に残るあの激痛。
これらすべてを「ただの偶然」で済ませるには、もう限界だった。
おばあちゃんは、俺の知らない何かを知っている。けれど、教えてはくれない。
なら、自分で調べるしかない。
幸い今日は休日だ。俺は宵を連れて、街の歴史博物館へ向かうことにした。
この土地に伝わる狐の伝説や、あの『影』の正体について、何かしら手がかりがあるかもしれない。
駅へ向かう道を歩いていると、宵が落ち着かない様子で、チラチラとで俺を覗き込んでくる。
「……なに?」
「きのう、なおやがしてくれたやつ、もういっかい、したい」
そう言って、自分の額を指差す。
おでこを合わせた、あのときのことだ……。
思い出しただけで、ぶわっと顔が熱くなった。
「あれは、お、お前が消えそうだったからじゃん! ……家帰ってからな!」
**
市立博物館に到着し、『郷土の伝説コーナー』の展示室に足を踏み入れた。
展示室は思ったより暗く、自分たちの足音だけが響く。
俺は宵の手をそっと握った。もちろん、見られていないことを確認してから。
「これ、なに?」
宵がショーケースの中の、古びた木彫りの狐を指差す。
「これは狐の木彫りだってさ。この街には狐の神様が住んでるから……」
書いてある解説文を噛み砕いて説明しながら、俺はなんとも言えない気分になった。
俺の隣で、宵は文字を読むんじゃなく気配を見ている感じだった。
隣の展示室に移動すると、そこには伝承本のコーナーがあった。
そこで真っ先に目に入ったのは、祭りの夜に見たあの『一本の桜』の伝承だった。
『現在でも宵原の川辺に佇む、一本の桜の木。
かつて一夜にして咲き、一夜にして散ったと云われる白銀の桜。
それは神獣が去る際に残した涙と伝えられている。』
……涙、だって?
ページをめくる手が止まった。
神様が泣くわけないだろ、と頭では思う。伝説なんて、大体大袈裟な言葉で飾るもんだ。
けれど、あの桜の下で宵が流していた、大粒の涙が、勝手に浮かぶ。
「……関係ない」
小さく呟いて、視線を逸らす。
ただの偶然、昔話だ。
でもあの桜、そんな伝説があったんだ。全然知らなかった。それに、宵原ってあそこの地名……?
宵は難しい文字には興味がないらしく、ただ俺の繋いだ手を不思議そうに見つめたり、展示ケースに鼻を近づけて「ふるいにおい」と呟いたりしていた。
その隣の展示。灯籠を持った人々が並んで歩く、古い絵巻が広げられていた。
『かつてこの街には、「灯籠守り」という一族が存在した。』
灯籠……。祭りの夜に持った、あの橙色の灯りを思い出す。
『……彼らが掲げる灯りはあやかしを退け神獣を導いた。』
――これが「灯籠祭り」の由来である。
「なんだそれ……」
なぜか、文字を追うほど胸がざわざわとした。
あの夜、宵を抱きしめたときに、自分の身体から漏れだしたあの暖かな光。
「偶然だろ」
自分に言い聞かせるように、無理やりページを閉じた。これ以上読んだら、逃げられなくなりそうで怖かった。
次の隣の展示に移った。そこには、開かれた古い古文書と、その解説が並んでいた。
『夜の端に住まう、光を食らう塵。古来より、人はそれを「夜屑」と呼び恐れられた。』
……夜屑。
その文字を目にした瞬間、指先から血の気が引いていくのが分かった。
「あー……やっぱり、か」
……パズルの最後のピースが、嫌な音を立ててはまったような、最悪な納得感だった。
あいつは宵じゃなくて、この街でもなくて。
俺だけを執拗に狙っていたんだ。
「俺の中に残ってる……ものか?」
言葉にした瞬間、喉が詰まった。
思い出したくないもの。忘れていたもの。
『夜屑』はそれを知っていた。だから俺を引きずりこもうとした……?
「最悪だ……」
なぜか、否定できないほどの嫌な予感がした。

