朝、目が覚めた。
まどろみの中、肌に触れる温度がなんだか心地いい……。
――けれど、すぐに違和感があることに気づいた。
体が1ミリも動かないのだ。
俺はまた宵の腕の中にすっぽりと収まっていた。上半身は腕に、腰は尻尾に、がっちりとホールドされている。
(なんで俺、毎朝この距離なの?)
いや、慣れるにも程がある。
そっと抜け出そうと身をよじると、かえって腕の力が強くなった。
宵が目を閉じたまま耳元で「おはよう」と呟いた。
「起きてんの? 準備するから、ほら離して」
「だめ」
「却下だ」
なんでこんなに力が強いんだ。
やっぱりキツネが混ざってるからなのか?
なんとか起き上がろうとモゾモゾしていたら、宵の唇が俺の頬に当たった。
当たったというか、確実に「ちゅっ」って音がした。
今、した……よな?
「おい! なに今の! 今、した?」
「もっと、したいー」
「はああ? ダメ! やめて!」
「もっともっと、したいんだもん」
やばい、やばいって。これ以上はほんとに! いろいろと持たない!!
「もう学校行く!!」
「さみしい」
「家でおとなしくしといて?」
「むかえにいく」
「来なくていいから!」
逃げるように家を飛び出した。電車に乗って、スマホを触る。
……大学ってこんなにありがたかったっけ?
普通のぎゅうぎゅうの満員電車、最高!
耳も尻尾も見えない日常ありがとう!!
叫びだしたいくらい、感謝の気持ちが溢れる。
**
学校に着いて、いつも通り講義を受けて、いつも通り坂下と他愛のない話で盛り上がる。
学食の騒がしさの中にいると、ようやく呼吸が整ってくる気がした。
日替わり定食の唐揚げを口に運びながら、坂下が不意に聞いてきた。
「また寝不足??」
「……寝不足だよぉ」
「なんか悩みでもあんの? 恋とか? あ、まさか彼女できたとか?」
「ない」
「違うのかよ、じゃ、彼氏とか?」
「もっとない」
坂下がふっと、茶化すのをやめて目を細めた。
「まあ……なんかあったら言えよ」
「何を?」
「知らんけど。愚痴でも飯の誘いでも、女でも男でも」
「雑すぎる励まし方だな」
けれど、その適当なやりとりが今の俺には染みた。
「ありがとな、坂下」
「唐揚げ1個でチャラにしてやるよ」
「やっす」
二人で笑い合う。そして、笑いながら俺は思った。
――ああ、これだ。これが『普通』だ。
――この普通を、守りたい。
俺はずっと、こういう場所に戻ってきたかったんだ。
それなのに。
ふとした瞬間の沈黙に、頭の中で宵の声が響いた。
『なおや……』
止まる箸。
(ダァァァァ!! 余計なことは考えるな俺!)
**
すべての講義が終わり、校舎を出たとき。
正門の外で、人だかりの中にひときわ目立つ銀色の頭を見つけて絶句した。
(……ほんとに迎えに来たの?)
人も多い時間帯、誰もが足を止めて彼を振り返っている。
宵は俺の姿を見つけると、ぱあっと顔を輝かせて小走りで寄ってきた。そのまま俺の手を取り、屈託のない笑みを向ける。
「なおや、きょう、がんばったね」
「俺、なんで評価されてんの? 恥ずかしいんだけど。……ていうか、マジで来たの?」
隣で歩いてた坂下が、口を開いた。
「誰?」
「よい」
俺が答えるより早く、宵がニコっとして答える。
「えっと、名前は訊いてないけど……」
「落ち着け、坂下。俺も説明できないから」
その時、宵の手が俺の袖をぎゅっと掴んだ。
彼はさっきまでの笑顔を消して、いつになく鋭い視線で坂下をじろじろと観察し始めた。
(なにその目。なんで坂下と俺の距離測ってんの?)
もしかして……嫉妬?
突拍子もない考えがよぎり、胸がちくっと痛んだ。
坂下と別れ、宵と二人で家路につく。
隣で歩く宵を、横目でそっと盗み見る。
夕日に照らされた横顔は、恐ろしいほどに綺麗な顔だ。一緒に歩いている自分の平凡さが、嫌というほど思い知らされる。
それなのに、こう歩いてると、歩幅が揃うんだよなぁ。
そんなことを考えていたら、手袋の上から手を包み込まれた。
「ん……? なに?」
宵は上目遣いで、ぼそっと言った。
「なおや、て、つなご」
「つなぐ理由、ある?」
宵は顔を、赤らめて言う。
「て、ほしい」
あー、意味わかんないんだけど。
けれど、指先に力が入って、そのまま手袋越しに指を絡められた。
「勝手に繋いだじゃん、お前」
宵は満足げに微笑んでる。
でもまあ……なんかあったかいし、いいや。
そんな風に、俺はわずかな平穏に甘んじていた、その時だった。
「……ん?」
――その時の俺は、この穏やかな時間が、一瞬で塗り替えられるなんて思ってもみなかったんだ。

