これは俺からのささやかな復讐





 翌日の日曜日、朝からランチタイムまで入っていたバイトは、伊藤さんに頼み込んでシフトを変わってもらった。
 先週変わってもらったから全然いいよと伊藤さんは快く受けてくれて、ホッとした。
 ──バイトも、もう辞めないといけない。
 えみ羽より先に、俺の方が逃げるように辞めるなんて思わなかった。

「川嶋、飯くらい食ったらどうだ?」

 部屋の隅で毛布に丸まる俺に、先生が声を掛けた。
 一人暮らしのシンプルな部屋は、先生らしくきっちり片付いていて、本棚には教科書や科学書の背表紙が揃えて並んでいる。
 時間はいつの間にか午後を回っていた。

「すいません……食えません……」

 カラッカラでゾンビみたいな声だった。

 昨夜、家に帰れなくなった俺を拾ってくれたのは先生だった。
 ぐちゃぐちゃに泣いたまま「終わっちゃった」とメッセージを送ると、すぐに折り返し電話がかかってきた。
 先生はちょうど外出先から戻る途中だったらしい。
 マンションのエントランスで耀司と鉢合わせるかもしれない。そう思うだけで感情はぐちゃぐちゃで、顔を合わせるのもキツくて、帰れなかった。

「別に今日一日食わなくったって死にはしないけど、空腹を感じた時は素直に食えよ」
「……はい」

 先生は一昨日退院したばかりで、まだ頭に包帯が巻かれていた。
 でも明日から学校には行くと言う。

 被った毛布をぎゅっと掴む。
 消えたい。

 耀司の中から俺を消して欲しい。

 幼馴染なんか最初からいなかった世界線に行きたい。

「実は昨日、幸を品川駅まで送ってきた帰りだった」
「……」

 返事はせず、もぞもぞと毛布から顔だけを出した。
 先生はソファに座っていて、携帯を操作していた。

「俺の病室に幸が来たら、会わないなんて約束を守れなくなって、ここに戻ってる間毎日会ってた」
 ああそういえば。
 俺が田崎と会ったのは先生の病院だった。田崎は当然のように付き添っていたから、そんなこと頭から抜けていた。
「新幹線のホームで、離れがたくて、繋いだ手をほどけなかった。このまま俺も大阪まで乗ってしまおうかとすら思った」

 先生は携帯を握ったまま画面を見ていた。
 指が左右にスライドする。
 田崎の写真を見ているのかもしれない。

「幸を目の前にすると駄目だな。川嶋の前では先生の顔をして大人ぶっても、恋愛に浮かれて約束なんか余裕でぶっちぎる」
「別に……約束なんて田崎とですよね? もう卒業してんだし、少しくらい破ったっていいんじゃないですか」

 そう言うと、まるで驚いたように先生は俺を見た。

「ん? 俺は川嶋に約束しただろ? 二学期の終業式前、理科準備室に呼んで、幸が二十歳になるまで会わないって」
「俺?」
「最初に見られた時も、俺はおまえに反省の手紙を書いて、学校では先生と生徒の立場を守るって誓っただろ」
「すいません……あれ長すぎて、一文字も読んでないです……」

 そう言うと、先生は拍子抜けしたのか、わかりやすく脱力していた。

「おまえ……まあいい。俺と幸の証人は川嶋なんだ。だからおまえがちゃんとしてくれないと、俺達は暴走するぞ」
「いいですよ。また何かあったら俺が恋人役になるんで」

 どうせもうなんの問題もない。
 先生と田崎の恋のサポートくらい、いくらでもできる。

 毛布から頭だけを出したまま、身体を丸めた。
 失恋の辛さにまた勝手に涙が出てきてしまって鼻をすする。

 俺は男が好きなのか、女が好きなのか、まだわからない。

 初めて好きになったのが耀司だったから、自分のセクシャリティすらわからないポンコツだ。

「また泣き出してんのか。嫌でもそのうちシャキッとしてもらうからな」
「明日から学校ですもんね……先生も退院したばかりなのに迷惑かけてすみません。この涙が止まったら帰るんで」
「俺達のがよっぽど川嶋に迷惑かけたんだからそこは気にしなくていいさ」

 先生は壁にかけてある時計をチラリと見て立ち上がった。

 今日の耀司は俺と同じ時間でバイトに入っている。
 朝イチのモーニングからランチタイム終了まで、その時間を避けて帰ればいい。
 俺がシフトを変更して、耀司はホッとしたかもしれない。
 昨日だって俺と一緒が嫌でえみ羽と変わったんだろうし。

 こうやって俺達はお互いを避けていくんだな。
 ああ、想えば想うほど涙が出てきてしまって止まってくれない。

「俺と幸としてはな、原因に俺達が起因してる訳だから、責任も感じてる」
「もういいんですって、マジで」

 先生は携帯を打ちながら着替えをし、身だしなみを整え始めていた。
 さっきまではだるっとした家着で、髪ももっさりとさせたままだったのに。

「昨日山吹はバイトに来なかっただろう?」
「ああ、はい。なんで知ってるんですか」
「俺と幸と、それから山吹と、三人で会ってたからな」
「は?!」

 毛布を弾き飛ばして立ち上がる。
 先生はすっかりと身支度を整えていた。

「おまえのことは山吹に連絡してある。どうせ携帯の電源を切ってるんだろう?」
「待って、どうして耀司と先生がっ」
「そりゃ元担任だからな。連絡先くらい知ってるさ。それにおまえはまだ山吹に気持ちを伝えていないだろ?」
「──ちょ、そんな、勝手に──」

 先生の携帯が鳴る。

 応答すると短く『その先のグレーのマンション八〇五だ』と言って切る。

 心臓がドクドクと大きな音を立て始めた。

「先生──それ誰ですか? なんで、そんな、出かけるみたいに──」

 携帯をポケットにしまうと、先生は棒立ちする俺の前にきてタオルを手渡した。

「ほら、涙の跡が残ってるぞ。今すぐ顔を洗ってリセットしてこい。もうそこまで来てるからな」
「だれが──」

 俺の声が落ちた時──インターホンが鳴った。

 ──嘘。

 俺は凍り付いたまま、視線だけが吸い寄せられるように玄関に向いた。
 先生がインターホンを確認する。
 背で見えないモニター画面。
 山吹です、と答えた声は俺のよく知る耀司の声で──

 心臓がうるさい。

 ドカドカと頭の中を蹴られたように響いて、思考を奪う。

「緑」

 耀司が俺を呼んだ。
 でも身体が震えて動けない。

 あの夜のこと。
 公園でのこと。

 色々なシーンが頭の中でぐちゃぐちゃになって、咄嗟俺は毛布を掴んで床の上に丸まった。

「俺は外に出てくる。一時間したら戻るから、山吹、それまで川嶋を任せる」
「──わかりました」

 先生と耀司の淡々としたやり取りだった。
 その後ドアの閉まる音がして、静かになった。

「出てこいよ」
「ごめっ」

 耀司の声に、咄嗟俺は謝っていた。

「──謝るんなら俺の顔を見て謝れよ」

 毛布の中に隠れていても、耀司がすく傍にいるのがわかる。

「緑」

 毛布が引っ張られる。
 反射的に引き返してしまい、更に強い力で毛布を取られ、うずくまる俺の背が丸出しになった。

「そんなんしてたらあっという間にムトーちゃん帰ってくんぞ。おら、こっちこい」

 肩を掴まれて、否が応でも頭を上げる。
 また涙がボロボロ出てきた。
 耀司はただ泣くだけの俺の腕を取り、引きずるようにしてソファに座らせた。

「俺を見ろ」

 ドカリと横に座った耀司が、乱暴な手つきで俺の両頬を挟んだ。
 涙の膜の向こうで耀司はあきらかに怒っていて、でもどこか困ったような複雑な顔をしていた。

「ボロボロじゃんかよ顔」
「ごめん……」
「ごめんしか言えねーの?」
「……ごめ……」

 掠れた声が消える。

 嫌われたくない──もう嫌われてるのに、まだ足掻いている。

 耀司は足元のテーブルに乗っていたティッシュを取ると、俺の目元と鼻水を拭った。

「田崎が大阪に帰る前に連絡してきたんだよ」
「───」
「それで昨日、バイト変わってもらって会って来た。ムトーちゃんと一緒にいて、やっと緑の言ってたことが呑み込めた。田崎とムトーちゃんがキスしてる所を見ちまったんだって? それで、二人のために緑が田崎の彼氏になりすましたんだってな」

 淡々と告げる耀司に、顔が上げられなかった。

「そんで日曜の飯の後、ムトーちゃん事故に巻き込まれて病院て」

「あれは──」

「なんで言わねえ? あの田崎の電話、ムトーちゃんの事故でかけてきたんだろ? 俺に言えたはずなのに、なんで言わねーんだよ。いつもいつも緑は話さねえよな。どんなに緑を縛って独占しても、俺はいつまで経ってもおまえの心がわからねーままだ」

「──…」

 苛々と焦燥が混じった声は、いつもの耀司とは違くて。
 本音を剥き出す耀司に、俺はいたたまれなさしかなく、身を縮こませているしかできなかった。

「俺が高校の時田崎の話をするなって言ったから? 田崎を避けさせてたから言えなかった? 俺が全部、緑にそうさせてたんだよな。俺のせいなんだろ?!」

「違うっ、違うからっ」

 俺が悪いのになぜ耀司が──遮ると、真っすぐ俺を見ている耀司と目と目が合う。

「違うんなら言えよ。俺に話してないこと。ここ、この中にたくさんあんじゃねーの?」

 耀司の指先が俺の心臓をトンと突く。
 その真意は──

 真剣な瞳が俺だけを映していた。

「言えよ、表面上の理由なんていらねーから」
「嘘を……ついててごめん」

 考えるより先に出たのはやはり謝罪で、すぐに耀司の眉間に深い皺が寄せられた。

「ちげーだろ。謝って欲しいんじゃねえの。いい加減俺は緑のこの中を知りてーんだよ。全部吐き出せ」
「だって、そうしたら、耀司との友情が続けられなくなる」
「は? まだンなこと言ってんのかよ」
「俺には大事なことだから、」
「……マジで田崎が好きだって言うのかよ、カモフラでも、それでもあいつのことが好きで──」
「好きじゃない! 俺は、ずっと、耀司だけが、耀司だけが……」

 喉まで出かかった告白を呑み込み、両手をクロスさせ顔を隠した。

 友達が終わる。
 耀司は俺に強く揺るぎない友情を求めているのに、俺はもう応えられない──

「はっきり言えよ、俺がなに? もうさ、秘密を持たれんのも、嘘つかれんのもしんどいんだよ」

 耀司は目元を歪ませて、心の奥底から絞り出したように苦し気に言う。
 耀司を苦しませているのは俺だ。

 ──もう耀司に嘘をつかない。

 そう決めたんだ。
 自分なんかいい。
 俺は、耀司だけを優先するんだから。

 息を吸う。そしてまっすぐ耀司を見た。

「──好きだ」

 それはするりと言葉に出た。

「耀司が好きなんだ。ずっと、子供の頃から、俺は、耀司だけが好きだったんだ──…」

「やっと、言ったな」

 驚くでもなく、待ちわびたように耀司は答えた。
 そうじゃない、俺は──

「好きってのはそーゆう好きじゃない。耀司が俺を好きでいてくれてるのは知ってる。けど、違うんだ。俺は、おまえを好きな女の子と同じ──恋愛の意味で好きなんだ」

 告白と同時に出た涙がぼたぼたと落ちた。
 その目に、耀司のふわりと笑った顔が映ると──そのまま抱き締められて、何が起こったのかわからなかった。

「俺がどんな想いでいたかなんて緑はこれっぽっちも知らねーんだろ」

 切なさと、苦しさと、そして抑制の混ざった声だった。
 俺は耀司に抱き込まれたままそれを聞いていた。

「高校ン時、何の接点もなかった田崎幸が突然出てきてつき合ってる? ふざけんなよ、おまえ好きか聞いても否定しねーし。頭ぶん殴られた気分だった。俺の知らねー間に緑を取られたのが悔しくて、理不尽な条件出して、無理矢理独占して、田崎との接点を潰して。必死だった。別れろってずっと願ってた」

 耀司は苦々しく俯くと、俺の背に回した腕に力を込めた。

「卒業して別れたって言われても、俺が緑を束縛してたせいだし、おまえ時々辛そうな顔するから、本当は田崎をまだ好きなんじゃねーかって……緑の携帯気になっちまって、何度も何度も確認して。俺のせいじゃん、別れさしたの──マジ罪悪感しかなかった」

「ごめっ、俺、そんなっ」

 顔を起こすと、耀司は遮った。

「いい、聞けよ。なのにおまえらつき合ってなかったってなんだよ、全部嘘だったって。俺ずっと騙されてたんじゃん。めっちゃ腹立ったわ。秘密にされて必死になってた俺、すげーダセェし。緑を取られねーように無理矢理縛り付けて嫌なヤツじゃん。心狭めーし、自己中だし。自信なんか全然なくて──クソっ、あの日からずっと、俺だけが必死だったんかよ」

 耀司は一気に吐き出すと、歪んだ目元をきゅっと伏せた。

 俺だけが張り裂けそうな想いを持ってるんだと思ってた。
 抱えきれない感情の重さに必死になって立っているしかできなくて、自分を守るので精一杯だった。
 耀司もずっと傷ついたまま、俺といたなんて──

 耀司の胸元の服を掴んだ。

「俺が耀司に持ってる感情は友情じゃないよ。それでも一緒にいていいの?」

 ずっと幼馴染で、でも好きだけが言えなかった。

 言ったら終わると思ってた。

「俺達はもう、幼馴染のままじゃ駄目なんだよ」

「──え」

 抱き込む耀司の腕に力が入った。

「馬鹿、不安になんな。俺はずっと緑だけが好きなのに、なんでわかんねーんだよ」
「うそ……」
「嘘じゃねーよ。俺こそ緑を離したくなくて、ずっと縛り付けて、逃げらんねーよう必死だったのに」

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃのまま顔を上げた。
 俺を見た耀司の顔が次第晴れていく。

「俺、もう嫌われたんだと思ってた」
「嫌うかよ。俺は一人に決めたらとことん独占する奴って知ってんだろ」
「それは友達だからだって」
「こんなにずっと一緒にいて、緑だけ大事にしてんのに。──好きだってわからねーなんて、馬鹿なヤツ」

 胸が爆発しそうだった。

 耀司の傍にいるには、友情じゃないと駄目なんだってずっと思ってた。
 だから友情でない感情がバレたら終わってしまうんだと──