この街の遥か上空には、もうひとつの構造があった――。
いや、構造と呼ぶには、あまりに静謐で、あまりに美しい五キロメートルにわたる構造体だった。
高度三万メートル。
雲の遥か上方、成層圏と呼ばれる領域に、湖と同じ直径五キロの純白の気球が浮かんでいる。
天蓋。
人々はそれを、畏敬を込めてそう呼んだ。
三本の炭素繊維の係留索が、この巨大な人工物を大地に繋ぎ止めている。細くしなやかな糸が、まるで天空の宝玉を操るかのように。
夏の灼熱の日々にはその白い腹が街全体に優しい日陰を落とし、冬の夜は覆って放射冷却を和らげていた。
百万の民が、その恩恵の下で健やかに暮らしている。
上面に張り巡らされた無数の太陽光パネルは、雲のはるか上で日中休むことなく光を貪り、膨大な電力を生み出し続けていた。日中はこの国を動かすエネルギーの大部分が、あの天空の楼閣から降り注いでいるのだ。
そして森羅万象を繋ぐアンテナ群。
宇宙際から国中に張り巡らされた情報ネットワークは、アルカナタワーのデータセンターとAR眼鏡やアンドロイド、ロボットを結んでいた。
人々の視界に映る拡張現実の世界は、すべてあの天蓋から発せられる電波によって紡がれているのだ。
気球の底面に設えられた巨大なスクリーン。日中はプロジェクションマッピングによって大アルカナ王国の国旗『剣に星の紋章』が、青空を背景に誇らしげに揺らめいていた。
国中どこからでも見上げれば、そこには常に、国旗が翻っているのだ。
そして夜になると国旗は静かに姿を消し、代わりに芸術家たちの夢が、夜空一面に花開く。
幻想的な光のショー。
星々と競うように踊る色彩の洪水。
毎晩異なる映像作品が上映され、人々は夜空を見上げながらワインを傾け、語り合い、時に涙した。
ある夜は、海の底を泳ぐ幻の魚たちが空を渡り、ある夜は伝説の英雄『アルカナ』たちの物語が光で紡がれた。
またある夜は、ただただ美しい抽象画が、音楽と共に空を染め上げる。
この国に住む者にとって、夜空を見上げることは、毎晩の小さな祝祭だった。
そして、この天蓋は天気さえよければ六百キロ離れた場所からも見える。
周辺国の人々は、地平線の彼方に浮かぶその映像の輝きを見つめ、恐れ慄いていた。
「あれは……一体、なんなのだ」
「神が降臨したのか? 悪魔の仕業か?」
農夫たちは畑仕事の手を止め、兵士たちは剣を握りしめ、商人たちは荷物を抱えたまま立ち尽くした。
あの気球の下に、未来の国がある。
働かなくても良い、夢のような国がある。
その噂は、行商人の口から口へ、吟遊詩人の歌から歌へ、まるで野火のように大陸中に広まっていった。
ある者は憧れを抱き密かに旅立つ準備を始め、ある者は恐怖に震え神殿で祈りを捧げる。
そして各国の王や貴族たちは、焦燥と猜疑心に駆られていた。
「そんな国が存在するはずがない」
「しかし、もし本当だとしたら……」
彼らの不安は日増しに膨らんでいった――――。
◇
エリナが、キラキラと輝く湖面を見つめながら言った。
「今日は、噂の真偽を確かめに、各国の要人たちがやってくるわけね」
朝日に照らされた彼女の横顔は、凛として美しい。しかし、その黒曜石の瞳の奥には、複雑な光が宿っている。
この国を作り上げるまでに、どれほどの困難があったことか。
受け入れた難民の暴動、犯罪、さらに災害に障害、時には命の危機さえ感じる中、必死に活路を見出そうと奮闘した日々。
そのすべてを乗り越えて、ようやくここまで来たのだ。
「ああ。見せつけてやろうじゃないか」
レオンは、コーヒーカップをテーブルに置いて、にやりと笑った。
「僕たちが創った、この国を」
その翠色の瞳に、確かな自信が宿っている。
大アルカナ王国。
かつて追放された落ちこぼれが、落ちこぼれの少女たちと共に築き上げた、夢の国。
今日、その真価を世界に示す時が来た。
◇
今日は、年に一度の収穫祭であると同時に、大アルカナ王国建国十五周年の記念式典が執り行われる。
鎖国を解き、積極的に交流を図っていくまさに方針転換の日なのだ。
各国から賓客が訪れ、初めてこの国の姿を目の当たりにする。
吹き飛んだ魔の山跡に作られたという、意味不明の王国。
アステリア公爵の娘もいるという、「アルカナ」という冒険者パーティが建国したという謎の国。
各地から奴隷や貧民の逃避先になっているという報告もあり、どの国も正式な国交を開こうとはしていなかった。
――奴隷と貧民の国と、いったい何を交易するというのだ?
そう嘲笑っていたのだ、つい最近までは。
だが。
夜な夜な怪しい光が輝いているという報告。
商人たちからの、交易を許可してほしいという熱心な嘆願。
さらには、自国の民が次々とあの国へ逃げ出しているという、看過できない事態。
ついに各国の首脳たちは、重い腰を上げざるを得なくなった。
一度訪問して、その目で確かめようという矢先に届いた記念式典招待状。
王都を有するレスタリア王国もこれに応じることとなった。
いや、構造と呼ぶには、あまりに静謐で、あまりに美しい五キロメートルにわたる構造体だった。
高度三万メートル。
雲の遥か上方、成層圏と呼ばれる領域に、湖と同じ直径五キロの純白の気球が浮かんでいる。
天蓋。
人々はそれを、畏敬を込めてそう呼んだ。
三本の炭素繊維の係留索が、この巨大な人工物を大地に繋ぎ止めている。細くしなやかな糸が、まるで天空の宝玉を操るかのように。
夏の灼熱の日々にはその白い腹が街全体に優しい日陰を落とし、冬の夜は覆って放射冷却を和らげていた。
百万の民が、その恩恵の下で健やかに暮らしている。
上面に張り巡らされた無数の太陽光パネルは、雲のはるか上で日中休むことなく光を貪り、膨大な電力を生み出し続けていた。日中はこの国を動かすエネルギーの大部分が、あの天空の楼閣から降り注いでいるのだ。
そして森羅万象を繋ぐアンテナ群。
宇宙際から国中に張り巡らされた情報ネットワークは、アルカナタワーのデータセンターとAR眼鏡やアンドロイド、ロボットを結んでいた。
人々の視界に映る拡張現実の世界は、すべてあの天蓋から発せられる電波によって紡がれているのだ。
気球の底面に設えられた巨大なスクリーン。日中はプロジェクションマッピングによって大アルカナ王国の国旗『剣に星の紋章』が、青空を背景に誇らしげに揺らめいていた。
国中どこからでも見上げれば、そこには常に、国旗が翻っているのだ。
そして夜になると国旗は静かに姿を消し、代わりに芸術家たちの夢が、夜空一面に花開く。
幻想的な光のショー。
星々と競うように踊る色彩の洪水。
毎晩異なる映像作品が上映され、人々は夜空を見上げながらワインを傾け、語り合い、時に涙した。
ある夜は、海の底を泳ぐ幻の魚たちが空を渡り、ある夜は伝説の英雄『アルカナ』たちの物語が光で紡がれた。
またある夜は、ただただ美しい抽象画が、音楽と共に空を染め上げる。
この国に住む者にとって、夜空を見上げることは、毎晩の小さな祝祭だった。
そして、この天蓋は天気さえよければ六百キロ離れた場所からも見える。
周辺国の人々は、地平線の彼方に浮かぶその映像の輝きを見つめ、恐れ慄いていた。
「あれは……一体、なんなのだ」
「神が降臨したのか? 悪魔の仕業か?」
農夫たちは畑仕事の手を止め、兵士たちは剣を握りしめ、商人たちは荷物を抱えたまま立ち尽くした。
あの気球の下に、未来の国がある。
働かなくても良い、夢のような国がある。
その噂は、行商人の口から口へ、吟遊詩人の歌から歌へ、まるで野火のように大陸中に広まっていった。
ある者は憧れを抱き密かに旅立つ準備を始め、ある者は恐怖に震え神殿で祈りを捧げる。
そして各国の王や貴族たちは、焦燥と猜疑心に駆られていた。
「そんな国が存在するはずがない」
「しかし、もし本当だとしたら……」
彼らの不安は日増しに膨らんでいった――――。
◇
エリナが、キラキラと輝く湖面を見つめながら言った。
「今日は、噂の真偽を確かめに、各国の要人たちがやってくるわけね」
朝日に照らされた彼女の横顔は、凛として美しい。しかし、その黒曜石の瞳の奥には、複雑な光が宿っている。
この国を作り上げるまでに、どれほどの困難があったことか。
受け入れた難民の暴動、犯罪、さらに災害に障害、時には命の危機さえ感じる中、必死に活路を見出そうと奮闘した日々。
そのすべてを乗り越えて、ようやくここまで来たのだ。
「ああ。見せつけてやろうじゃないか」
レオンは、コーヒーカップをテーブルに置いて、にやりと笑った。
「僕たちが創った、この国を」
その翠色の瞳に、確かな自信が宿っている。
大アルカナ王国。
かつて追放された落ちこぼれが、落ちこぼれの少女たちと共に築き上げた、夢の国。
今日、その真価を世界に示す時が来た。
◇
今日は、年に一度の収穫祭であると同時に、大アルカナ王国建国十五周年の記念式典が執り行われる。
鎖国を解き、積極的に交流を図っていくまさに方針転換の日なのだ。
各国から賓客が訪れ、初めてこの国の姿を目の当たりにする。
吹き飛んだ魔の山跡に作られたという、意味不明の王国。
アステリア公爵の娘もいるという、「アルカナ」という冒険者パーティが建国したという謎の国。
各地から奴隷や貧民の逃避先になっているという報告もあり、どの国も正式な国交を開こうとはしていなかった。
――奴隷と貧民の国と、いったい何を交易するというのだ?
そう嘲笑っていたのだ、つい最近までは。
だが。
夜な夜な怪しい光が輝いているという報告。
商人たちからの、交易を許可してほしいという熱心な嘆願。
さらには、自国の民が次々とあの国へ逃げ出しているという、看過できない事態。
ついに各国の首脳たちは、重い腰を上げざるを得なくなった。
一度訪問して、その目で確かめようという矢先に届いた記念式典招待状。
王都を有するレスタリア王国もこれに応じることとなった。



