狭い保健室。
高木先生は一台しかないベッドの上に横たわっていた。
高木先生は悪夢を見ているらしく、「左右を……」「三回……」などと苦しそうにうわごとを漏らしている。
僕と蜜木はベッドの脇で丸椅子に並んで腰掛け、高木先生が目を覚ますのを静かに待っていた。
なぜこんなことになってしまったのだろう。
僕は目を閉じ、眉間に皺を寄せ、ほんの三十分ほど前の出来事を思い返していた。
▽
幽霊騒ぎを起こした後、僕は蜜木をつれてすぐにその場から逃走した。逃亡先は第二美術室である。
第二美術室前の廊下。蜜木が開けてくれた第二美術室の空気窓へ、僕はきのこアンブレラくんをアンダースローで投げ入れた。
その空気窓から、ほふく全身で二人順番に第二美術室の中へ入る。
そして、焦りで言葉をもつれさせながら、蜜木に状況を説明した。
「どうしよう」
説明し終えると、僕は頭を抱えて床に崩れ落ちた。
まさかこんな騒動になるとは思わなかったのだ。サスペンスドラマでありがちな、『そんなつもりじゃなかったんです』と言って崖の上で泣き崩れる犯人の気持ちが、今ならよくわかる。本当に、そんなつもりじゃなかったのだ。
そんな僕の背中をさすって、蜜木が耳元で囁く。
「証拠は残ってないんだからさ、黙っておけば大丈夫じゃないかな」
「うっ……」
それは、そうなのだ。
僕は現場に忘れ物を残さないよう、気を配って逃げてきたのだ。目撃者でもいない限りは、このまま黙っていれば僕らが幽霊の正体であるということはまずバレないはずである。
でも、
「良心が痛む。高木先生をあんなに怯えさせてしまった」
このままにしていたら、高木先生はずっと第二美術室の幽霊の存在に怯えることになってしまう。高木先生といえど、それはあまりにも可哀想なのである。
「正直に言ったら、また怒鳴られるよ?」
「うっ……」
問題はそこなのである。
正直に謝るべきなのはわかっている。だが下手をすると、怒鳴られるどころでは済まない予感さえするのである。
本当に、大変なことをしてしまった。
うっすらと潤み始めた目で蜜木を見上げた。
僕と目が合った蜜木の喉が、ごくりと動く。
「でも、だったら、僕はどうすれば——「ギャーーーーーーーーーー!!!!」
僕らのすぐ脇の廊下から、鋭い悲鳴が聞こえた。
驚いた僕も「ギャーーーー!!」と悲鳴を上げて、我を忘れて蜜木に飛びついた。
しかしどういうわけなのか、廊下から聞こえた悲鳴は、すぐにプツリと途切れたのである。
無言で顔を見合わせる僕と蜜木。
かなり既視感のある悲鳴であった。この悲鳴は——
僕らは弾かれたように、急いで空気窓から廊下に這い出した。
すると目の前の廊下には、高木先生が力無く仰向けで倒れていたのである。
「た、高木先生!?」
やはり今のは高木先生の悲鳴であった。
辺りを見回すが、人はいない。高木先生がひとりで廊下の真ん中に倒れているだけである。
恐る恐る高木先生の肩を揺すってみる。反応はない。
「気絶してるのかな?」
蜜木が臆することもなく、高木先生の頬を人差し指でつつく。高木先生の口から、少しだけうめき声が漏れた。
「ど、どうしてこんなところで気絶しているんだ?」
「どうしてだろうね」
そんなやりとりをしているうちに、第二美術室の前には生徒や先生たちがバタバタと駆けつけ、ちょっとした騒ぎになる。
「何があったんだ?」
「悲鳴が聞こえたぞ」
「えっ。高木先生どうしたの?」
「ってか、さっきも悲鳴聞こえなかった?」
「皆さん落ち着いて。第一発見者は誰なの?」
「多分、会長と蜜木くんです」
人だかりの中の一人が僕らを指差し、視線が一斉に僕らに向いた。
「悲鳴が聞こえたので会長と一緒に駆けつけたら、高木先生がここに倒れていたんです」
蜜木が動じることなくさらりと説明する。当然のように第二美術室内から駆けつけたことは伏せていた。
皆は蜜木の説明に納得したようだった。頷きながら視線を高木先生へ戻し、「何があったんだろうね」と再び囁き合う。
「ちぃと、どいてくんなせねー」
のんびりとした声と共に、少し腰の曲がったおじいちゃんが人だかりの間から現れた。さっき蜜木が長靴を借りに行った、用務員の関屋さんだ。
ちなみに関屋さんは今、この辺りの方言で『ちょっとどいてください』と言ったのである。はてなマークを頭の上に乗せてきょとんとしている蜜木に、僕は通訳として素早く耳打ちした。
関屋さんが高木先生に近づき、まじまじと観察する。
「気ぃ失ってるみてぇだっけ、保健室さ運ぼうかねー。誰か男の先生ば呼んできてくんなせー」
「気を失っているみたいなので、保健室に運びましょうかね。誰か男の先生を呼んできてください」再び蜜木の耳元で通訳。蜜木が「なるほど」と、頷いてくれる。
「私、行ってきます!」
僕が通訳をしている間に、人だかりの中にいた春日さんが職員室へ駆けて行った。
そうこうしている間にも、騒ぎをききつけてやってきた人たちで、辺りにはさらに人が増えていく。
ああ。どうしよう。
目の前の騒動が大きくなっていくにつれて、僕の不安も膨らんでいった。きのこアンブレラくんとの関連性は不明だが、無関係とは思えなかったのである。
「はい、みんな解散解散〜。部活動に戻ってくださーい」
担架を担いで富和先生がやってきた。富和先生の後ろには、心配そうに眉を下げた春日さんと教頭先生がいる。
富和先生の声かけで、春日さんや周りにいた人たちは、高木先生のことを気にしつつも、それぞれの活動場所へ戻り始めた。
僕と蜜木は、こんな状況ですぐそばの空気窓から第二美術室へ帰るわけにいかないので、その場に立ったままだ。富和先生と教頭先生が高木先生を担架に乗せているのを、黙って見ていた。
富和先生と教頭先生によって、高木先生が保健室に運ばれていく。
高木先生を心配する気持ちと、鉛のように重い罪悪感。両方を胸に抱きながら、僕は搬送されていく高木先生の後ろをついて行くことにした。
蜜木も僕の後ろをついてくる。
「大丈夫だと思うよー」
僕にだけ聞こえるくらいの小さな声で、蜜木が言った。同じくらい小さな声で「ああ」と返した。胸の中の不安が少しだけ溶けた。
今日は保健室の先生が不在らしかった。入り口の扉には、『本日不在です。保健室を利用したい人は、職員室の先生に声をかけてください』と、丸字で書かれた貼り紙が貼ってある。
担架を運んでいる二人は手が塞がっていたので、僕が保健室の扉を開けた。富和先生が「ありがと〜。さすが我が校の生徒会長は気が利くねぇ〜」と、僕を冗談っぽく褒めて笑ってくれる。
「いえ」僕は小さく首を振った。高木先生が倒れたのはもしかすると僕のせいかもしれません、なんて、とても言えない。
富和先生と教頭先生が、高木先生をベッドに寝かせる。僕と蜜木は、それを保健室の入り口に立って見守っていた。
「では富和先生。高木先生が目を覚ますまで、見守りお願いしますね」
高木先生をベットに寝かせ終わると、教頭先生はそうニッコリと富和先生に言い渡し保健室を去っていった。
「え゛っ」と、富和先生の顔が引き攣る。その顔にはハッキリ『いやだ』と書いてあった。
けれど、富和先生は決して文句を言わない。僕はそこに大人の世界の上下関係を垣間見た気がした。
大人は大変である。
だが、富和先生に同情しかけたのも束の間。富和先生はそばに立っていた僕らを見るなり、とても胡散臭い笑みを浮かべたのである。
「あれ? 二人とも、もしかして高木先生が心配なのか?」
僕らはまだ何も返事をしていなかったが、富和先生はそうに違いないといった様子で「うんうん」と大きく頷きながら、僕たちの方へ歩み寄ってきた。
「優しいなぁ。関心、関心。じゃあ、高木先生が目を覚ますまでそばにいてやってくれ。頼んだぞ〜」
富和先生が僕と蜜木の肩を順番に叩いて、そそくさと保健室を去って行く。
去り際、いつもタバコを入れているジャケットの右ポケットを探っていたので、このままタバコを吸いに行くに違いない。
「ねえ、会長。あれ絶対、タバコ吸いに行ったよね」
それには蜜木も気がついていたようだ。蜜木にしては珍しく呆れた顔をして、小さくなっていく富和先生の背中を見つめていた。僕も同じ顔をして「ああ」と頷く。
タバコとは、そんなに美味しいものなのだろうか。未成年の僕にはよくわからない。
あと、子供もそれなりに大変なものである。
なにはともあれ。押し付けられた感は否めなかったが、高木先生のことを心配しているのは事実なので、僕らはそのまま言いつけを守って高木先生を見守ることにしたのである。
▽
高木先生は一台しかないベッドの上に横たわっていた。
高木先生は悪夢を見ているらしく、「左右を……」「三回……」などと苦しそうにうわごとを漏らしている。
僕と蜜木はベッドの脇で丸椅子に並んで腰掛け、高木先生が目を覚ますのを静かに待っていた。
なぜこんなことになってしまったのだろう。
僕は目を閉じ、眉間に皺を寄せ、ほんの三十分ほど前の出来事を思い返していた。
▽
幽霊騒ぎを起こした後、僕は蜜木をつれてすぐにその場から逃走した。逃亡先は第二美術室である。
第二美術室前の廊下。蜜木が開けてくれた第二美術室の空気窓へ、僕はきのこアンブレラくんをアンダースローで投げ入れた。
その空気窓から、ほふく全身で二人順番に第二美術室の中へ入る。
そして、焦りで言葉をもつれさせながら、蜜木に状況を説明した。
「どうしよう」
説明し終えると、僕は頭を抱えて床に崩れ落ちた。
まさかこんな騒動になるとは思わなかったのだ。サスペンスドラマでありがちな、『そんなつもりじゃなかったんです』と言って崖の上で泣き崩れる犯人の気持ちが、今ならよくわかる。本当に、そんなつもりじゃなかったのだ。
そんな僕の背中をさすって、蜜木が耳元で囁く。
「証拠は残ってないんだからさ、黙っておけば大丈夫じゃないかな」
「うっ……」
それは、そうなのだ。
僕は現場に忘れ物を残さないよう、気を配って逃げてきたのだ。目撃者でもいない限りは、このまま黙っていれば僕らが幽霊の正体であるということはまずバレないはずである。
でも、
「良心が痛む。高木先生をあんなに怯えさせてしまった」
このままにしていたら、高木先生はずっと第二美術室の幽霊の存在に怯えることになってしまう。高木先生といえど、それはあまりにも可哀想なのである。
「正直に言ったら、また怒鳴られるよ?」
「うっ……」
問題はそこなのである。
正直に謝るべきなのはわかっている。だが下手をすると、怒鳴られるどころでは済まない予感さえするのである。
本当に、大変なことをしてしまった。
うっすらと潤み始めた目で蜜木を見上げた。
僕と目が合った蜜木の喉が、ごくりと動く。
「でも、だったら、僕はどうすれば——「ギャーーーーーーーーーー!!!!」
僕らのすぐ脇の廊下から、鋭い悲鳴が聞こえた。
驚いた僕も「ギャーーーー!!」と悲鳴を上げて、我を忘れて蜜木に飛びついた。
しかしどういうわけなのか、廊下から聞こえた悲鳴は、すぐにプツリと途切れたのである。
無言で顔を見合わせる僕と蜜木。
かなり既視感のある悲鳴であった。この悲鳴は——
僕らは弾かれたように、急いで空気窓から廊下に這い出した。
すると目の前の廊下には、高木先生が力無く仰向けで倒れていたのである。
「た、高木先生!?」
やはり今のは高木先生の悲鳴であった。
辺りを見回すが、人はいない。高木先生がひとりで廊下の真ん中に倒れているだけである。
恐る恐る高木先生の肩を揺すってみる。反応はない。
「気絶してるのかな?」
蜜木が臆することもなく、高木先生の頬を人差し指でつつく。高木先生の口から、少しだけうめき声が漏れた。
「ど、どうしてこんなところで気絶しているんだ?」
「どうしてだろうね」
そんなやりとりをしているうちに、第二美術室の前には生徒や先生たちがバタバタと駆けつけ、ちょっとした騒ぎになる。
「何があったんだ?」
「悲鳴が聞こえたぞ」
「えっ。高木先生どうしたの?」
「ってか、さっきも悲鳴聞こえなかった?」
「皆さん落ち着いて。第一発見者は誰なの?」
「多分、会長と蜜木くんです」
人だかりの中の一人が僕らを指差し、視線が一斉に僕らに向いた。
「悲鳴が聞こえたので会長と一緒に駆けつけたら、高木先生がここに倒れていたんです」
蜜木が動じることなくさらりと説明する。当然のように第二美術室内から駆けつけたことは伏せていた。
皆は蜜木の説明に納得したようだった。頷きながら視線を高木先生へ戻し、「何があったんだろうね」と再び囁き合う。
「ちぃと、どいてくんなせねー」
のんびりとした声と共に、少し腰の曲がったおじいちゃんが人だかりの間から現れた。さっき蜜木が長靴を借りに行った、用務員の関屋さんだ。
ちなみに関屋さんは今、この辺りの方言で『ちょっとどいてください』と言ったのである。はてなマークを頭の上に乗せてきょとんとしている蜜木に、僕は通訳として素早く耳打ちした。
関屋さんが高木先生に近づき、まじまじと観察する。
「気ぃ失ってるみてぇだっけ、保健室さ運ぼうかねー。誰か男の先生ば呼んできてくんなせー」
「気を失っているみたいなので、保健室に運びましょうかね。誰か男の先生を呼んできてください」再び蜜木の耳元で通訳。蜜木が「なるほど」と、頷いてくれる。
「私、行ってきます!」
僕が通訳をしている間に、人だかりの中にいた春日さんが職員室へ駆けて行った。
そうこうしている間にも、騒ぎをききつけてやってきた人たちで、辺りにはさらに人が増えていく。
ああ。どうしよう。
目の前の騒動が大きくなっていくにつれて、僕の不安も膨らんでいった。きのこアンブレラくんとの関連性は不明だが、無関係とは思えなかったのである。
「はい、みんな解散解散〜。部活動に戻ってくださーい」
担架を担いで富和先生がやってきた。富和先生の後ろには、心配そうに眉を下げた春日さんと教頭先生がいる。
富和先生の声かけで、春日さんや周りにいた人たちは、高木先生のことを気にしつつも、それぞれの活動場所へ戻り始めた。
僕と蜜木は、こんな状況ですぐそばの空気窓から第二美術室へ帰るわけにいかないので、その場に立ったままだ。富和先生と教頭先生が高木先生を担架に乗せているのを、黙って見ていた。
富和先生と教頭先生によって、高木先生が保健室に運ばれていく。
高木先生を心配する気持ちと、鉛のように重い罪悪感。両方を胸に抱きながら、僕は搬送されていく高木先生の後ろをついて行くことにした。
蜜木も僕の後ろをついてくる。
「大丈夫だと思うよー」
僕にだけ聞こえるくらいの小さな声で、蜜木が言った。同じくらい小さな声で「ああ」と返した。胸の中の不安が少しだけ溶けた。
今日は保健室の先生が不在らしかった。入り口の扉には、『本日不在です。保健室を利用したい人は、職員室の先生に声をかけてください』と、丸字で書かれた貼り紙が貼ってある。
担架を運んでいる二人は手が塞がっていたので、僕が保健室の扉を開けた。富和先生が「ありがと〜。さすが我が校の生徒会長は気が利くねぇ〜」と、僕を冗談っぽく褒めて笑ってくれる。
「いえ」僕は小さく首を振った。高木先生が倒れたのはもしかすると僕のせいかもしれません、なんて、とても言えない。
富和先生と教頭先生が、高木先生をベッドに寝かせる。僕と蜜木は、それを保健室の入り口に立って見守っていた。
「では富和先生。高木先生が目を覚ますまで、見守りお願いしますね」
高木先生をベットに寝かせ終わると、教頭先生はそうニッコリと富和先生に言い渡し保健室を去っていった。
「え゛っ」と、富和先生の顔が引き攣る。その顔にはハッキリ『いやだ』と書いてあった。
けれど、富和先生は決して文句を言わない。僕はそこに大人の世界の上下関係を垣間見た気がした。
大人は大変である。
だが、富和先生に同情しかけたのも束の間。富和先生はそばに立っていた僕らを見るなり、とても胡散臭い笑みを浮かべたのである。
「あれ? 二人とも、もしかして高木先生が心配なのか?」
僕らはまだ何も返事をしていなかったが、富和先生はそうに違いないといった様子で「うんうん」と大きく頷きながら、僕たちの方へ歩み寄ってきた。
「優しいなぁ。関心、関心。じゃあ、高木先生が目を覚ますまでそばにいてやってくれ。頼んだぞ〜」
富和先生が僕と蜜木の肩を順番に叩いて、そそくさと保健室を去って行く。
去り際、いつもタバコを入れているジャケットの右ポケットを探っていたので、このままタバコを吸いに行くに違いない。
「ねえ、会長。あれ絶対、タバコ吸いに行ったよね」
それには蜜木も気がついていたようだ。蜜木にしては珍しく呆れた顔をして、小さくなっていく富和先生の背中を見つめていた。僕も同じ顔をして「ああ」と頷く。
タバコとは、そんなに美味しいものなのだろうか。未成年の僕にはよくわからない。
あと、子供もそれなりに大変なものである。
なにはともあれ。押し付けられた感は否めなかったが、高木先生のことを心配しているのは事実なので、僕らはそのまま言いつけを守って高木先生を見守ることにしたのである。
▽
