愛してるから『弟』でいます。




(……朝?)
 枕元のスマホで時間を確認すると、6:30。やっぱり早く目が覚めた。
 夜は『何も考えるな何も考えるな』という呪文を唱え続けているうちにどうにか眠れたが、それでもあまり長くは寝ていない。なんだか変な夢も見た気がする。
 リビングも隣も静かだ。先輩はまだ寝ているだろう。
 俺も寝直そうかとしばらくゴロゴロしていたが、外でピチチと鳥が鳴くのを聞いているとなかなか眠気も訪れない。
「……起きるか」
 1時間ほどで二度寝はあきらめた。静かにベッドを出て着替え、洗面所で洗顔を済ますと、キッチンに向かう。
(先輩、朝飯食うかな)
 俺はしっかり食べる派で、大体毎朝、簡単だが自分で作っている。
(好きに食べていいとは言ってくれてたけど、自分の分だけ作るっていうのもな)
 もし先輩が食べないとしても、残しておけるようなものにしよう。
 そう思ってゆで卵と一人分ずつのサラダを作り、トマト缶と冷凍野菜で超簡単トマトスープを煮込んでいると。
 ───ジリリリリリリリ!!
「っ!?」
 いきなりの大音量に、俺はビクッと肩を跳ね上げた。
 そのレベルの音量だ。しかもすぐに他の音が加わり、さらにうるさくなった。
 ジリリリ、リンリン、カンカン、ピヨピヨ……機械的な音の大重奏だ。先輩の部屋から。
(これ……アラームか? 先輩、何個目覚ましかけてんだよ!?)
 音がやむのを待ったが、いっこうにやまない。
 1分、2分、3分……そこまで待ったところでさすがに限界が来てコンロの火を止め、先輩の部屋に向かうとドアをたたいた。
「先輩、天月先輩! 起きてますか? すごい音してますけど!」
 ジリリリ、リンリン、カンカン、ピヨピヨ!
「せんぱーいっ!? 止めてください、これ! ねえ、起きてます!?」
 ジリリリ、リンリン、カンカン、ピヨピヨ!
(いや、この音の中で寝てられるか普通? ──ま、まさか寝てるんじゃなくて、意識を失ってるとか!?)
 急病か? ピザを食いすぎて体調不良か?
「だーーっ、くそっ! 先輩、入りますよ!」
 俺は覚悟を決めてドアを開けた。
 俺の部屋と同じ広さの室内は、白とグレーを基調とした、先輩らしい、男性的な中にも大人びた上品さのある部屋だった。
「先輩っ……?」
 奥の壁際に据えられたベッドで、先輩は寝ているようだ。ほぼ布団に埋もれていて額から上がちらっと見えるだけだが、まったく動いていない。
 ヘッドボードには四角と丸とヒヨコ型の目覚ましと、スマホ(これもアラーム発動中)が綺麗に並んでいる。 
 俺は大股に歩み寄ると、とにかくそれらを全部止めた。そして、相変わらず微動だにしない先輩の顔を覆う布団を、わずかにずらす。
(生きてる、よな……?)
「うわ……」
 心配で無事を確かめたかったはずなのに、思わず声が漏れていた。
 乱れた髪で縁取られた小さな顔。細い首と整った顎のライン。まぶたを閉じていると、まつ毛の長さがいつも以上に際立って見える。
 ほんのわずかに開いた唇は、妙に艶めいて見えた。俺なんて寝起きはカサカサになりがちなのに、どうしてこんなにプルンとしているんだろう。
(やば……)
 何もかもが美しい。美しいのに無防備で……秘密の、とんでもなく罪深いものを見た気分だ。
(やば、すぎ……)
 たっぷり2分は見惚れていたかもしれない。その後でようやく、俺はかすかに聞こえる寝息に気づいた。
 そうだ、よかった。寝ているだけだ。表情も穏やかで、体調が悪いようには見えない。
(そういえば昨日の、『驚かないでね』って言ってたアレ……)
 この大爆音アラームのことを言っていたのだろうか。昨日今日置いたようには見えない目覚まし時計を眺める。左のかわいい黄色のヒヨコ型は特に古くて、部屋からも浮いていた。子供時代から使っていて捨てられない感満載だ。
(そっか……先輩、朝起きられない人なのか)
 ちょっと信じがたいが、爆音の中で眠り続ける姿を目の前にしたら信じるしかない。
 アラームがかけられていたのは8:10。なるほど、せめて俺がベッドの中で驚いて跳ね起きずにすむように、昨夜起床時間を確認したのだろう。
「……普通に教えてくれたらよかったのに」
 先輩はすやすやと眠り続けている。けど、アラームをかけていたということはこの時間に起きるつもりだったということだ。
「……先輩、朝ですよ」
 俺はベッド脇で膝立ちになると、布団越しに肩を軽く揺すってみた。俺としてもこの寝姿は精神衛生上よくない。起きていただこう。
「先輩、8時まわりました。起きてください」
 ゆさゆさ、ゆさゆさ、ゆさゆさ。
「…………ん………………」
 何度か揺すると、やっと小さな反応がある。まだ目は閉じたままだけれど。
「先輩、起きて……」
「……ん………んん…………」
 まつ毛を震わせ、先輩のまぶたが薄く開いた。そのままゆっくり目を開けると、焦点の合っていない視線がさまよう。
「ん……あ……さ……?」
「はい、朝です。もうすぐ8時半です。起きましょう」
「…………」
 無言のまま、先輩は両手をベッドについてのろのろと起き上がった。薄いパジャマを張り付かせた背中のラインがあらわになって、思わずドキリとする。
 でもその直後、先輩がぐらっとよろめいたので、俺は慌てて手を伸ばし、その体を支えた。
「ん……」
 俺に両肩を支えられた状態で、先輩は吐息のような声を漏らしながら、うつむいていた顔を上げる。
「ん……や……」
「……え?」
 先輩の体にはまったく力が入っていない。倒れ込むように寄りかかってこられた。
 軽く肩をつかんでいただけの体はずるっとすべって……なすすべもなく、今度は抱き止めるような形になる。
「ちょっ……せんぱっ……!?」
(いやいやいやいやいや! あかんだろこの体勢はっ!!)
 脱力しきっている先輩は、俺の胸に肩を押し付けて顔をうずめている。俺は両手をわななかせてうろたえるしかない。
「せんぱいっ、起きてっ……!」
 顔のすぐ下にある後頭部に、かすれる声で呼びかけた。また寝てしまったのかと思ったが、ピクリと反応がある。
「……や……て……」
 何かを口にしながら、頭が動いた。ゆっくり、ゆっくりと上がった顔が、至近距離で俺と見合う。
「……おは……キ……は……」
「……へ? あの……」
 するりと衣擦れの音。今度は何が起こったんだろう。……先輩の腕が動いて、俺の両肩に、その手がそっと添えられたんだ。指先に力は入ってないけど、すがりつくみたいに。
 そして先輩は、近くにあった顔を、また数センチ近づけた。
 現実とは思えない至近距離に先輩の瞳がある。焦点の合っていないそれは俺を認識しているのかどうかわからないけど、俺は魔法にかかったように目がそらせない。
「おは……」
 薄桃色の唇がこれまでよりはっきり動いて、言葉を紡いだ。ささやくように小さな声だけれど、
「おはようの……キス……」
 そう言いながら……肩に載せられた指に、きゅっと力がこもる。
 まるで、ねだるみたいに。
 艶やかな唇が、待つように閉じられた唇が、また近づく。 
「っ…………!」
 ぐぅっと俺ののどが鳴った。次の瞬間、俺は先輩の肩をつかみ、力いっぱいその体を引きはがした。
(どっ、どっ、どっ……)
 どういうことだ。今のは聞き間違いか? でもはっきり聞こえた。『おはようのキス』と。
 キス? おはようの? したかった? してほしかった? なんで?
 もしかしておはようのキスがないと起きられない体質? そんな体質あるのか知らないけど。キスで目覚めるのはお姫様だったと思うけど、先輩くらい美しい人ならそれも似合う。キスで目覚める女王様だ。
 いや、冷静になれ。もしおはようのキスがないと起きられない体質だったとしても、誰が相手でもいいってわけじゃないだろう。お姫様だってそうだったはずだ。頬キスは外国では挨拶だけど、それだってある程度親しくないとしないはず。
 ってことは、寝ぼけて誰かと間違えたとか? ……誰とだ? 先輩には、そんな習慣か経験が……相手がいる?
「……すー……」
 寝息が聞こえてきた。俺の両腕に全体重をあずけた状態で、先輩はまた……寝ている。
「~~~っ。先輩っ! 起きてください!」
「……! ふぁっ……?」
 力いっぱい揺すると、ビクッと震えた後で、先輩はパチッと目を開いた。
「う……なんか目がまわ……って、あれ……蒼羽くん……?」
(……起きたか)
 まだ眼差しはとろんとしているが、ちゃんと俺を見ているのがわかる。
「……おはようございます」
「おはよう……」
 ふわふわした声で応えながら、先輩はゆっくりと視線をめぐらし、状況を把握したようだった。
「……アラーム……」
「俺が止めました」
「……ごめん……自分で起きようと……思ってたんだけど……」
「みたいですね」
「起こして……くれたんだよね……?」
「はい」
「……僕……実は、朝が……弱くて……」
「はい、よくわかりました」
「…………ごめん」
「……いいですよ。仕方ないことじゃないですか」
 本当は色々と『いい』でも『仕方ない』でもなかったけれど、さっきのことを突っ込んで聞こうとは思えなかった。先輩はまだものすごく眠そうだし、必死に隠しているけれど俺だって内心ではまだパニック状態なのだ。何をどう聞いたらいいのかもわからない。
 ──いったん、忘れよう。アレコレ渦巻いてるけど、いったん全部押し込めよう。
「先輩、朝飯食いますか?」
「……うん、食べる」
「じゃ、一緒に食いましょう。ちょうど作ってるとこだったんです。俺、仕上げてくるんで、先輩は着替えて顔洗ってきてください」
「……はい」
 膝立ちだった俺は先に立ち上がり、まだふらふらしている先輩がベッドから出るのを手伝った。
「……大丈夫ですか?」
「うん、だいじょぶ……」
(舌足らずになってるけど……)
 とはいえ、さすがに着替えなんか手伝えない。
「ゆっくりでいいんで」
 そう言い残し、部屋を出てキッチンに戻った。



 スープを仕上げ、配膳してトーストを焼いている頃、身支度を終えた先輩が洗面所からやってきて席に着いた。
 部屋でも洗面所でも時々ガンッとかゴンッとか聞こえてはらはらしたが、とりあえず見た感じ無事そうなのでほっとする。……いや、おでこが少し赤いか?
「適当に作ったんで、口に合わなかったらすいません」
「ううん……おいしそ……食べる……」
「よかった。トーストどうぞ。先に食べててください」
 焼けたばかりの2枚を皿に載せ、先輩の前に置いた。「ありがと……いただきます……」とつぶやくのを背中に聞きながら、自分の分を焼くべくキッチンに戻る。
(使い慣れてない調理器具はむずいんだよな。けど多分、熱が残ってるから次の焼き時間はこんくらい……)
 パンを入れてタイマーをセットする背後で、先輩がたてる音も小さく聞こえていた。うん、大丈夫、ちゃんと起きているようだ。
(よし、焼けた)
「先輩、スープ熱すぎな──げっ」
 自分のトーストを手に振り返った俺は、思わず目を剥く。
 先輩の前に並んだ料理。スープにはバターとあちこち殻が残ったゆで卵がぶち込まれ、サラダにはブルーベリージャムがかかり、トーストはなぜかビシャビシャ……ああ、ドレッシングだ。そのくたっとしたパンを両手で持ち、先輩は口へ運ぼうとしている。
「わーっ! 待った!」
 俺は皿をカウンターに置き、大急ぎで駆け寄った。



「……重ね重ね、ごめんなさい」
 ソファに座った先輩は、心底申し訳なさそうに肩を丸めている。
「いいです。悪気があるわけじゃないんだから」
 先輩がちゃんと目を覚まし、食事を始めるのにはあれから30分くらいかかった。でも、休日ならささいなロスだ。
 食材の無駄も最小限に抑えた。トーストはパングラタンにするし、取り除いてもほんのりバター風味になったスープと、ブルーベリー風味になったサラダを、先輩はきちんと完食したのだ。ス-プの、卵の殻が混ざっていそうなところを少し捨てただけだ。
「そこまで落ち込むようなことじゃないでしょ」
「でも……はぁぁ」
 特大のため息。本当に落ち込んでいるらしい。
「もうわかってると思うけど、父さんが僕の独り暮らしを心配してたのも、これがあるからなんだ。でも僕は、自分でなんとかできるって言って……それなのに……」
 話しながらどんどん項垂れ、とうとう両手で顔を覆ってしまう。
「ああ、情けないなぁ……こんなことで蒼羽くんに迷惑かけて」
「だから迷惑ってほどのことじゃないですって。ていうか、情けないってなんですか。朝が弱いのなんて体質の問題で、先輩に責任があるわけじゃないでしょ。どうしようもならないことで、情けないなんて思う必要ないですよ」
「でも……」
 弱々しく顔を上げた先輩がまだ何か言おうとするのを、俺はさえぎった。
「でもじゃなくて。本当に、そんなふうに考えないでください。和馬さんやお姉さんだって、責めたりしたことないんじゃ?」
 お姉さんのことは何も知らないが、和馬さんはこんなことで怒るような人には思えない。あの大らかでさわやかな和馬さんや、柔和な先輩の性格を思えば、お姉さんだってきっと。
 その予想は当たっていたようで、先輩はコクンとうなずく。
「うん……からかわれることは、よくあったけど」
「やっぱり。じゃあ俺にも、申し訳ないとか思わないでください。一緒に暮らしてる同士、助け合うのは当然のことです。朝は俺が起こしますし、食事も工夫すれば問題ないでしょ」
 俺がほんの少し手をかけて、先輩は食べるだけでいいようにすればいいのだ。多分、ご家族がそうしていたように。
「蒼羽くん……ありがとう」
 ようやく、強張っていた先輩の表情がやわらいだ。沈んだ顔にかすかながら笑みが戻って、つられるように俺の口角も上向く。
「ごめんね。世話かけちゃうけど……よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる先輩。……なんだか、かわいい。
(──って、なに考えてんだ俺は! 先輩をかわいいなんて、何様だ俺は!)
「蒼羽くん?」
 ガツガツと拳で頭をたたき出した俺を見て、先輩は不思議そうに首をかしげた。
「な、なんでもないっす。気にしないでください!」
「そう? ……あ、そういえば──」
「……どうかしましたか?」
「うん、えっと……あんまりちゃんと覚えてないんだけど、部屋で起こしてもらった時……なんか蒼羽くん、真っ赤な顔してた気がして」
「!!」
 一瞬でヒヤッと全身が冷える。そこ覚えてるのか!? 一番覚えてなくていいところなのに!
「……もしかして僕、なにか変なことするか、言った?」
「~~~べっ、別に、何もっ」
 声が上ずった。どうして俺はさらっと嘘をつくことができないのか。当然、先輩も疑わしげだ。
「本当に? 何か失礼なことしたんじゃないかって、心配なんだけど……」
「してないですよ! 失礼なことなんて何も!」
 どちらかといえば失礼なのは俺のほうだ。あれはきっと間違いで、本気で俺にキスをねだったわけじゃないのに。
 それなのに……あの時俺は……すごく、ドキドキして……俺、は……
「──俺っ、部屋戻りますっ。か、課題あるんで!」
 先輩から顔を背けて立ち上がった。これ以上思い出すと、また心拍数がおかしくなる。
 正直なところ、あの時自分の中にぶわっと沸き上がった感情がなんなのか、まったくわからない。わからないけど、なんていうか、何かが弾けそうだった。だからとっさに『やばい』と思って、先輩を引きはがしていた。
 わかっているのは……今思い出しても、なぜかとても、胸が苦しい。それだけだ。