愛してるから『弟』でいます。





 翌日、日曜日の午前中。
 天月先輩は、一人で「買い物に行ってくる」と言って出かけた。
 近所だからすぐ戻るとも聞いていたし、俺はコンビニにでも行ったのかと思い、さして気に留めていなかったのだけれど。
「ふぅ。ただいま~」
 帰宅した先輩は、両手に大きなビニール袋を提げていた。予想外の大荷物だ。
「!? えっ、何買って来たんですか!?」
 重そうな姿に慌てて駆け寄る。先輩はフローリングを傷つけないようにか、慎重にそれぞれの荷物を置いた。ゴトッと硬い音がする。
「えへへ……これ、買ってきた」
 額の汗をぬぐってから、先輩は袋の口を開いて中を見せた。
(鉢……?)
 丸い、テラコッタ製の植木鉢だ。それが2つ。他には肥料のような袋と、何かの苗。
「えっと……花、植えるんですか?」
「うん。土はさすがに重いから配送にしてもらっちゃった。花はとりあえず、マリーゴールドとヒマワリ。迷ったんだけど──」
「や、ちょ……ま、待ってください」
 すらすらと説明する先輩を、俺はためらいつつも止める。
「なんで、いきなり?」
 とにもかくにも、まずはそこだ。
 花を育てるのは、自分には荷が重いというような話を以前したはずだ。なぜ急にこんな一念発起を?
「……昨日言おうとしてたことの続きでもあるんだけど」
 先輩は真面目な顔になって背筋を伸ばした。
「育てたいなと思って。蒼羽くんと二人で」
「え……」
(俺と……二人で?)
 今から、この苗を植えて?
「それって──……」
 放心したように見つめる俺の前で、先輩は。
「蒼羽くん。これからも、僕と一緒にこの家で暮らしてくださいっ!」
 緊張にやや震え、ワントーン高い声でそう言って、ペコッと頭を下げた。
「…………」
 無音。言葉の出ない俺と、言葉を待つ先輩と。
 時間が止まったかのような空間で、俺は自分の心音がどんどん速くなっていくのを意識する。
「それは……あの……」
 ほとんど息のような声が、ほぼ無意識に口からこぼれていた。先輩がピクッと肩を震わせ、そろそろと頭を上げる。
 俺を見上げる頬がまた赤い。ますます鼓動がうるさくなる。
「蒼羽くんは悠日に、かっこつけず、なりふり構わずにぶつかってみろって言ったんだよね。僕にも、素直な自分を大事にしろって言ってくれた。だから、言います」
 震えそうになる拳を、もう一方の手でぎゅっと押さえて。
「僕はやっぱり、蒼羽くんと『家族』になりたい。ここで、一緒に暮らしながら」
 ピンと張った声が、彼の『素直な』願いを紡ぐ。
「同居を始めてまだ2カ月くらいだけど……僕、この期間で、前よりももっと蒼羽くんのこと、好きになったんだ。今度はもっと、ずっと長く、一緒にいられたらいいなって」
 熱のこもった音が、俺に流れ込んでくる。
 なかば呆然と聞いていたけれど──ふと、引っかかった。
「……前よりもって、どういう意味ですか?」
 『今度は』というのもそうだ。それは、いつのことを指している?
「あっ……」
 先輩の瞳が動揺に揺らいだ。うろたえるように視線がさまよう。
 言うつもりじゃなかったことを、うっかり吐露してしまった時の顔。
(まさか……)
 信じられないけれど。会食が『初対面』の俺たちだったら、それよりも前なんて存在しない。
「もしかして……先輩、覚えてたんですか?」
「え……」
 泳いでいた視線が俺に釘付けになり、これ以上ないくらいに目を見開く。
 俺以上の驚愕をあらわに、先輩が叫んだ。
「蒼羽くん、覚えてたの!?」
 また、無言で見つめ合う。
 ああ、なんてことだ。同じだったんだ、先輩も。
 覚えていてくれた。でも、俺のほうは覚えていないと思って明かさずにいたんだ。
「覚えてたっていうか──」
(なら……もう、言っていいよな。隠さなくていいよな)
 俺の中でこの人が、どんなに大きな存在なのか。
「忘れたこと、1日もなかったです。あの夏先輩と過ごした時間は、俺にとってすげー特別だから。宝賀に入ったのも、下見に来た時、先輩がここの生徒だって知ったからで」
「僕がいたから……? じゃあ、蒼羽くんは1年以上前から知ってて……?」
「はい。いつも先輩のこと、見てました」
「そうだったんだ……」
 先輩はふらふらと歩き始めた。
 あまりの驚きで立っている力が尽きたかのように、ソファまで歩いてトスンと座り込む。俺も倣って隣に座った。
 ほうっと息を吐いて、先輩が再び話し始める。
「僕もよく覚えてた、『あーくん』のことは。ただ、ごめん。会食のあの日までは、同じ学校に君がいるってこと、気づいてなかったけど」
「それは別にいいです。俺、自他ともに認めるモブキャラだし、基本隠れてたんで」
 こっちが意識して陰からそっと見るようにしていた。彼の視界に入らないようにしていたのだから、気づかなくて当然だ。
「モブって……。でも、あの日は会った瞬間に気づいたよ。うわぁ、あーくんだって」
「……そんなにすぐ?」
「うん。目が合った瞬間にすぐわかった」
「そうなんですか? 俺、目の色も変わったし、絶対わからないと……」
「変わってても気づくよ。僕だってあの夏は、君に会うのが一番の楽しみだったんだから。忘れるわけない」
 強い眼差しできっぱりと言い切られる。
 あの夏の暑さが、8月の強い日差しが、肌によみがえる気がした。
 過ぎた日々が、もう帰ってこないと思っていた時間が、二人の間に戻ってくる。
「だけど、『あーくん』は覚えてないかもしれないし。繊細な時期のことだったから、蒸し返さないほうがいいかもしれないって。そう思って、言わなかったんだ」
(じゃあ、俺のためを思って……)
 学校でいじめられ、親とのすれ違いにも悩んで、何度も泣いていた俺。
 あの頃に触れること自体が、俺のふさいだ傷をほじくり返す行為になるかもしれないと、気遣ってくれていたんだ。
「君にもそういう素振りはなかったから、覚えてないか、覚えてても気づいてないんだと思ってたよ」
「俺もそう思ってました。……なんか、笑えますね」
「はは、ほんとだね」
 そろって苦笑する。でも先輩は、すぐにその頬を引き締めた。
「あのね。今の僕があるのは、あの小4の夏、蒼羽くんに会えたおかげなんだよ」
「……? どういうことですか?」
 『おかげ』と言われるようなことを、俺は何かしただろうか。こっちが励ましてもらった記憶しかない。
 先輩は、そんな俺の疑問を見透かすような優しい目をしている。
「あの夏、僕は君にいろんな話をしたけど。君に話したこと全部、自分自身に向けての言葉でもあったんだ。蒼羽くんには偉そうに話してたけど……本当は、僕自身の願いっていうか……どれも、自分に言い聞かせてた言葉なんだよ」
 話す顔には苦い笑みが浮かんでいた。
 俺は先輩がくれた言葉の数々を思い起こす。
 『普通じゃないのも、きっと悪いことばっかりじゃない』
 『今はつらいとしか思えなくても、いつかそれだけじゃなかったと思えるようになる』
 目のことでいじめられている俺には、そう言ってくれた。
 母さんとの時間が持てないことで落ち込んでいた俺には、『さみしい時は、さみしいと言っていい』と。
 そして、こうも言っていた。
 『ぼくは、気持ちは伝わるって信じたい』
「父子家庭になって、父さんについて日本と海外を行ったり来たりだから、学校もコロコロ変わって。父さんに会えない期間もあったし、姉さんはほとんど話をしてくれなくて。そんな生活に心がついていかなくなる時もあったけど、僕は我慢してた。物わかりのいい子でいなくちゃ、また人が離れていくと思って」
「先輩……」
(そうか……この人も、信じたかったんだ)
 同じだったんだ。俺とこの人は、面白いくらいにぴったりと重なっていたんだ。
 いつも穏やかにほほ笑んでいたから、俺が気づかなかっただけで。
 でも彼だって、同じように悩んでいた。苦しんでいた。
「僕が励ましたから、蒼羽くんは玉季さんに話したんだよね。もっと一緒にいたいって。そのことを、次に会った時、報告してくれたでしょ?」
「……はい」
 もちろん覚えている。興奮冷めやらぬ状態で、ほとんど嬉し泣きしながら報告した。
「あの時、僕も君に励まされたんだよ。とても勇気がいっただろうに、あーくんはすごいなって。あーくんは頑張ったから、お母さんに気持ちが伝わった。分かり合えた。僕も勇気を出して、頑張らなきゃって思ったんだ」
 そして小4の彼も、それまで秘めていた思いを全部、家族に伝えたのだという。
 聞き分けのいい子を演じていたけど、本当はつらい時も、不安もたくさんあること。
 お姉さんには、大切な家族なんだからまた仲良くしたいということ。
 それを機に、忙しさに忙殺されていた和馬さんも、心を閉ざしていたお姉さんも、家族の時間をかえりみるようになってくれた──と、先輩は話した。
「……ね? 今の僕があるのは、『あーくん』のおかげなんだよ。それに──」
 ふわりと陽だまりのような笑みでささやき、先輩は右手でそっと俺の頬に触れた。
 指先が、目元をゆるやかに撫でる。
「瞳の色が変わっても、君はやっぱり君だった。今の僕にも、たくさんの勇気ときっかけをくれた」
「……、先輩……」
「あの頃の色もキレイだったけど、今の色も素敵だよ。僕は、どっちも大好き」
「っ……。だから……」
(キレイなのは、あなたのほうですって)
 まいってしまう。やっぱり、この人の言葉と笑顔は魔法みたいだ。
 幼い頃は忌み嫌い、失ってせいせいしていたあの瞳の色。
 気持ち悪いと鏡を見つめていたあの日々さえも、先輩が好きだと言ってくれるなら、それでよかったと思えてしまう。
 古ぼけてくもり、たくさん傷の入ったビー玉みたいに。キレイなのかキレイじゃないのかよくわからないけど、大事だからそっと宝箱にしまっておこう。そんなふうに思えてしまうんだ。
 弱り切ってもらした言葉の続きを、先輩はしばらく待っていた。
 でも俺がそれを口にするつもりはないと察すると、触れていた手を下ろし、もう一度表情を引き締めて告げる。
「僕、蒼羽くんのことがすごく好きなんだ。だから君と家族になりたい」
「……!」
(この人と、家族に……)
「前に話した時は、そうなれたらいいなっていうくらいだったけど。今はもっと強く、そう願ってる。二人の生活を、ここで終わらせたくないって」
 トクン、トクン、トクン。脈が加速する。
 体の奥のほうで、何か熱いものがどんどんふくらんでいく。
「君はどう思ってる? 僕みたいな『お兄さん』ができるのは……君の望むことじゃないかな?」
「………。俺は……」
 先輩は待っている。俺の素直な答えを。
 そうだ。素直に、俺が望むことでいいんだ。
 建前も道理も、理由すらどうだっていい。俺の心が、今叫んでいることは。
(俺は、この人が好きだ。この人と、一緒にいたい)
 これは恋だと思う。でも、恋ってなんだ? 
 それはきっと、愛するってことだ。
 俺はこの人を愛している。
 優しくて、あたたかくて、情に厚くて、まっすぐで。見惚れるくらい美しくて、でもすねた時や必死な時にはかわいくて。
 そんなこの人が愛おしくて、大切だから、一番近くにいたい。
 毎日顔を見たい、話したい、もっと知りたい。
 できることならこの人が苦しい時には、傍で支えたい。守りたい。
 そんな、誰よりも深い関係。それが家族だというのなら。


 俺は、両手で力いっぱいその愛おしい存在を抱きしめた。
 そして。


「俺も──なりたいです。あなたと、家族に」


 薄雲がスーッと消え、澄み切った青空が現れるように。
 一点の迷いもなく、そう応えた。


「っ……蒼羽くん……」
 すぐ耳元で、震える声が聞こえる。
 伝わってくる彼の心音は、俺のと同じくらい速い。
「でも、覚悟してくださいね。俺、家族として──『弟』として、あなたを溺愛するから」
 肩口に埋めるように宣言した。もうこの人を、絶対に手離さない。
「溺愛って……」
 俺の背中をやんわり抱き返しつつも、笑い混じりの声が返ってくる。
 俺は腕を緩めてわずかに体を引き、間近にある顔を見据えた。
「なんですか。俺もあなたのこと大好きなんです。弟が兄を溺愛しちゃダメですか」
(ダメって言われてもするけどな)
 俺の眼光で冗談なんかじゃないと気づいた先輩は、最初ぱちくりと瞬きをした。
 でも次の瞬間には、ほわっと相好を崩す。
「そうだね。全然、ダメじゃないね」
 今度は先輩の腕に力が入り、開いた距離をぎゅっと引き戻された。「ああ~」と気の抜けたような声を発しながら、俺の胸にぽすんと額をぶつける。
「僕も蒼羽くんのこと、溺愛しちゃうだろうなぁ。今、なんかちょっと感動で泣きそうだし。やっぱり僕、君のこと相当好きみたいだ」
「泣いていいですよ」
 先輩が泣いてくれれば、俺も遠慮なく泣ける。余裕で号泣できるだろう。
「ふふ……大丈夫、泣かないよ」
 もう一度腕にきゅっと力を入れてから、先輩は静かに抱擁を解いた。名残惜しさを感じつつも、俺も腕を下ろす。
「ねえ。あれ、ベランダに運ぼう」
 そう言って彼が指さしたのは、床に置いたままの荷物だ。
 俺に『家族になってください』を言うために、先輩が一人で買ってきた鉢と苗。殺風景なベランダを、これから二人で彩っていくための。
(ていうか、なんかプロポーズの指輪みたいじゃないか。なんつーかわいいことを……)
 俺もだいぶ舞い上がっているかもしれない。考えた瞬間ぼぼぼっと頬に血が上って、とっさに手のひらで顔の下半分を覆う。
「そそ、そうですね。俺運びますっ」
 むくっと立ち上がり、俺は荷物の置かれた位置まで戻るとふたつの袋を持ち上げた。鉢は軽量タイプのようだが、やはりそこそこ重い。
「先輩、窓開けてください」
「わかった」
 先輩が掃き出し窓を大きく開けてくれ、二人でベランダに出た。
 いい天気だ。梅雨の合間の晴れ日、温まり始めた昼前の空気が心地よい。
「ところでさ。前にも言ったけど……やっぱりこれを機に、呼び方変えない?」
 ビニール袋から鉢を出す作業をしながら、先輩が言った。
「呼び方?」
「そう。僕のこと『先輩』って呼ぶの。あと敬語も。家族なのに他人行儀でしょ」
「あ……まぁ、たしかに……。じゃあ、どう……?」
 なんて、以前にも言われたことだから、返答は予想できるけれど。
「『榛名』って呼んでよ。僕も『蒼羽』って呼ぶ。ひとつ違いの兄弟ってそんな感じじゃない?」
 案の定の提案が返ってくる。
 以前そう要望された時は、呼び捨てなんてとんでもないと返答を濁した。
 今も、想像するだけで心臓が早鐘を打つ。だけど──
「ね? そうしてよ──蒼羽」
「!」
 少し甘えるように柔らかく呼ばれて、俺の心に芽生えたのは、純粋に嬉しさだった。
 そして願いだ。呼び方も、距離も、もっともっと近づいていきたいと。
「わ……わかった。…………榛名」
 緊張でかすれ気味の声になってしまったけれど。初めて唇にのせた名前は、今日の好天のようにさわやかな幸福感を運んできた。
「うん! 改めて、よろしく!」
 ガバッと榛名が抱き着いてくる。久々の、テンションマックスの時の子供みたいなハグだ。不意を突かれた俺は、その勢いにたたらを踏んだ。
「わ、ととっ……ぶ、ぶつかる、鉢!」
「あ、ごめんっ」
 幸いぶつからずにすんだが、榛名はさっと離れてペロッと舌を出した。
(……こんな表情、後輩のままじゃ絶対に見られなかったな)
 きっとこれからも、この人の新たな一面を見るたびに、俺は今のような幸せを感じるんだろう。
「──で、榛名。自分で買ってきたからには、当然自分も世話、頑張るんだよな」
 浮かれ気分のまま、俺は少しだけ意地悪く尋ねた。とたんに榛名の眉間が寄る。
「うっ……も、もちろんそのつもりだよ。二人で育てたいって言ったでしょ。朝の水やりも、極力……できる時はやるつもり!」
 その後にものすごく小声で『朝は蒼羽に頼りがちになるかもだけど』とついたのは、聞かなかったことにしてあげよう。
 おかしくて、嬉しくて、俺はこらえきれずに吹き出してしまう。
「わかった。二人で、丁寧に育てていこう。ふたつだけじゃ寂しいし、もう少し数も増やしたいな。お姉さんがいた時とまでは行かなくても」
「うん、そうだね」
「あと、椅子も買おうか。またベランピングしたり、並んで日向ぼっこしたり、星見たり、花火見たりできるように……2脚」
「わぁ、いいね! 買おう買おう!」
 榛名のはしゃいだ声が澄んだ空に吸い込まれていく。笑顔がまぶしくて、俺は目を細めた。



 ──こうして俺は、俺の人生を変えてくれた、大好きで大好きでたまらない人と家族になった。
 榛名は、俺の一番大事な人。
 そして榛名も、俺のことが好きで、大切に思ってくれている。
 もう一方通行じゃない。両想いだ。
 もう、陰から見守る必要も、想いを隠す必要もない。

(全身全霊で──力いっぱい、溺愛してやる)

 初夏の清涼な空気の中、そう誓った。





  〇つづく●