愛してるから『弟』でいます。





「いらっしゃい、悠日」
「お邪魔します。ご飯時にごめんね」
 7時過ぎ、楠本先輩が家を訪ねてきた。「構わないよ」と天月先輩が答える。
「どうぞ。飲み物淹れてきます」
 リビングに通し、先輩たちには先にソファへ座ってもらって、俺が3人分のコーヒーを淹れた。L字型に配置されたソファの一方に楠本先輩、もう一方に天月先輩と俺が座る。
 先輩たちの表情は一見落ち着いていて、和やかな空気だ。でも、両方から隠し切れない緊張は漂っていた。俺もきっと同じようなものだろう。
 とりあえずは全員がカップに口をつけ、微妙な間があく。
 最初にカップを置き、姿勢を正したのは楠本先輩だった。
「蒼羽くん、今日はありがとな。おかげでちょっとは進展あったし、やっと話す決心もついたよ」
「あ……いえ……」
(今日で進展? ってことは、誰かを追いかけてったあれも関係あったってことか……?)
「遅くなったけど、全部話す。洗いざらい」
「……うん」
 天月先輩が答え、俺も黙ってうなずいた。
「まずは改めて──ここ最近は俺の問題のせいで、心配かけてごめん。榛名には風邪までひかせて、本当に悪かった」
 両膝に手を置いて、楠本先輩はしっかりと頭を下げた。こんな殊勝な態度の彼を見るのは初めてだ。
「風邪のことは気にしないで。あれは僕の管理不足だから」
 天月先輩が恥ずかしげに返す。3人とも濡れたのに自分だけ風邪をひいたことは、彼にとっては失態で、割と気にしているようだ。
 楠本先輩もそうわかっているからか、それ以上は触れずにあいまいな笑みを浮かべた。
 そして、横に置いたバッグを取ると、中から1冊の雑誌を取り出す。ちらっと見えた表紙からすると、ビジネス系の雑誌のようだ。
「……?」
 何事かといぶかしげに見守る俺と天月先輩に見えるよう、こちらを向けて、開いた雑誌がテーブルに置かれた。
「この人、知ってる?」
 長い指が、誌面をトンとたたく。
 開かれたページに載っているのは、インタビュー記事のようだった。見出しには『今話題のグラフィックデザイナー』という文字がひときわ大きく踊っている。
 そして人物写真が2枚。インタビューに応じている、男性の写真だ。
 瘦身で、飾り気のないややパサついた髪。顔立ちは整っているけれど、派手さはない。いわゆる塩顔というやつか。ちょっと不健康に見えるほど色が白い。
(あれ? この人、どこかで……)
 その顔に見覚えがある気がして、俺は記憶を探った。
 知り合いってほどじゃないが、見たことがある気がする。どこでだったか……
「──あっ! こいつ、あの時の怪しい勧誘ヤロー!」
 宝賀学院の最寄り駅で会った、先輩たちを見ていた男だ。
 ひらめいた瞬間、思わず声に出してしまっていた。先輩たち2人がきょとんとする。
「勧誘ヤロー?」
 横から天月先輩に聞かれ、俺は軽く慌てながら、
「あ、いや。単に、俺がそう思っただけなんですけど」
 と訂正した。
 実際、グラフィックデザイナーだった……のか? 状況はさっぱりのみ込めないが、なら、雑誌社や芸能事務所の人間じゃなさそうだ。
「どういうこと? 一弥(いちや)さんに会ったことあるのか?」
 楠本先輩が身を乗り出して尋ねてくる。俺は手短に、この人が駅で先輩たちを見ていた日のことを話した。
「そんなことがあったんだ。そっか、駅前に……」
 楠本先輩は驚きと喜びと安堵が入り混じったような、なんとも言えない表情でつぶやいた。
「それで悠日、この人って……?」
 天月先輩がやんわりと説明を求める。楠本先輩は「わかってる」というように目線でうなずいて話し始めた。
湖東一弥(ことういちや)、24歳。フリーのグラフィックデザイナー。来年、名古屋で開かれる万博あるだろ? あれのロゴデザインのコンペで勝ち抜いて、彼のデザインが採用されたんだ。これはその直後のインタビュー記事」
「ああ……」
(そういえば何カ月か前に、結構話題になってたな)
 正直、流行や時事には関心が薄めなので、言われてやっと「そんなこともあったな」と思い出した。名前まではまったく覚えていなかったけれど。
 最初は、フリーの若手が勝ち抜いたということで話題になったのだ。でも、たしか……
「テレビでも一時期ニュースでよくやってたね。けど悠日、そのデザインは……」
 おそらく俺が考えたのと同じことを、天月先輩も言いにくそうに口にする。
 その反応は予想していたのだろう。楠本先輩は淡々と先を引き取った。
「そう。しばらくして盗作疑惑が沸き起こって、優勝をはく奪、採用も取りやめになった。無実だけどね」
「委員会の調査で、デザイナーの案のほうが先にできてたもので、故意の盗作じゃなかったことは立証されたっていう報道だったよね。でも、当人はそのまま採用を辞退したって」
「騒動になった時点で大きなイメージダウンだからな。……疑惑は完全な捏造。知り合いに裏切られて、はめられたんだよ」
(知り合いの裏切り? 楠本先輩、なんでそんなことまで知って……)
「で、ショックを受けたこの人は、何もかもほっぽり出して今行方不明……っていうか、都内にいることはわかってるんだけど、あちこちふらついてて所在がはっきりしない。そのうちどこかで野垂れ死んでそうで、心配でさ。俺はこの人を探し回ってたってわけ」
 雑誌の中の『彼』に視線を落とし、楠本先輩は濃い憂いを含んだため息をついた。
(ええと……つまり、楠本先輩はこの人と知り合いで……最近様子がおかしかったのは、この人のことが心配だったのと、探してたから……?)
「あっ……じゃあ、今日追いかけたのもこの人だったんですか?」
 細身で長身の男性だった。つながってみれば、あの後ろ姿はたしかにそうだ。
「うん。いろんな知り合いに情報提供お願いしてて。新宿も、見かけたって聞いたから探しに行ったし、今日の渋谷も、あの近くのネカフェに出入りしてるようだって聞いて、カフェで張ってたんだ」
「……そんなことまでしてたんだね」
 いたわるように返した天月先輩の声は優しい。
 疲れ果ててずぶ濡れになったり、現れるとも限らないのに待ち伏せたり。本気で会いたい相手なのだろう。そのために、彼は懸命だったんだ。
「……悠日。この人と、君は──」
 天月先輩の真剣な眼差しをまっすぐ受け止めて、楠本先輩ははっきりと答えた。
「一弥さんは、俺の元家庭教師なんだ。で──俺の、好きな人」
(はっ……!?)
 口を突きそうになった大声を、俺はかろうじてこらえた。
(え……今、なんて言った? 好きな人?)
 混乱で、空調効きまくりの室内だというのに脇やら背中やらに汗がにじみ出してくる。
(好きってどういうことだ。だって、楠本先輩が好きなのは……)
 泳ぐ視線を隣に座る天月先輩に向けた。
 彼も言葉なく、驚きの眼差しで楠本先輩を見ている。
 でも、俺のように取り乱したりはしていなかった。驚いてはいるが、落ち着いている。
「そっか。この人が……」
 改めて写真に写るその人をしげしげと見つめる天月先輩。なんだか感慨深げだ。
 聞いた事実を静かに受け止めて……それだけでなく、どこか嬉しそうでもあった。
(なんで……浮気とか二股ってことじゃ……。怒らないのか? どうなってんだよ!?)
「恋人、ではないの?」
「うん、違う。俺の片想いだから」
「そうなんだね。でも、行方不明なんて心配だよね。気が気じゃなくなるのも無理ない。納得だよ」
「~~~っ!? ちょ、ちょっと待ってくださいっ……!」
 どんどん進んでいく二人の会話についていけず、俺は上ずった声で割って入った。
 何がどうなってる。俺だけが理解できずにパニックだ。
「あ、天月先輩……ショックじゃないんですか?」
 まずそう尋ねると、天月先輩は不思議そうに小首をかしげた。
「ショック? どうして?」
「だって……この人のことが、好きって……」
「悠日に好きな人がいるのはわかってたから。直接聞いたことはなかったけど、そういうのって見てたらなんとなく気づくよね」
「へっ……? わかってた……?」
 ますます混乱して目を白黒させる俺。
 それを見て、我慢しきれなかったように楠本先輩がクスクス笑いながら会話に加わった。
「やっぱりな。蒼羽くん、君、根本的に誤解してるんだよ」
「……誤解?」
「うん。俺と榛名は、別に恋愛関係じゃない。純粋に友達。俺が好きなのは前から一弥さんだけ」
「!! そ、そう……なんですか……!?」
「ええっ!? 蒼羽くん、そんなふうに思ってたの!?」
 愕然とする俺を見て、天月先輩も目を真ん丸にする。互いに呆けたような顔で見つめ合った。
「や、だって……むちゃくちゃ仲いいし、天月先輩、すげー楠本先輩のことで悩んでたし……日本に残りたいのも、離れたくない相手がいるからだって……」
 他にも根拠はあるのだが、さすがにこの場では言いにくい内容なので伏せておく。
 へどもどする俺に反して、天月先輩はけろりと答えた。
「ああ、それはたしかに悠日のことだよ。親友がすごく悩んでるみたいなのに、放っておけないもん」
「親友……」
(ということは……全部、俺の思い込みで……)
「本当に、ただの友達……なんですね……?」
「うん」
「そうだよ。友情しかない」
 コクンと首を縦に振る天月先輩とほぼ同時に、楠本先輩もそう言い添えた。
(俺は……俺は……)
「すいませんでしたっ……! 俺、勝手に勘違いしてて……!」
 今度は俺が深々と頭を下げる番だ。
 なんならそのまま床にくずおれてカーペットの下にもぐってしまいたい。
 申し訳ないやら恥ずかしいやら。そしてそれ以上に、全身から一気に力が抜けて体がふしゅふしゅと溶けそうだ。
(天月先輩は、楠本先輩が好きなわけじゃなかった……)
 完全に失恋したと思っていたから、すぐには頭が整理できないし気持ちも追いつかない。
 でも……脱力した体は重いけど、気持ちはなんだかふわふわしている。
 夢を見ているみたいに、ふわふわ。あったかくて、軽い。
「まあ、学校では俺があえてそれっぽく振舞ってるところもあったしね。こっちこそヤキモキさせて悪かったよ」
「僕も、蒼羽くんがそんな誤解してるってこと、ちっとも気づかないでごめんね」
「やや、二人は謝らないでください……!」
 恐縮しきりの俺に、二人がほほ笑んで。
 誤解が正されたところで、改めて天月先輩が楠本先輩に告げた。
「人探しなんて大変だったでしょ。話してくれたら協力したのに……水くさいよ、悠日」
 すねたような口調で、ごくわずか険しい顔になる。楠本先輩は耳たぶをかきながら苦笑した。
「ごめん。でも、きちんと話さずに人探しだけ手伝わせるってのはずるいし……いくら親友にでも、カミングアウトはかなり勇気がいるよ。男が好きで、しかも全然相手にされてないのにあきらめられなくて、何年も片想いしてるとか」
(何年も片想いなのか……どこかで聞いたような話がまさかここにも……)
「……それに、後ろめたさもあったんだ」
「後ろめたい? って、何が?」
 まったく心当たりがないという表情できょとんとする天月先輩。
 楠本先輩は「そういうところ、ほんと榛名だよなぁ」とひとりごちてから、
「さっきも言ったけど、学校では俺、意識的に榛名とベタついてたから。ほら、ソーレ様とルナ様はそういう関係だって噂。あれのおかげで、遠巻きに見られてるとこあるだろ。正直、助かってたから。わざとそれっぽく振舞って、噂を利用してたんだよ」
「ああ……たしかに、二人は完全にペアとして確立してるから、自分が付き合いたいっていうより、二人そろってるのを見ていたいってファンのほうが多いですよね」
 親しい二人の姿を間近で見て、俺もその心境には納得したことがある。
「うん。そんなふうに、榛名を俺の都合に巻き込んでること、悪いとは思いつつも付き合わせてた。それが後ろめたくて」
「ははっ、なぁんだ。そんなの、全然気にすることないのに」
 むしろ拍子抜けしたという感じで天月先輩が笑う。
「キザな言い方で仲良しアピールしてる程度で、別に嘘ついてるわけじゃないでしょ。僕だって、悠日のことがすごく大事なのは同じだもん。それで悠日が助かるなら全然いいし、利用してるなんて思わなくていいよ」
 屈託なくそう話す天月先輩に、楠本先輩は苦笑いで肩をすくめた。
「榛名ならそう言うことはわかってたよ。けど、そんなおまえだからこそ、罪悪感わくんだって。この気持ち、蒼羽くんならわかるよな?」
「あー……はい、そうですね。わかります」
 急にふられて軽く戸惑ったが、さして悩まず肯定した。
(とにかく天使すぎるんだよな、天月先輩。この人といると自分がすごくちっさい人間に思えちまうっていうか)
 楠本先輩も、自分が卑怯なことをしているように感じられて言えなかったのだろう。
「えぇ……ほんとに構わないのにぃ……」
 麗しの天使は、唇をすぼめてさらにすねる。可愛いすぎるからやめてくれ。
「まぁ、何はともあれ」
 楠本先輩が、区切りのようにバサッと大きな音を立てて雑誌を閉じた。
「そんなわけで今までは話せずに、一人で右往左往してたわけだけど。これで全部話したし、一弥さんとのほうもいったんは落ち着いた」
「落ち着いた? そういえば進展あったって……追いかけた後、話せたんですね?」
「うん。蒼羽くんの助言を胸に刻んで追いかけてね。かっこつけず、なりふり構わず、俺の手が届かないところに行かないでくれって怒鳴りつけてやったよ。あんたがふらふらしてると、心配でこっちが死にそうだって」
「かっこつけず、なりふり構わず……」
 俺の発言の部分をぽそっと反すうしたのは天月先輩だ。こっちを見て、優しい目元を細める。
「蒼羽くん、そんなこと言って発破かけたんだ」
「あ……はい、まぁ……」
(繰り返されるとハズすぎるな……)
 照れ隠しで、俺は楠本先輩に「それでどうなったんですか?」と続きを促した。
「とりあえず、家にはちゃんと帰るようにする、連絡は無視しないって言ってくれた。繊細な人で、一度メンタルやられるとなかなか厄介だから、まだ解決とは言えないけど。居所がわかって連絡つけば、どうにかなるから」
 雑誌をバッグに仕舞いながら話す声は、苦労が絶えないようなことを言いつつも、嬉しさと相手への慈しみがダダ洩れだ。
 元家庭教師ということだけれど、やっぱりそれ以上に親しいのだろう。そして、本当にすごく好きなんだなというのが伝わってきた。
 天月先輩といる時の彼とは、雰囲気が少し違うのだ。手を焼いているようなことを言いつつも、彼自身もなんだか子供っぽく感じられるというか……皮が1枚はがれて、素直な顔が見えている気がする。
「そっか。よかったね、悠日。盗作疑惑の件は、大変かもしれないけど……もし僕にできることがあったらいつでも言って。話聞くくらいしかないかもしれないけど」
「ありがと。聞いてくれるだけで充分だよ。困った時には頼む」
「うん! いつか、紹介もしてくれたら嬉しいな」
「そうだな。いつになるかはわからないけど、あの人が復活するまで気長に待ってて」
 楠本先輩は冗談めかしてそう言ったけれど。俺は、そんなに遠い日でもないように思えた。
(あの人……俺は先輩たち二人を見てて、二人のことを聞いてきたと勘違いしてたけど。本当は、楠本先輩だけを見てたんだよな)
 変わった様子はないか、元気にやってるか。そんなことを聞いていた。あれも楠本先輩のことが気がかりだったのだろう。
 偶然見かけたのか、避けてるくせについ様子を見に来てしまったのかは知らないけれど。あの人も、楠本先輩に心配をかけているのをわかっていて、それを気にしていたということだ。
(相手にされていない、なんてことはないんじゃないかな。希望も込めた推測だけど)
 少なくとも、今日の楠本先輩の言葉はきちんと届いたんだから。これからも、きっと大丈夫だ。
「あの、楠本先輩。俺も応援します、二人のこと」
 勢い込んで言った俺に、彼は久々の、太陽のようにカラッとした笑みを浮かべて「ありがとう」と答えた。