気温は日に日に高くなってきた。
梅雨に入り雨の日も増えたが、今日は晴天。
中庭でも、生徒たちは率先して日陰を取り合っている。
中には、日なたで体育祭のダンス自主練に励む猛者なんかもいるけれど。
(そういや体育祭、もう来週か)
弘樹も例によって練習だ。バトンパスがまだ微妙で、ぎりぎりまで特訓を重ねることになったのだと言っていた。
放課後、中庭に寄ったのはなんとなくだったのだけれど──
「アンタって、そのくらーい顔がデフォなの?」
木陰に立ってぼうっとしていると、横から愛想のない声がかかった。
「……槇原」
女の子みたいにかわいい顔立ちだが、強気そうな目が無遠慮に見据えてくる。
カバンを持っているということは、こいつも帰宅途中らしい。
「アンタ、いっつもしかめっ面してない?」
と、難癖をつけつつも、同じ木陰に入ってきた。
俺が背中をあずけているこの木は、クスノキだったかケヤキだったか。忘れたけれど、しっかりした大木で木陰も広い。
「おまえに言われたくないけどな」
「……まあ、たしかに」
(そこは受け入れんのか。自覚はあるんだな)
なんでもかんでもキャンキャン言うわけじゃないのは、初対面の時にもわかっていた。
キツイことを言われても憎めないのは、こういうところがあるからだろうな、と思う。
「ノド乾いたから、休んでから帰るとこだったんだよね。……飲む?」
差し出されたのはお茶のペットボトルだ。
小脇には自分用らしいもう1本がある。つまり、2本買ってから来た、というわけで。
(やっぱツンデレ……)
もしくは弘樹の差し金だろうか。あいつも俺のことは気にはなってるだろうが、何しろ今は多忙で時間がなさそうだ。
まあ、ここは突っ込まないほうがいい部分だろう。俺は「もらう」と、ありがたく受け取ることにした。
槇原は何も言わず、俺とは90度の位置で、同じように幹へもたれる。
「なんかあったの。オレでよかったら話聞くけど」
「……うん」
たしかに、今全部吐き出せる相手はこいつしかいないかもしれない。
俺はペットボトルを開け、お茶を一口飲んでから短く告げた。
「俺、多分、失恋だわ」
ほぼ確定の、多分、だ。
ずっと、意識的に深く考えないようにしてきたけれど、そろそろ目を背けようがない。
先輩が日本に残りたいのは、『離れたくない相手がいる』から。
寝ぼけた先輩の、キスがどうこうという発言。
あれはどう聞いても、キスをするような相手がいるかもしれない、ということで。寝ぼけて、俺とその人を間違えていたんだろう。
そして、楠本先輩への態度と言葉。
渡り廊下では、はっきり『大切』だと言っていた。
雨の駅前での一件は3日前のことだ。あの時の必死で、今にも泣きそうな声。きつく楠本先輩を抱きしめる姿。
(きっと……そういうことなんだ)
「……ふーん」
槇原の返事もごく短い。『話を聞く』と言った通り、ただ待ってくれている。
俺は、天月先輩には好きな人がいて、どうやら両想いっぽくて、俺の出る幕などなさそうだということをぽつぽつと話した。
その間も槇原はそっけないあいづちだけで、最後に「そっか」と言った。
「……質問、していいか?」
「いいよ。答えるとは限らないけど」
「おまえは……片思い、長いんだよな?」
「まあね」
「その……言いたくなかったらいいんだけど、その間に……えっと……」
相手に好きな人や恋人がいたことはないのか。
さすがに不躾で(もしかしたら今もまさにそうかもしれない)言い淀んでいると、
「あったよ。でもあの人、そういうの疎いとこあって。コクられたから付き合って、でも長続きしなくてフラれるっていうパターンばっかだけど」
尋ねる前に、あっさりと答えが返ってきた。
「ていうか、聞きたいならサクッと聞けよ。逆にウザい」
「ご、ごめん」
反論もない俺に、槇原は盛大なあきれのため息をつく。
これ以上うんざりされないよう、俺は腹を決めて次の問いを発した。
「それでも、ずっと好きなのか?」
「うん」
簡素だが、ためらいのない即答だ。まるでそれが、ごく当たり前のことのように。
「だってオレの気持ちはオレのもので、相手がどう思っていようと恋人がいようと、消せるものじゃないから」
そこでお茶をグイっと飲んで、槇原は言い切った。
「相手に合わせて簡単に消せる程度の気持ちなら、それ、恋じゃないだろ」
「…………」
ドスンと、みぞおちに一発食らったような気分だった。
痛いような痛くないような、不思議な衝撃だ。痛くはあるけれど、暗闇に差し込む光のように、期待も呼び起こす。
(じゃあ……俺の気持ちも、消さなくていい……?)
「ま、なんて言うと悟ってるみたいだけど。実際には、どうしようもないからあきらめたってとこかな」
「あきらめた?」
「そう。あきらめるのを、あきらめた、あの人が誰を好きでも、オレはあの人が好きなんだから、どうしようもないよ」
槇原は、少しだけ自嘲めいた、吐息のような笑いをふっとこぼした。
「好きな人が他の人と恋愛してる話聞くのなんて、地獄だよ。グサグサ刺されて、毎日ボロボロって感じだよ。でも……それでもやっぱり、オレはあの人が笑ってると嬉しくて、『クソー、この顔がむちゃくちゃ好き』って思うんだ。見れないよりは、見れるほうが断然いいって思うんだ」
位置的に、俺たちは相手の顔を見ずに話している。それでも今、槇原はほほ笑んでいるのだろうなと。そうわかる、穏やかな声だった。
「あの人が元気ならオレは安心するし、あの人の存在がオレをオレでいさせてくれてる。好きだから好きでいる。この気持ちを否定したくないし、誰にもさせない」
(元気なら安心するし……あの人がいるから、俺が俺でいられる……)
ああ、その感じはとてもわかるな、と思った。
小3のあの夏以来、俺の中にはずっとあの人がいる。
その存在を消し去ることなんてできないし、仮に消せたとしても、その後に残る自分はどんな人間なのか想像もつかない。
だって心の中のあの人と、一緒に大きくなってきたんだ。
「『好きな人の幸せがオレの幸せ』なんてのは、ドラマの中だけのキレイごとだよ。実際には、片思いなんて死ぬほど辛い。早く両想いになりたい。でも、一番大事なのは『好き』っていう気持ちだから……オレは、辛くても、好きな以上は好きでいるって決めたんだ」
「槇原……」
俺は幹から背を離し、動いた。槇原の顔が見える位置に立つ。
「おまえ、かっこいいな」
槇原は一度瞬きしてから、ふてくされたように唇をとがらせて目線を外した。
「別に。オレは、自分に正直に生きてるだけだから」
いや、ツンデレ少年がそれ言うか、とツッコみたくなったけれど。
こいつがとてもまっすぐに恋をしていることは、俺にもまっすぐ伝わってきた。
玄関を入ると、天月先輩の靴はもうそこにあった。
リビングの電気もついている。でも室内は静かだ。
「ただいまです……先輩?」
呼びかけながらリビングに入ると、先輩は私服姿でソファにいた。ぐったりと、倒れ込むように座って頭を抱えている。
「先輩っ? どうしたんですか!?」
カバンを放り投げて駆け寄った。ふらふらと先輩が頭を持ち上げる。……顔が赤い。
「あ……蒼羽くん……」
気だるそうな声。目は潤んで、少し充血もしていた。
俺は先輩の額に手のひらを当てる。
「あつ……熱あるじゃないですか!」
「うん……なんか、朝は大したことなかったんだけど、昼頃から段々……」
(大したことなかったって……じゃあ朝から具合悪かったのかよ)
「体調悪いなら言ってくださいよ! 無理して登校しなくても、休めばよかったのに……!」
「ごめん……」
謝った後に、コホッと咳込んだ。
完ぺきに風邪だ。3日前、雨に濡れたせいだろう。
「とにかく、横になりましょう」
そこからの小一時間は慌ただしく過ぎた。
部屋へ連れていき、ベッドに寝かせ、体温を計ったら38,2度。常備薬はあったので、おかゆを作って食べさせてからそれを飲ませて。
食後、冷却シートを額に貼って横になると、先輩はすーっと眠りに落ちていった。
23時前、自室にいると物音がして、彼が起きたと気づく。
俺はキッチンでグラスに水を注ぎ、持って行った。
「おはようございます。具合、どうですか」
「ん……結構ましになってる……」
先輩は枕を背もたれに、上半身を起こして熱を測っていた。すぐにピピッと鳴り、見てみると37,4度。
のどが渇いていたようで、コップの水は一息に飲み干した。
「ふぅ……ありがとう、蒼羽くん」
「礼なんかいいです。明日はちゃんと病院行ってくださいね。長引いたら体育祭間に合いませんよ」
「うん……そうする。ごめん」
反省しているのか申し訳なさからか、先輩はしゅんと肩をすぼめた。病人相手にちょっときつく言いすぎたかもしれない。
「いや、俺も説教じみたことばっか言ってすいませんでした。でも、あの……心配で」
「わかってる。蒼羽くんが謝ることなんか何もないよ」
まだほんのり紅潮した頬がゆるみ、薄く笑ってくれた。それだけで俺の心もゆるゆるほどけていく。
(好きな人が笑ってると嬉しくて、元気だと安心する。マジで、槇原の言ってた通りだな)
俺はこの人に元気で、幸せでいてほしい。ただそれだけなんだ。
この3日間、先輩はあまり元気がなかった。
もしかしたらずっと体調がイマイチだったのかもしれないけど──多分まだ、楠本先輩とのことも解決していない。
「あの……起きてるの、辛いですか。また寝ますか」
おずおずと聞くと、先輩は笑みを浮かべたまま「ううん」と首を振った。
「大丈夫。眠くないし……僕も話したい気分」
その顔を見て、きっと彼は、俺が話したい内容に気づいてるんだろうなと思った。
ベッド脇にひざまずいていた俺は、デスクの椅子を借り、改めて枕元に座った。
「……心配かけ続けてるよね。ほんと、面目ない」
「いえ……楠本先輩とは、その後、どうなんですか」
「まだ、特には。あ、体調は問題なさそうだよ。悠日のほうが濡れてたのに……はは、僕、ひ弱だよねえ」
「んなこと気にしなくても……。ていうか、この風邪だってあれが原因なんですから、待ってるだけじゃなくてガツンと言ってやったらいいんじゃないですか。早く腹くくれって」
「うん……そうだよね」
そう答えつつも、先輩は布団の上でそろえた両手に目を落とした。何かを考えるように黙り込む。
ややあって再びこちらを見た瞳は、どこかおびえる小動物のようなもろさを含んで揺れていた。
「わかってるんだ。あの日、蒼羽くんに言われた通りだって。悠日だけじゃない、僕も怖がってる。蒼羽くんに手を引かれなきゃ、新宿にも行けなかったかもしれない。情けない、ダメダメの怖がりだって」
「え……いや、俺はそこまでは……」
ダメダメとまで言われると申し訳なくて、慌てて否定しようとしたけれど。先輩は首を振って、俺の言葉をさえぎった。
「本当にそうなんだよ。わかってるんだけど……いざとなるとやっぱり、勇気が出ないんだ。僕は……すごく、弱い」
投げ出された拳が、きゅっと握り込まれる。
(先輩……)
その告白が、ただの自虐でないことは伝わってきた。だから俺は、静かに続きを待つ。
「僕のこと、しっかりした強い人間だと思ってる人もいるかもしれない。でも実際は、そんなこと全然ないんだよ。ちっとも強くない。本当の僕は、拒絶されたり嫌われたりするのが怖くて、思ったことが言えなかったり……我慢することが、よくある。なんかもう反射のように、波風を立てないことを優先しちゃうんだ」
そこで区切ると、バツが悪そうな微笑を浮かべて、「蒼羽くんには、もうちょっとバレてると思うけど」と続けた。
「それって……あの、女子高生に写真撮られた時の話ですか」
「うん、そう。あの時、蒼羽くんは『嫌なことは言っていい、自分を大事にしろ』って言ってくれたよね。あの言葉、すごく嬉しかったし、心からそうなりたいって思った。だけど……肝心な時にどうしても、失うことの怖さがよぎっちゃう……。臆病者のスイッチが、入っちゃうんだ」
先輩は顔を正面に向け、前の壁を見た。
……いや、違う。その目はもっと遠く──記憶の中の光景を眺めている。
「──うちが父子家庭なのはね。母親が、他に好きな人ができて……それで離婚したんだ」
「……! そう、だったんですか……」
それまで聞いたことのなかった身の上話に、俺は思わず背筋を伸ばして緊張した。
先輩は「そんな顔しなくていいよ」と言うように小さく笑って、
「うん。僕が小3の時」
とうなずく。
(小3ってことは、俺と出会う1年前……?)
ならあの夏、彼はまだまだ心の傷が癒えていない状態だったのではないか。いつもふんわりとほほ笑み、俺を励ましてくれていた姿には、そんな片りんはわずかもなかったけれど。
「父さん、起業からずっと海外出張が多くてほとんど家にはいなかったから、母さんも寂しかったんだと思うけど。毎日彼女を見てるとね、子供ながらにわかるんだよ。少しずつ少しずつ、父さんへの愛情や、僕たち姉弟への関心が薄れていくのが」
痛みをこらえるように目が細められる。まぶたには、そんな母親の姿がまざまざと浮かんでいるのだろう。
「花びらが1枚ずつ落ちてくみたいに……瑞々しかった果物が干からびてくみたいに、変わっていくんだ。母さんが、遠くなっていくんだ。それがとても悲しくて……怖かった」
「っ……」
俺は息を詰めることしかできなかった。
先輩は淡々と話すけれど、心優しい少年が感じた悲しみや恐怖、寂しさは、どんなに大きかったことだろう。それを思うと、あまりに痛い。
やがてとうとう母親は家を出て、離婚が成立した。それを機に4歳年上のお姉さんも心を閉ざし、和馬さんに反発するようになった、と先輩は続けた。
グレるというほどではないが、こじれていた時期があったようだ。とはいえ彼女が思春期の数年だけで、今は打ち解け良好な関係だと聞いてほっとしたけれど。
(あの夏、お姉さんが一緒じゃなかったのはそういう事情だったんだな)
でもやっぱり、あの時先輩は笑顔の裏で、様々な悲しみを抱えていたんだ。
そう知ると、まったく気づかずに頼ってばかりだった自分が口惜しい。
「……誰かに向き合わなきゃいけない場面になると、あの時の感じを思い出しちゃうんだよ。もう誰も失いたくなくて、相手が望むように、相手を困らせないように、いい子にする癖がついたっていうか……。いろんなこと、のみ込んでた」
先輩は枕から背を起こし、体ごとこちらを向いた。
「僕は強くなんかない。きっかけがないと勇気が出なかったり、誰かから勇気をもらってやっとひとつ踏み出せるくらいの、弱い人間なんだ。蒼羽くんみたいに強くなりたいって、願ってるんだけど」
「は? 強い? 俺が?」
ぽかんとしてしまう。俺なんかの、どこが。
「強くないですよ、全然」
力いっぱい否定したけれど、先輩の返事も力強い「そんなことない」だった。
「蒼羽くんは強いよ。……あの時だって、君が力をくれたんだ」
(あの時?)
つぶやくように付け加えられた一言に、俺は内心首をひねる。
新宿に引っ張り出したことだろうか。なんだかまた遠くを見るような眼差しだったけれど……。
その時、先輩がクシュンとくしゃみをした。
まずい、落ち着いたようだからと長く話しすぎたかもしれない。
「すいません、無理させちゃいましたね。横になってください」
椅子から腰を浮かせ、促そうと先輩の肩に触れた。
でもその手首を、先輩がつかんで止める。
「……先輩?」
「あ……ごめん。なんか、つい。もう行っちゃうのかなって思ったら」
「え……」
戸惑いと心細さが半分半分の瞳で見上げられ、ズクンと心臓が音を立てた。
つかまれた手首が熱い。──ドキドキしている俺より、先輩のほうが熱い。
「先輩……多分、また熱上がってきてますよ……」
横にならせないと。そう思っているのに、体は彫像になったように動かなかった。
「……うん。そうかも」
先輩の手が、俺の手を彼の額へ導く。
そっと手のひらで触れると、熱かった。でももう風邪の熱のせいなのか、なんなら先輩と俺、どっちが熱いのかもよくわからない。
「気持ちいい」
まぶたを閉じて、先輩がうっとりと声をこぼす。
俺の右手はつかまれたままだ。まるで、「離れないで」と言うように。
「……っ」
衝動だった。
自分が何をしようとしているのかも理解しないまま、自分の手をつかむ先輩の手を、逆の手でつかんだ。ゆっくりと、下へ降ろさせる。
「……蒼羽くん?」
呼びかけにかまわず額に触れていた手も離すと、空いたそこへ自分の額を合わせた。
「……熱い」
すぐ目の前に先輩の顔がある。淡く染まった頬で、濡れたこげ茶の瞳で、俺を見ている。
(この人が弱くて……俺が強いって言うなら)
自分ではそう思えなくても、この人がそうだと言うのなら。
(俺が傍にいて、支えたい。強さを分けてあげたい)
今こうやって、互いの熱を感じ合っているように。俺から先輩に、渡せるものがあるのなら。
視線を絡めて、心の中だけで。でも強く強く、そう思った。
「……やっぱり熱、上がってるかな……?」
先輩ははにかみ、ささやくように尋ねてくる。
俺は長く、静かに息を吐いてから、「はい」と答えて額を離した。
「もう寝てください」
今度こそ、やんわりと両肩を押して促す。先輩ももう逆らわず、おとなしく横になった。
「ありがとう、蒼羽くん」
何に対しての礼なのかは聞かず、また「はい」とだけ言って椅子をデスクに戻しに行く。
「おやすみなさい」
最後に声をかけて部屋を出た時、俺はもうひとつ新たな決意をしていた。
いや、決意というほど崇高で大したものではない。単なる俺の意思だ。もしかしたら先輩には大きなお世話かもしれない。
だけどそれでも、先輩に「言いたいことは言っていい」と伝えたように。
(俺がムカつくから──言ってやる)
自室に戻ると、俺は楠本先輩にメッセージを送った。
『一度二人でゆっくり話がしたいです』と。
