6月1週目が終わった。
中旬に迫った体育祭に向けて、学校は慌ただしくなっている。
俺はイベントに前のめりになるタイプではないので、俺自身の日常はさして普段と変わりないけれど。
「蒼羽くん、何に出るの?」
「障害物走と綱引きです。先輩は?」
「僕は100m走と騎馬戦」
「騎馬戦……騎馬ですか、騎手ですか?」
「騎手。僕は騎馬もやってみたかったんだけど、クラスのみんなから騎手に推薦されちゃって。『天月から強引に帽子をひったくれるヤツはいないから』って」
「あー……なるほど」
夕食後の片付けをしながらそんな会話を交わしていると、テーブルに置かれた先輩のスマホが震えた。
残念そうな苦笑いをおさめ、先輩はスマホを手に取り確認する。
「父さんからだ。見て」
差し出された画面に視線を落とすと、『やっと日程が決まった。23日に帰るよ!』というメッセージに、和馬さんと母さんが笑顔で映る画像が添付されていた。
(母さんめ。これで報告まとめたな)
前回に続き、俺のほうのスマホはうんともすんともいわない。基本、マメでもないし大ざっぱな人だから気にしないけれど。
「23日か。思ったより遅いね」
先輩の感想には同意だった。中旬と聞いていたが下旬にずれ込んでいる。もう少し早い、それこそ体育祭と同じくらいかと思っていたのだけれど。
「段取りで手間取ったのかもですね。まぁでも、あっという間じゃないですか。間に体育祭あるし」
自分でそう言って、内心で軽く焦る。決断の時は刻一刻と迫っているわけだ。
「そうかもね。にしても父さん、玉季さんと一緒で本当に楽しそうだな。こんなふうに何枚も写真送ってくることなんて、前はあんまりなかったんだよ」
なんとなくだけれど、先輩はわざと話題を変えてくれたように感じた。
ありがたく便乗しつつ、俺は引っかかったワードを聞き返す。
「何枚も? よく送られてきてたんですか?」
「あ、うん。見る?」
先輩がチャット画面をスクロールすると、たしかに何枚も母さんと映る画像があった。和馬さんは母さんより、こういうところはマメな人らしい。
と、二人の画像に混じって、向こうの大学らしいリンクが貼られているのが目に留まった。
「それって……」
「ああ、これ? なんだかんだ、父さんまだ、僕が向こうに行くこと諦めてないみたい。たまに、『こんなところもあるよ』って送ってくるんだ」
「そうなんですね」
「その気はないって伝えてるんだけどね。進路、まだ具体的に考えられてないけど、それでもアメリカっていうのは──」
そこで先輩は言葉を切った。俺が『ん?』という顔をしたのに気づいたからだ。
「どうかした?」
「いや……先輩、会食の時、行きたい大学あるって言ってませんでした?」
その問いかけに、先輩はハッと目を丸くした。セリフをつけるとしたら、多分『しまった』だ。
「実は……あれは、嘘なんだ」
スマホをテーブルに戻しつつ、バツが悪そうにそう告げる先輩。
「嘘?」
「父さんを納得させるには、そう言っておくのが一番いいと思って。本当は、まだ何も定まってないんだけど」
(……それは、要するに──)
「……日本に残りたい理由は、他にあるってことですか?」
問いかけに、先輩は一瞬ためらうように視線を揺らめかせた。
そして俺とは目を合わせないまま、遠くを見るような眼差しで、
「……うん。今は……離れたくない相手がいるから……」
と、独り言かと思うような小さなつぶやきを落とす。
「え……」
(離れたくない相手……?)
その人を思い浮かべているのか、先輩の整った相貌には憂いが浮かんでいた。わずかに寄った眉に、切なげな色が垣間見える。
それは誰なんですかとは、聞けなかった。
翌日の放課後も、校内はにぎやかな声で満ちていた。
応援合戦、ダンス、縦割りチームのチーム対抗リレー、部活対抗リレー。そんな体育祭の目玉ともいえる、団体種目の練習があちこちで行われている。
帰宅部だが、実は足だけは速い弘樹もチーム対抗リレーに出るらしく、最近は練習に忙しそうだ。
そういうのには関わらない俺は、いつも通りの下校時刻に校舎を出ようとしていたけれど──
「……悠日!」
耳に小さく届いた声に、廊下を歩く足を止めた。どこからだ?
ぐるりと四方を見回して、見つけた。
窓の外、本館と別館をつなぐ1階の渡り廊下に、天月先輩と楠本先輩がいる。前を行く楠本先輩を、天月先輩が呼び止めたようだった。
「なに?」
楠本先輩は振り返り、短く問う。感情が一切うかがえない無表情だ。
彼のそんな顔を見るのは初めてで、ついドキリとする。
2メートルほどあいていた距離を、天月先輩が歩み寄って詰めた。俺のいる位置からは、天月先輩は後ろ姿しか見えない。
「悠日……何か……ないの……?」
「ええ? 俺は……だけど」
「でも……最近……」
二人は話し始めたけれど、声のボリュームをぐっと落としたようだ。グラウンドで飛び交う大声にもはばまれ、ここまではほとんど届かない。
でも、天月先輩の口調がとても張りつめていて、真剣に何かを尋ねていることは伝わってきた。
対して、楠本先輩は声も表情も凪いでいる。天月先輩は切実な様子なのに、その反応としては冷たくすら思える態度だ。
時々は笑顔を見せている。でも普段の楠本先輩を知っていると、それは作り笑いにしか見えない、嘘っぽい笑顔だった。
「……だよ。榛名が……じゃないから」
「そうじゃ……僕はただ……大切、で……」
「……ありがと。だけど……」
最後に一言何か言い、くしゃっと天月先輩の頭を撫でてから、楠本先輩は足早に歩き去った。笑っていたけれど、彼が強引に会話を切り上げたことは明らかだった。
天月先輩は引き止めたかったのか一歩踏み出して……でもあきらめたようにうつむき、その場で立ち尽くす。
(先輩……)
落とした肩が寂しげで、状況もわからないけれど胸が痛んだ。
いや、わかったこともある。
(……大切、か)
あれはきっと、『悠日が大切』だと、そう伝えようとしていたんだろう。
文脈は聞き取れなくても、切々とした響きが物語っていた。
(もしかして……天月先輩の『離れたくない相手』は……)
先輩がきびすを返し、力なく歩き始めた。こちら側を向いたけれど、うつむいていて顔は見えない。
その姿が消えてから、俺ものろのろと歩いていった。
