愛してるから『弟』でいます。




 5月下旬の日曜日。まだ空気が温まりきらない午前中に、俺と先輩は再びベランダに出ていた。
 といっても、今日はベランピングではない。
 空は快晴。こんな日はベランピングもいいけれど──
「蒼羽くん、そっち引っ張ってー」
「はい」
 パンッと伸ばして引っ張った生地から、さわやかな芳香が漂う。
「OK! はい、洗濯バサミ。そっち留めてね」
「了解です」
「うん、これでよしと。さぁ、たっぷり日光浴びてもらおうね。蒼羽くん、布団たたきよろしく」
「はい、任せてください」
 そう。こんな日は、絶好のシーツ&布団干しDAYだ。
 俺たちは仲良く共同作業で、二人分のシーツを洗い、布団を干していた。
(俺と先輩の布団が……)
 それぞれの布団は、ぴったりくっつけるように並んで柵に掛けられている。
「うっ……」
「ん? どうしたの?」
「……! な、なんでもありません」
 その布団の下で寝ている自分たちを想像して息が詰まったなんて言えるわけもない。
 ごまかすように、俺は布団たたきでバシバシと布団をたたいた。
「あ、力入れすぎ! 強くたたくのは逆効果なんだよ。もっとソフトにね」
「す、すいません」
 もちろん俺も普段はこんな馬鹿力でたたいたりしない。
(なにやってんだ……)
 最近の俺は……どうにも、ダメだ。
「そういえば、もう全教科テスト返ってきた?」
「えっ? あ、はい。返ってきました」
 余計なことを考えていて反応が遅れたけれど、先輩は期待にきらめく目で重ねて聞いてきた。
「どうだった?」
「俺的にはかなりよかったです。今までより平均点10点近く上がりました」
「わぁ、すごい! おめでとう!」
 声を弾ませ、パチパチと拍手してくれる。
「すごいのは先輩のほうですけどね。学年トップ、おめでとうございます」
 常に楠本先輩とトップを争っているが、今回のトップは天月先輩だったらしい。
 と、そこまで考えて俺は思い出した。そう、これに関しては気になっていたのだ。
「えっと、あの、それで……」
「ん? どうしたの?」
「……楠本先輩なんですけど」
「ああ……」
 言わんとすることを察したようで、先輩はちょっと困ったように目尻を下げた。
「……俺たちのせいですよね、やっぱ?」
 今回、楠本先輩が2位ではなかった。彼は、3位だったらしい。
 2トップから転落するなんて初めてのことだそうで、校内でもひそかな衝撃が走っていた。
 自分たちが手を焼かせたせいで彼自身の勉強がおろそかになってしまったのではないか。当然、俺と弘樹は真っ先にそう考えた。
「違うよ、君たちのせいじゃない」
 先輩は穏やかに否定したけれど、懸念は拭えない。
「……ほんとですか?」
「本当。言ったでしょ、教えることだっていい勉強なんだって。本人の問題だよ。ああ見えてうっかりしてるところもあるんだ、悠日は」
 くだらないことを気にするなというように、先輩は明るく、やや早口に言い切る。
 事実か、俺たちを気遣っての方便なのか、見極めは難しかった。
 嘘をつかれているとは思わないけれど、先輩は優しい人だから。
 それに……またどことなく、寂しげな色がよぎった気がする。
 楠本先輩の話題になると、時折見え隠れする陰だ。
 これ以上食い下がっていいものかどうか迷っていた時──唐突に、強い風が吹いた。
「!」
「あっ」
 干したシーツの片方が大きく揺れて、俺と先輩はほぼ同時に抑えようと手を伸ばす。
 俺のほうがワンテンポ遅くて、先輩の手を上から包むようにつかんでしまった。
「っ! すっ、すいません! あいたっ!」
 泡を食って離した手を、今度は後ろの壁にぶつける。
「わ、大丈夫!?」
「つつ……だ、大丈夫です……」
 ビーンとしびれの走る手を振って、痛みを散らそうとした。その手を、先輩が両手で取って自分に引き寄せる。
「大丈夫じゃないよ、血がにじんでる」
「ぁ……」
 ベランダの外壁はざらつきのある素材だったので、こすって擦りむいてしまったらしい。
 先輩は片手を俺とつないだまま、もう一方の手で掃き出し窓を開けた。
「手当てしよう」
「……すいません」
 俺はもう、ろくに言葉も出ない。
 さっきまで何かを憂いていたような気がするのに、ほんの一瞬で全部吹き飛んでいた。
(触るのなんか、今に始まったことじゃないのに……)
 でも、ダメなのだ。ふい打ちとか思いがけない出来事だと、とたんに俺は、意識してしまう。
 指先と手のひらの皮膚が百分の1くらいまで薄くなった気がした。先輩の皮膚と触れ合っているところが熱くて、わずかな刺激に体が震えそうになる。
 脈が速い。絶対伝わっているんじゃないかと思うと、さらに加速していく。
 ソファに座り、消毒してバンソーコーを貼ってもらう間、俺は顔を隠したくてずっとうつむいていた。
 全身を流れる血がいつまでも沸いていて困る。
(どうやったら冷えんだ、これ……)
 火照りの冷まし方がわからなくて、困る。



 先輩がますます俺を困らせることを言い出したのは、数日後の夜。食後に二人で洗い物をしている時だった。
「ところでさ。その、『先輩』っていう呼び方なんだけど」
「……はい?」
 どうかしたのだろうか。普通に「先輩はコップ洗ってください」と言っただけだけれど。
「家でも先輩呼びってちょっとくつろげない感じっていうか……学校じゃないんだから、呼び方変えない?」
「…………え゙?」
 たっぷり数秒考えて、それから俺はカエルの鳴き声のような声を発した。
 それは、つまり。『先輩』と呼ぶのはやめないかという提案、あるいはお願いで。
 でも。
「じゃ、じゃあ、なんて呼ぶんですか」
「んー……『榛名くん』とか」
「!!」
 俺は持っていた茶碗を落としそうになるのをかろうじて耐え、シンクに置いた。
「む、無理です。そんな、くん付けなんて!」
「どうして? 僕は『蒼羽くん』って呼んでるんだし、『蒼羽くん』『榛名くん』でよくない?」
(よくない! まったくよくない!)
 首がもげそうな勢いで、ぶんぶんと横に振る俺。先輩はすねるように軽く唇をとがらせた。
「えー。でも、『榛名さん』とか呼ばれるのも堅苦しいし、よそよそしいし。家では年齢なんて気にしなくていいから、フランクに呼び合おうよ」
(いや、年齢がどうであろうと先輩を名前でなんて……)
「いっそのこと、お互い呼び捨てでもいいと思ってるんだけど」
「よっ、呼び捨っ……!?!?」
(そんなのますますできんっ!)
 と、内心では叫んでいるのだが。
 先輩にとっては厚意でしかなく、バチ当たりなくらい光栄な提案だというのはわかっているので、返答に迷った。
 なんと言えば失礼な感じじゃなく、うまく遠慮できるか……。
「お、俺にとって……先輩はやっぱ、先輩なんで……ちょっと、すぐには……。けっ、検討、させてください……」
 結局、頭をフル回転させても大していい言葉は思い浮かばず、とぎれとぎれにそう言った。
「そっか……」
(あ……)
 隠そうとしたのかもしれないけれど、落胆の気配はしっかり伝わってきた。
 でも、すぐに彼はニコッと笑みを作ってくれる。
「わかった。もちろん強制する気はないし、気負わずに考えてよ」
(くっ……罪悪感……)
 胸がグサグサ痛む。でもハードルが高すぎるのも事実で、今まで味わったことのないジレンマに俺は黙り込んだ。
 先輩は、少しためらうようなそぶりを見せた後、思い切った様子で再び口を開く。
「あのさ、僕……お互いの親が、形にはこだわらない、型にはめたくないって言ってるのに、こんなこと言うのもなんなんだけど……でも、あえて言わせて」
「……? な、なんですか?」
 先輩がわずかに緊張しているのが感じられて、俺も無意識のうちにゴクッとつばを飲み込んだ。
 でも、言うと決めた先輩にもう迷いはないようだった。俺を見上げ、よどみなく紡がれた言葉は──
「僕、蒼羽くんとは、家族みたいな関係になれたらいいなって思ってるんだ。この先も一緒に暮らすとしても、暮らさないとしても、変わりなく。まだ同居するようになって1カ月ほどだけど、これからもっとお互いの壁を取っ払って……もっともっと、仲良くなりたい。それで、僕のこと、お兄さんみたいな存在だって思ってくれたら、嬉しいなって思ってる」
「え……」
「あ、えっと。本当に、押し付けるつもりじゃないんだ。でも僕は今の生活が、なんていうか、すごくいいなって感じてて。お互いにもっと気兼ねなく、頼ったり甘えたりできる関係になっていけたらなって、そういう感じで」
 自分の願望だけ力説しすぎたと思ったのか、後半はやや心配そうに俺をうかがう先輩。
 俺は……今の自分の感情をどう表現していいのか、自分でもわからずにいた。
 嬉しい。それは間違いない。
 俺にとって特別な人が、もっと仲良くなりたいと言ってくれているのだ。
 俺だってそうだ。お互いの間にある壁をもっと取っ払って、より近い存在になれたら。
 陰から見つめるだけの日々を過ごしてきたこの1年を思えば、奇跡のような話だ。
(でも……)
 『家族』。『お兄さん』。
 その言葉が、わずかな軋みを俺に与えた。
 透明なごく細い針で、心臓をツプと刺されたような。
 目に見えない、正体のはっきりしない、痛みというより切なさのような……シクシクとしたうずき。
(嬉しいのに……なんで、こんな……)
 そう考えつつも、俺はそれ以上、そのうずきに意識を向けるのをやめた。
 自分の中で渦巻くものに、目を伏せた。
 そして、頬の筋肉を意識して持ち上げ、笑う。
「ありがとうございます。そんなふうに言ってもらえて、すげー嬉しいです。俺も今の生活、楽しいし。それに……俺も、もっと仲良くなりたいです」
「……うん」
 先輩は、俺が若干無理していることと、言葉を選んでいることにきっと気づいただろう。
 でも気づかないふりをして、ふんわりとほほ笑み、うなずいてくれた。
(ごめんなさい。嬉しいのは本当なんです、先輩)
 だけど、すべてを吐露することはできない。
 こんな気持ち、自分でも持て余しているのに……
 口に出してしまったら、どうなるかわからない。