愛してるから『弟』でいます。





「すんません、ここ教えてもらっていいっすか、楠本先輩」
「どこ? ああ、これは──」
「蒼羽くん、さっきの英訳できた? みてあげよっか」
「あ、はい。お願いします」
 中間テストを翌週に控えた週末。天月家リビングでは、勉強会が開催されていた。
 メンツは例によってキング&クイーン、俺と弘樹だ。
 さかのぼること数日前──
「蒼羽くん、勉強順調?」
「……どうっすかね。俺、文系苦手で。ちょっと苦戦してる教科もあります」
「言ってよ、教えるって。あ、でも古文や漢文は僕より悠日のほうが得意なんだよね。……そうだ! 今度の休み、勉強会する?」
「えっ? 勉強会!?」
「うん、この家に悠日も呼んで」
「えっ……あ、あー、じゃあ弘樹も呼んでいいっすか?」
 と、情けないほどにテンプレのやり取りで、またこの4人と相成った。
「蒼羽、おまえよー」
「何も言うな。来てくれて感謝してる、礼はする」
「あ、そ。ま、3年ツートップの二人に勉強教えてもらえるってんなら俺はありがたいからいいけど」
 駅まで迎えに行った時、弘樹とは小声でそんなやり取りがあった。
 天月先輩が楠本先輩と親しげにしているところを見るとモヤるのに、先輩の厚意を無下にもできず、誘いに乗ってしまった。でも、今日もまたきっとモヤる。
 そんな不甲斐なさ過ぎる俺にあきれつつも、弘樹は放り出さずに付き合ってくれる。なんだかんだ俺を心配してくれているのだろう。いいヤツだ。
「うん、蒼羽くん、よくできてるよ。この分なら英語は大丈夫なんじゃないかな。あとは、漢文?」
「ですね。さっぱり意味わかんないとこあって……」
「よし、悠日、バトンタッチ」
「はいはい、任せて♪」
「あっ、じゃあ天月先輩、俺の英語も見てくださーい!」
「いいよ、何がわからないの?」
 そんな感じで、勉強会はほぼ個別指導塾状態だった。
 先輩方はペアを入れ替えつつ俺たちにつきっきりなので、懸念に反し、親しげな姿を見てモヤる機会……というか、そんな暇もあまりなかった。
 頭脳明晰で教え上手な先輩2人が何を聞いてもさらさら教えてくれるので、勉強がはかどるはかどる。授業よりわかりやすくて、普通に集中していた。
 2時間ほどたった頃、「ちょっと休憩しようか」という天月先輩の一言で、ようやく俺はシャーペンを置いてふぅっと息をつく。
 飲み物とお菓子を用意し、しばしの雑談タイムが始まった。
「なんか、すいません。教えてもらってばかりで、お二人があんま自分の勉強できてないですよね」
「いいよ、この勉強会は君たちのお手伝いをするのが主目的なんだから」
「そうそう、気にするな。後輩は甘えてればいいの」
 謝った俺に、天月先輩がてらいなく言い、楠本先輩もさわやかにウィンクして笑った。
(ウィンクがギャグにならない人間って実在するんだな……)
 こんな気取った仕草も似合ってしまうイケメン、それがキングだ。
「ありがとーございまっす! いやーでも、楠本先輩も天月先輩も、ほんと頭いいんだなぁ。出来が違いすぎて悲しくなるわ」
 ポテトスナックをかじりながら弘樹がぼやく。
「そんなことないと思うけど」
 天月先輩がそう言うが、弘樹はとんでもないというように目を丸くして、
「ありますよ。塾もカテキョもなしで好成績キープしてんでしょ?」
「今はね。でも、何もしてないわけじゃないよ。日々の復習とか、テスト勉強は結構ちゃんとしてるから。中3の時は、塾に行って受験対策もしてたし。あ、悠日は家庭教師つけてたんだっけ?」
「……あー、うん、そう。俺はカテキョ。中2、中3の2年間と……その後もしばらくは」
「へー、そうだったんすか。意外と努力型?」
「そっ。榛名の言う通り、地道にやるべきことやってるんだよ。なんの努力もせずになんでもできるヤツなんていないって」
 言って、楠本先輩はオレンジジュースを飲み干すと、グラスとトンッとテーブルに置く。
「さあ、そろそろ再開しようか」
「えっ、もう? 休憩短くないっすか!」
「休みすぎるとやる気がなくなっちゃうからこれくらいでいいんだよ。さあさあ、次の教科!」
「うえ~っ、楠本先輩厳しい~!」
「どこが。俺の家庭教師なんてもっと厳しかったよ」
 不平をこぼす弘樹に苦笑しつつ、楠本先輩は問答無用でテーブル上のお菓子を片付けていく。と、その時、彼のほうからブーッと短い振動音が聞こえてきた。
 スマホに何か通知があったようで、すぐにポケットから出して画面を見る。
「!」
 直後、楠本先輩は目を見張って動きを止めた。
「……悠日?」
「ごめん、急用ができた」
「えっ?」
 俺と弘樹が同時に驚きの声を上げたが、そんな俺たちを見ることもなく、楠本先輩は今度は自分の荷物を片付け始める。
「悪い、帰る」
 短い謝罪は天月先輩に向けて。そして荷物を詰め終えたバッグを手に立ち上がると、
「二人も、ごめん。テスト期間中、どこかで埋め合わせするから」
 張りつめた表情でそう言って、身をひるがえし廊下へと向かった。
「あ、悠日!」
 天月先輩が後を追って出ていった。俺と弘樹はその場でぽかんとするばかりだ。
 玄関で二言三言ごく短く会話する声が聞こえ、ドアが開き、閉まった。ほどなくして、天月先輩が部屋に戻ってくる。
「……帰っちゃったんですか?」
 あまりの速さに、わかりきっているのにそんな質問しかできない俺。
「うん。なんか、大事な用みたい」
 答える天月先輩はほほ笑んでいたけれど、その表情はどこか硬いような気がした。
「めっちゃ急いでましたね~。ま、大事な用なら仕方ないですね!」
 弘樹の声は明るい。まだ戸惑いの漂う空気を変えようとしているのか、たいして気にしていないのか──こいつなら後者かもしれない。
 でも俺は……
「ごめんね。講師の戦力半分になっちゃったけど、僕がちゃんと教えるから!」
 張り切った声を出す先輩が、やっぱり何かを取り繕っているように見えてしまう。
(どうしたんだろ。楠本先輩が帰ったから怒ってる? いや、先輩はそんなことで怒るような人じゃないよな)
 この人がどれだけ優しい人か、俺はよく知っている。
(教え役が一人になったって、そんな困るほどのことでもないし。……気のせいか?)
 ほんのささいな違和感の正体はつかみようもなくて、
「よし、二人とも、あとひと頑張りだよ!」
「いよっしゃ! やるか、蒼羽!」
「お、おう」
 にぎやかに再開した勉強会の間に、俺もすっかり忘れてしまった。



 その後、日暮れ前に勉強会はお開きとなり、夜はバイトを入れていた弘樹は「だり~!」と言いながら帰っていった。
「疲れた、蒼羽くん?」
 溜めておいたグラスを洗いながら先輩が聞いてくる。俺はテーブルの消しゴムカスを掃除しながら、
「いや、大丈夫です。先輩こそ、あっちもこっちも教えるの疲れませんでしたか」
「全然。教えるのって、案外自分の勉強にもなっていいんだよ。忘れてた基礎を思い出したりして」
「そっすか。ならよかったです」
 ゴミを捨て終え、俺もキッチンに入った。
「晩飯どうしましょう」
「どうしようね。何が残ってたっけ」
 その声にピロンという電子音が重なった。カウンターに置かれている先輩のスマホからだ。
「あ」
 先輩は小さく反応しつつも、急いた様子で濡れた手を拭き、素早くスマホを取る。
「……悠日が、今日はゴメンって、蒼羽くんにも伝えてって」
 楠本先輩からのメッセージだったらしい。こっちを見てそう教えてくれた。
(あ……まただ)
 楠本先輩が慌ただしく帰っていった後の違和感を思い出した。
 やっぱり先輩の表情が、どこかぎこちない気がする。
「……なんだったんですかね、急用って。書いてあります?」
 ちょっとためらったがそう尋ねてみた。深く詮索するつもりはないけれど、正直気にはなる。
 けれど、先輩の返事は短かった。
「ううん」
 そして目を伏せる。声のトーンが少しだけ低めだ。違和感が大きくなった。
(なんだろう……寂しそうっていうか……)
 それを隠して、笑っているような。
 ……楠本先輩と、関係しているんだろうか。
(…………)
 なんで先輩がそんな顔をしているのかわからない。
 わからない、けど。
「──先輩。今日の晩飯は、俺に仕切らせてください。講師役のお礼に」
 俺はできるだけ『元気のいい声』を意識して言った。
 先輩が顔を上げ、驚きと当惑の混じった目で俺を見上げる。
「お礼って、別にそんなのいいよ? さっきも言ったけど、僕だって──」
「わかってますけど、やりたいんですよ。それに、ちょっと試してみたいことあって」
「試してみたいこと? なに?」
「ベランピング」
「ベランピング……」
 最初はピンと来なかったようだが、すぐに気づいたのだろう、その口角がわずかに持ち上がった。
「この家でやったことありますか?」
「ううん……ない」
「うわ、もったいない。この家、俺んちよりベランダ倍近く広くて、いいなって思ってたんですよ。あんな広いんだから有効活用しないと」
 嘘ではない。本当にこれは思っていた。
 ベランピングは、『今からできる何か楽しいこと』を急いで考えて、とっさにひらめいたのだけれど。
「ナイト・ベランピング、やりませんか。串焼きとか焼きそばとか、それっぽいもの作って」
 先輩の唇が「ナイト・ベランピング」と再び俺の言葉を繰り返した。あっけにとられたような顔が、ゆっくりと輝きを広げていく。
「……楽しそう!」
「はい、絶対楽しいです」
 二ッと笑ってみせた。
 先輩はスマホをカウンターに戻すと、
「やろう、ベランピング!」
 すっかりその気になってくれたみたいで、久々にぎゅっと両手を包まれる。
(よし、これをやるのは先輩がテンション上がってる時だ。よかった)
 何を寂しがっているのかわからない。
 でも寂しいなら、まぎらわせてあげたい。笑わせてあげたい。
 笑っていてほしい。
「じゃあ俺、料理作ります。先輩は灯りになるもん用意してください。ライトとか、ロウソクとか」
「わかった。たしか、父さんが昔使ってたランタンがあったはず。あ、もちろん料理も手伝うよ」
「あざっす」
 じゃ! と声を掛け合い、さっそく二手に分かれた。俺は冷蔵庫を開け、先輩は小走りで和馬さんの部屋に入っていく。
 約2時間後、がらんとしたベランダは様変わりしていた。
 数個のランタンが、赤みを帯びた光で空間を照らす。光がよく届くところと届かないところ、明暗のグラデーションが幻想的な雰囲気をかもし出していた。
 家具は何もなかったのであり合わせだ。テーブルは捨てる予定だった段ボールにクロスを掛けたものだし、椅子はキッチンスツール。
 でもテーブルには盛りだくさんの料理が並び、いいにおいを漂わせている。
 肉と野菜の串焼き、焼きそば。シャケ、こんぶ、高菜のおにぎり。スキレットで作ったきのこアヒージョ、具沢山のクリームスープ、即席ピクルス。
 食材は買い置きが色々とあったので、二人でメニューを考えながら俺主体で作った。
 5月の夜はまだ冷える。上着必須だけれど、暖かい料理でそのうち体も温まるだろう。
「じゃあ……」
 テーブルを挟んで向かい合い、「いただきまーす!」と声をそろえる。
「……焼きそばうま。外で食う焼きそばってなんでこんなうまいんだ」
「ふふっ。わかる、それ。串焼きもおいしいよ。玉ねぎ甘い!」
「その串、アヒージョにつけてもうまそうですね」
「わぁ、いいね! やってみよ」
 いつもと違う空間。温かみのある光。見上げれば、藍色の星空。
 ガラス戸1枚隔てただけでそこは異空間で、心が躍る。俺も先輩も、はしゃいでいた。
 いつも以上に料理についてあれこれ話し、「おいしい」と繰り返し、笑い合って。
 夜の冷気なんてちっとも気にならなかった。和やかに時間が過ぎていく。
 最後は先輩のお気に入り、はちみつ入りホットミルクを作って、またベランダに出た。
 今日のはシナモン入りだ。先輩はトッピングやアレンジを楽しむのも好きらしい。
「ね、蒼羽くん。こっちおいでよ」
「あ……はい」
 手招かれて、椅子を動かし先輩の隣に並んだ。
 横並びで、二人して空を見上げる。今夜の月は細い。
「満天の星、とはいかないけど……いいね、夜空」
「ですね」
 果てのない、吸い込まれそうな濃い藍。冴え冴えとした空気のおかげもあって、体と心が浄化され、澄み渡っていくようだ。
 口にしたホットミルクはとろりと甘い。生まれ変わった体に新しいエネルギーが注がれていくような、そんな心地になる。
「このベランダね、前はプランターや鉢がいっぱいだったんだよ。姉さんが、ここでガーデニングしてたんだ」
 しばらく静かにミルクを飲んでいた先輩が、ぽつりとつぶやくような声を落とした。
「あ、そうだったんですか」
(そっか。お姉さんが花好きだったんだな)
 この家に移ってくる時、森中家から持ってきたライラックを思い出した。
 あれ以降も花瓶は同じ場所に固定され、俺が何度か花を替えている。
 先輩は「花って手がかかる」と言っていたけれど、この家で日常的に世話をしていた気配はなかった。お姉さんが手をかけているのを見ていた、ということだったのだろう。
「この広さでいっぱいって言ったら、かなりの量ですよね」
「うん。ほんとたくさんあって、あとはガーデンチェアを1脚置くのがせいぜいだったくらい。でも姉さん、全部近くの施設とか友達にあげてから渡英して」
「全部?」
「全部! どうせ僕たちには世話できないだろうし、枯れたらかわいそうだからって。まあ、実際その通りなんだけどね。父さんはそういう性格じゃないし、僕はほら……朝早くから水やりするの、無理だから」
 最後は気恥ずかしそうに、苦くはにかみながら言う。
「あー……」
(たしかに、寝ぼけながら水やりは危険だな)
 納得だが全力同意するのもはばかられ、無言でカップを口に運ぶ俺。
「植物や花、綺麗だし癒されるし、僕も好きなんだけどね。姉さんみたいに細やかな世話はできそうにないから仕方ないかってあきらめて、花のない生活が当たり前になってた」
 そこで一度カップをテーブルに置き、先輩は周囲をゆっくりと見回した。その眼裏には、以前ここで咲き誇っていた花々がよみがえっているのかもしれない。
「チェアも古かったから処分しちゃって、なんにもなくなって。当初は寂しくなったなって思ってたけど、最近ではそんなことも忘れてた。ベランダ、好きな場所だったのに」
「……そうなんですね」
 1脚だけあったというチェアに座って花を眺めたり、のんびりしたり、今のようにミルクを飲んだり。きっとそんな時間が、以前はあったのだろう。俺も想像してみる。
「だからね……えっと、ありがとう」
「え?」
 想像の花園に意識を飛ばしていた俺は、ふいのお礼に先輩を見た。すぐ隣で、彼の眼差しは俺をとらえている。
「嬉しかった。いつの間にかただ洗濯物干すだけの場所になってたここが、またこんなふうに素敵な場所になって。蒼羽くんのおかげ。ありがとう」
「いや、俺は……知らなかったし、たまたまなんで……」
 そんな事情があったとはつゆ知らず、本当に偶然だ。お礼を言われるほどのことはしていない。
 恐縮してしまう俺だったが、先輩はやや大げさなくらい大きく首を横に振って、
「たまたまでも、だよ。蒼羽くんが言ってくれなかったら、こんな楽しいベランダの使い方も思いつかなかったもん。だから……僕のために考えてくれて、ありがとう」
 三度目のお礼はじっと俺を見つめて、よりゆっくりと告げられた。
 ふんわりと笑う姿が、それこそが花のようだと俺は心の片隅で思う。
「またやろうね、ベランピング」
「……また?」
「うん。そういえばここ、夏には花火が見えるんだよ。夏こそアウトドアじゃない? それに秋とか冬も、日当たりがいいからあったかいんだよね。昼間のベランピングも楽しそう」
 先輩は再びマグカップを手にして、うきうきした様子で話し続ける。
「あ……えと……」
 夏、秋、冬。これから先めぐってくる季節。
(『お試し同居』は、2カ月間なのに……)
 先輩は、その先の季節も俺がここにいることを……望んでくれている?
 いや、望むというより、まるでそれが当然かのような。
 疑うことなく、今の日常の先に続いているかのような。
 そんな口調に、トクンと心臓が鳴って、かすかに熱を持つ。
 落ち着こうと飲み下したミルクが、さっきまでよりもっと甘くて。それでいて、ほのかなシナモンの風味は刺激的で。
(先輩……それって……)
 どういう意味にとったらいいんですか。
 内心でそう尋ねる前に、先輩が「あ」と我に返ったような瞬きをした。
「っと、ごめん。一人で突っ走っちゃった。その頃蒼羽くんが日本にいるかはわからないのにね」
「あ、いえ……」
「あんまり楽しかったから、ついウキウキしちゃって。深い意味はないから気にしないで」
 押し付けるような発言だったと本気で反省しているようで、先輩はあたふたしている。
「……全然、謝らなくていいです」
 脈が加速しているのを感じながら、俺はぼそっとそれだけ言った。
(押し付けになんか、まったくなってない)
 元からアメリカに行きたいなんて気持ちはなかったけれど、多分今後もそんな気持ちは起こらないだろう。
 母さんと長く離れるのが心細くないわけではないが、俺がアメリカについていくことは、ほぼ100パーセントない。
 だって俺もこの人と……先輩と、同じことを思ったから。
 春、夏、秋、冬。移りゆく季節を、ここで過ごしたい。
 夏の花火も、秋冬の暖かい日差しも。このベランダで並んで、二人で目にしたい。

 この人の笑顔を、これからもずっと見ていたい。