「では、行くぞ!」

 突然、ゼノヴィアスがシャーロットを抱き上げた。

 ひょいっと――まるで、羽毛でも扱うように。でも、大切な宝物のように、優しく。

「きゃあ!」

 お姫様抱っこの体勢に、シャーロットは真っ赤になった。

「な、何するんですか!?」

「王都へ薬を届けに行く最速の方法だ!」

 そう言うと、ゼノヴィアスは店の外へと飛び出した。

「ちょ、ちょっと! 心の準備が!」

「暴れるなよ?」

 悪戯っぽくウインクする。

「落ちたら、キャッチするけどな」

「……え?」

 直後、大地を蹴った――――。

 ドォン!

 凄まじい轟音と共に、二人の体が宙に舞う。

「きゃぁぁぁ!」

 シャーロットの悲鳴が、茜色の空に吸い込まれていく。

 ぐんぐんと、まるで見えない階段を駆け上るように高度が上がっていった。

 風が髪を乱し、スカートのすそが激しくはためく。

 でも――――。

「あ……」

 恐怖は、一瞬で別の感情に変わる。

 眼下に広がる光景は、まるで神様が描いた絵画だった。

 ローゼンブルクの町が、手のひらに乗るほど小さくなっていく。
 オレンジ色の屋根が夕陽を受けて燃えるように輝き、
 石畳の道は金色の糸のように町を縫っている。

 そして、家々の窓に灯り始めた明かりは、地上に散りばめられた宝石のよう――――。

「うわぁ……」

 思わず、ため息が漏れた。

 生まれて初めて見る、天からの眺め。

 群青色の東の空から、西の茜色へと続く壮大なグラデーション。
 薄紫の雲が流れ、一番星がそっと瞬き始める。

「どうだ? 怖くないか?」

 ゼノヴィアスが心配そうに顔を覗き込んだ。

「ううん……」

 シャーロットは夢見心地で首を振る。

「とても……とても素敵」

 ゼノヴィアスはその横顔に一瞬見とれたように息を呑んだ。

「で、では、急ぐぞ!」

 ゼノヴィアスは慌てて前を向き――――。

 全身に紫の魔力を巡らせていった。血管が光り、髪が逆立ち、瞳が深紅に燃え上がる。

 ヴゥゥゥン。

 空気が震え、次の瞬間――――。

 ズン!と二人の体が、弾丸のように夜空を切り裂いた。

「きゃああああ!」

 想像を絶する加速に、シャーロットは反射的にゼノヴィアスの胸にしがみついた。

 厚い胸板に顔を埋める――――。
 しっかりと、離れないように。

 鼻先に感じる、不思議な香り。
 スパイスのようなハーブのような――どこか懐かしい、温かい匂い。

 そして――――。

 ドクン……ドクン……。

 耳に響く、規則正しい鼓動。

(あ……)

 シャーロットは目を見開いた。

(魔王様の心臓の音だ……)

 力強いけれど、どこか優しい響き。
 まるで子守唄のようなリズム。

(私たちと……同じなんだ)

 角があって、
 恐ろしい力を持っていて、
 五百年も生きていて。

 でも――――。

 心臓の音は、人間と変わらない。

(もしかして、魔王様も……)

 寂しかったり、
 嬉しかったり、
 ドキドキしたりするのかな。

 不思議な想いが、胸の奥で膨らんでいく。

 伝説に語られる恐ろしい魔王ゼノヴィアス。
 でも、オムライスに感動する素直な人。
 世界を滅ぼせる力を持ちながら、美味しさに救われる人。

 相反する姿が、シャーロットの中で一つに溶け合っていく。

 風が激しく吹き荒れ、髪がバサバサと乱れた。

 でも、不思議と怖くなかった。

 この腕の中にいれば、絶対に大丈夫。
 ここは世界一安全な場所――――。

 自然とそう思えてしまうのだ。

 二人を乗せた紫の流星は、暗くなりゆく空を貫いて、病に苦しむ王都へと向かっていった。


       ◇


 風を切る音が弱まり、速度が落ちていく。

 やがて、麦畑の地平線の向こうに街が見えてくる――――。

「あれが……」

 シャーロットは顔を上げ、そして――息を呑んだ。

 王都。

 かつて「黄金の都」と呼ばれた、栄華を誇る大都市。

 だが、今そこにあるのは死の街だった。

「嘘……」

 宵闇の中、本来なら無数の灯りで輝いているはずの王都は、まるで巨大な墓場のように沈黙していた。

 窓という窓は暗く、通りには人影もない。
 時折、ぽつりぽつりと灯る明かりさえも、まるで消えかけの蝋燭のように弱々しかった。

「あれは……?」

 所々から立ち上る炎と黒い煙。
 それが何を燃やしているのか、シャーロットには分かってしまった。

「ああ……」

 両手で口を覆う。

 涙が、止めどなく溢れてきた。