「風景写真の撮影の旅に出る。必ず帰って来るから待っていてくれ」
 和広が、そんな昭和の家出少年のような書置きだけを残して、妻の秋子と暮らしたアパートを出たのは二十三歳の時だった。
 アパートは、和広が飛び出した五年前と何も変わっていないように見えた。一階の左端にある部屋の窓には、暖かな灯が点っていた。しかし、それは、秋子が、音信不通だった和広を待っているかどうかとは別の問題だった。
 美大で写真を学んだ和広は、卒業と同時に一流と呼ばれる写真事務所に入った。安定して入ってくる月給は決して悪くなく、生活には何の不安もなかった。だから、和広は、仕事が二年目に入るとすぐに、高校時代から付き合っていた秋子と結婚した。夫婦仲も良く、新婚生活は幸福そのものだった。
 但し、和広は、仕事には必ずしも満足していなかった。広告や学校のアルバム用の写真の撮影は、和広が目指した芸術写真の撮影とはおよそかけ離れていた。自分はこのままで良いのか?そんな疑問が芽生えることも何度かあったかが、和広には秋子との生活が大事だった。大それた夢さえ見なければ、二人の幸せな生活は保障されていた。やがては子供を作り、平凡だが幸福な家庭を作るのが自分の進むべき道なのだと、和広は考えていた。
 そんなある日、和広は大学のクラスメートの直人が写真集を出版したという知らせを受けた。その写真集の売れ行きは好調で、直人は写真家としての地位を揺るぎないもののしていた。直人と和広は共に風景写真を専門にしていた。直人から送られてきた写真集は、和広の中で燻っていた野心を一気に燃え上がらせた。俺ならばもっと良いものができる。そう思い込むと、ブレーキが利かない程、和広はまだ若かった。
 自分ならば、一年も掛からずにもっと良いものができる。そう思い込んだ和広は、書置きだけを残して日本を飛び出した。
 しかし、現実は、和広が思ったほど甘くはなかった。持ち出した金はすぐに底をつき、あっという間に一年が過ぎた。各国を転々とする暮らしの中で、和広は犯罪すれすれの仕事にまで手を出しながら、撮影の旅を続けた。
 早く日本に帰りたい、妻の秋子に会いたい。日本を出た直後から、和広はそう思い始めていた。しかし、手ぶらで日本に帰る訳にはいかなかった。プロの風景写真家として地位が確立できるほどの作品を撮りためなければ、秋子を置き去りにしてまで出てきた旅の意味がなくなるのだと、和広は自分に言い聞かせた。そして、その和広の思いは、秋子の許へ帰る日を一日、一月、一年と先へ伸ばすことになった。結局、和広が日本に帰ってくるまでには五年の時間が掛かった。
 そして、和広は、帰国後も、すぐに秋子の許へは帰れなかった。写真集が出版され、売れ行きが好調となり、世間から写真家と認められて初めて、秋子の許へ帰れるのだと和広は思っていた。
 そうして、ついにその晩、和広は秋子と暮らしたアパートに戻ってきた所だった。

 部屋の前まで行くと、表札が変わっていないことに和広は気づいた。苗字のシールが張られた自転車も部屋の前に置かれていた。しかし、それでも、和広はドアを開けて中に入る勇気が持てなかった。
 秋子には既に別の恋人がいても可笑しくはなかったし、その男を自分の部屋に引き入れて一緒に暮らしていたとしても、和広には文句を言える道理などなかった。離婚訴訟を起こされれば、和広に勝ち目はなかったし、秋子がそれを望むのならば裁判で争うつもりもなかった。
 ドアノブに手を掛けようとして、和広はためらった。やはり自分には、今更秋子の許に帰る資格など無いような気がした。しかし、秋子が自分のことを許してくれなかったとしても、和広は秋子に謝罪すべきだと感じていた。会う資格は無くとも、会う義務はあるのだと覚悟を決めた時、ドアが開いた。
「あら、和広さん、お帰りなさい」
 何事もなかったように、まるで今朝仕事に出かけた夫を迎えるような秋子の様子に驚くあまり、和広は言葉を失った。
「どうしたの?虫が入るから早くドアを閉めてよ」
「ああ」
 和広は言われるままにドアを閉めて、玄関で靴を脱いだ。部屋の中も、和広が出ていった五年前と何一つ変わっていなかった。しかし、それ以上に変わっていなかったのは秋子自身だった。まだ、三十前とは言え、五年も経てばそれなりに容姿は変わるはずだった。しかし、秋子は五年前とまるで変っていないように見えた。
「ごめんなさい。夕食の支度、まだできていないの。ちょっと近くのスーパーに買い物に行ってくるから、あなたはお風呂にでも入っていて。ああ、ビールも冷蔵庫に入っているから」
 秋子は和広の返事も待たずに、買い物袋を抱えると部屋から出て行ってしまった。和広は、まるで狐にでもつままれたような気分で一人部屋に残された。ついさっきまでの緊張感はあっという間に消え去っていた。
 和広は言われた通りに浴室に向かい、バスタブにお湯を張った。驚いたことに、脱衣場には和広の着替え用の部屋着まできちんと用意されていた。
 少しして、湧いたばかりの風呂に浸かると、この五年間の苦労があっという間に溶けていくような気がした。アパートの狭い風呂だと言うのに、和広にはそこが、どこよりも心地良い場所のような気がした。
 風呂を出て、冷蔵庫から取り出した缶ビールを口にすると、それまでに飲んだどんな高級酒よりも旨い気がした。和広は、自分が帰るべき場所に帰ってきたような気がし始めていた。

「ただ今、待たせて御免なさいね」
 和広が感慨にふけっていると、秋子は昔と何一つ変わらない様子で買い物から帰ってきた。和広がビールの缶を手にしているのに気付くと、秋子は、ほんの少しだけ咎めるような口調で言った。
「食べる前にお腹が張らないように、ビールはそれだけにしておいてね。あまり手がかからないようにと思って、すき焼きにしたから」
「ああ」
 和広は相変わらず、ろくに言葉を返すことができなかった。そんな和広の様子などお構いなしに、秋子はエプロンを掛け、夕食の支度を始めた。和広は風景写真が専門だったが、秋子の後姿は、なぜか写真に収めたくなるほど美しいもののように見えた。
 写真家として成功して妻の許に戻ってきた和広だったが、もし今、「写真家としての成功」と「ありふれた妻との暮らし」のどちらかを選べと問われたら、和広の答えは間違いなく後者だった。

「じゃあ、頂きましょう」
 秋子に声を掛けられ、和広はすき焼きをつつき始めた。秋子と向かい合って食べるすき焼きの肉は近所のスーパーのものだったから、決してそれほど美味しいわけがないのに、缶ビール同様に、どんな高級店の料理より美味しい気がした。ああ、自分はようやく自分がいるべき場所に帰ってきたのだと、改めて思うと涙が出そうになった。
 食事の間も、秋子は、和広不在の五年間のことを一切口に出さなかった。和広は、それならばそれで良いかとも思った。しかし、いくら秋子が何もなかったかのように温かく自分を迎えてくれたにしても、やはり自分には謝罪すべき義務があると感じていた。

「なあ、あのウィスキーを開けようか」
 食事が済み、すっかり洗い物も片付いた後に、和広は秋子に声を掛けた。
「ええ?結婚した時に頂いて、何か記念すべき時に開けようって言ったウィスキーのこと?」
「ああ、そうだよ」
「どうして?今日は別に特別な日ではないと思うけど」
「いや、特別な日さ」
 和広は秋子にきちんと謝罪する覚悟を固めていた。
「分かったわ」
 秋子はそう答えると、ウィスキーの瓶と、二つのグラス、そして氷と水をテーブルの上に用意した。
「あなたはオンザロックで良いのよね」
 そう言いながら、秋子は和広にウィスキーと氷の入ったグラスを渡し、自分用には薄めの水割りを作った。
「じゃあ、乾杯」
 和広がグラスを掲げると秋子の方からグラスを合わせてきた。
「乾杯」
 ゆっくりと最初の一口を飲むと、二人は、ほぼ同時にグラスを置いた。和広は、いよいよその時が来たのだと思った。
「秋子、本当に済まなかった。許してくれ」
「どうして謝るの?私は言われた通りにあなたを待っていただけよ」
「でも、まさか五年も待つとは思わなかっただろう」
「でも、いつまでとは書いていなかっした、帰ってきてくれたのだから、あなたは何約束を破った訳じゃないじゃない」
「でも、一人で色々と苦労をしたんじゃないのか?」
「私は、日本で普通の暮らしをしていただけだから、大したことはないわ。あなたは、悩みながら慣れない暮らしを続けてはずだから、きっと私より苦労をしてきているはずよ」
 謝罪をしているというのに、何一つ咎められるでもなく、逆に苦労を労われているのが、和広は申し訳なく思えた。こんなにも素晴らしい妻を置き去りにして自分勝手な夢を追いかけた自分は、なんと罪深い男だったのかと自分を恥じた。秋子を苦しめるようなことは二度とするまい、これからは秋子を幸せにするために生きていこうと決めた。そのためなら、もう自分が撮りたい写真が撮れなくなっても良いと思った。
「ねえ、あなたの旅の話を聞かせて」
 黙り込んでしまっていた和広は、秋子に声を掛けられた。
 和広は言われた通り、五年間の旅で経験したことをあれこれと語った。秋子は目を輝かせて和広の話に聴き入り、話に区切りがつく度に、「他には?」と話の続きを促した。
 ウィスキーの力も拍車を掛けた。和広は、まるで憑き物が落ちたように気分になり、次々と話を続けた。秋子は感想を語ったり、質問を投げかけてきて、会話はいつまでも途切れることがなかった。
 しかし、秋子は、自分がどのような五年間を過ごしたのか、それについては全く語ろうとはしなかった。和広も敢えて聞かないことにしたが、少し前に誓った自分の決意はしっかりと秋子に伝えたいと思った。
「秋子、聞いてくれ。もう二度と、君を悲しませるようなことはしないから、決して君を一人にはしないから。これからは、撮影旅行も一緒に行こう。もっとましな家に引っ越して、子供を作ろう。平凡だけど幸せな家族を作ろう。そのためなら、もう、仕事のえり好みなんてしないから」
「ありがとう。嬉しいわ。これからは、もう、ずっと一緒に居られるのね」
 そう言うと、秋子の頬に涙が伝った。それを見て、和広は、初めて本当に秋子と和解できたのだと感じた。
 
 その後、二人は五年間の空白を埋めるように、繰り返し強く互いを求め合った。和広は何もかもが満たされ、人生最高の瞬間を味わっているような気がした。
 夜明けが近づき、そろそろ眠りにつこうかと、思った時、和広は急に激しい眠気が迫ってきたのを感じた。眠りに落ちる寸前、和広は自分の手の甲に、温かい掌が重ねられたのを感じた。愛おしむようなその掌は、なぜだか秋子のものではないような気がした。

 四月に看護師になり、まだ半年も経っていない早苗は、和広のベッド脇に置いた丸椅子に腰を降ろしていた。早苗は、和広の意識レベルが落ちて、いよいよ死を迎えようとした時に、和広の手の甲に重ねた自分の掌を離せないままでいた。
 まだ、二十九歳にも関わらず、末期がんで余命いくばくもなかった和広は、自らの意志で安楽死を希望した。和広に繋がれていた安楽死装置は、その役目を果たし、既に和広の死を告げていた。
 和広が息を引き取ったという情報は、もう医師の控室やナースセンターにも届いているはずだった。間もなく、その夜の当直医が看護師を伴って病室に来るのは分かっていたが、端から早苗は自分の行いを隠すつもりなどなかった。
 
 和広の主治医でもあった宏は、三月に研修医としての期間を終えたばかりだった。非番のはずの早苗が、夜明け間近に和広の個室にいたのを見て、宏は早苗にかつての自分の姿を重ねた。
 宏と早苗は、恋愛対象としてお互いを見たことはなかったが、年齢が近く、歌の好みが似ていたこともあり、気心の知れた仲だった。
 にもかかわらず、早苗の逸脱を未然に防げなかった自分が、宏は情けなく思えた。だからせめて、後は自分がなんとかしようと心に決めて、同行していたベテランの看護師長である晴美に声を掛けた。
「晴美さん、この場はとりあえず、僕に任せてもらえますか?」
「わかりました」
 晴美は宏の意図を全て見通したかのように、黙って病室を出て行った。宏はとりあえず、和広に繋がれた機器のデータを自分の持つ端末に取り込んだ。データには「夢オプション」が正常に機動したことが示されていた。「自分にはそんな資格はない」と和広が固辞したので、宏はその機能をセットしていなかった。和広がどんな夢を見ながら逝ったのかを確かめた後、宏は「夢オプション」の記録を装置本体からも、自身の端末から消去して早苗の方に目を向けた。
「早苗さん、一応、君の口から事情を説明してもらおうか」
 早苗は和広の手の甲に重ねていた手を放すと、事務的な口調で話し始めた。
「せめて一晩だけでも和広さんと一緒に居たくて、最後を看取ってあげたくて、ここにいました。和広さんには安らかに逝って欲しかったので、私が勝手に『夢オプション』をセットしました。和広さんが、奥様と再会して、和解する夢を見てもらいました」
 和広は、妻と暮らしたアパートを訪ねた時、死後間もない妻の亡骸を見つけて後悔の念に駆られた。それが宏も知る事実だった。妻の死因は風邪が元の衰弱死だった。和広の妻は、元々体が弱かったのだ。

 和広は有名な写真家だった。彼を有名にしたのは彼の作品だけではなく、彼が歩んだ人生が、週刊誌やネットの格好のネタだったからだ。
 妻の死後、和広は写真家としては驚くべき方向転換をしていた。四国の八十八か所を何度も回り、仏像や、寺院、そしてお遍路さんたちの姿ばかりを撮り始め、数々の素晴らしい作品を残していった。
 女性を一切寄せ付けず、妻の冥福を願って八十八か所を回り続け、祈りにも似た撮影を繰り返していた。そんな和広が、妻の死後、一年そこそこで癌に侵され入院した当時、病院にはマスコミが大挙して押しかけ、大変な騒ぎになった。しかし、しばらくすると、常に刺激的なニュースを求め続ける輩は、和広から遠ざかって行った。
 自分が世間から注目されることがなくなり、仕事もできず、更に余命が宣告されても、和広はまるで動じることがなかった。
 和広は若い女性の看護師にもまるで興味を示さなかった。自分自身が間もなく死ぬというのに、和広は病室に妻の遺影を置き、朝夕は欠かさずにお経を挙げ、妻の冥福を祈っていた。だから宏は、早苗が和広と親密な関係になっていたとは思えなかった。その疑問は、そのまま宏の口からこぼれた。
「早苗さん、君は和広さんと親しかったのかい?」
「いいえ、和広さんは、私には全く心を開いてくれませんでした」
 早苗は苦しそうにそう言った後、詳細に触れた。
「残された時間を、せめて穏やかに過ごして頂こうと、私、色々と努力したんです。でも、無駄でした」
 早苗は一度言葉を切ってから後を続けた。
「私、ネットで和広さんの写真集も買ったんです。病室に持ってきて、私が気に入った写真を示して褒めても、『ありがとうございます』と言うだけでした。撮影した時のことを尋ねても、『昔のことで、よく覚えていません』と虚ろな答えしか返ってきませんでした。和広さんは、ほとんど目も合わせてくれませんでした。初めは、冷たい人なのかと思いました。でも、そのうちに気がつきました。和広さんには、もう奥様しか見えていないんだって。私がどんなに頑張っても、立ち入る隙間なんて無いんだって」
 早苗の話を聞いて、宏は合点がいった。和広は、まだ二十九歳だった。年齢的には早苗の恋人であってもおかしくはなかった。おそらく、初めて余命いくばくもない患者に接した早苗は、疑似恋愛とでも言うべきものに陥ってしまったのだろうと宏は思った。
 早苗の人となりを考えれば、納得のゆく話だった。早苗は看護大学を出て、四月に看護師になったばかりだったが、仕事ぶりは熱心で申し分がなかった。真面目過ぎるほど真面目で、その直向きさは、逆に宏に一抹の不安の念を抱かせた。そして、その不安は見事に的中してしまったのだ。早苗は誰にも心を許さず、妻のことだけを見ている和広に逆に惹かれてしまったのだ。
 そして、早苗は道を踏み外した。勤務中でもない看護師が、特定の患者の病室に勝手に泊まり込み、本人の意思と異なる処置を行ったことは、明らかに看護師としてあるまじき行為だった。
 しかし、それでも、宏は早苗を責める気にはなれなかった。ただ、宏は、早苗が今、どう思っているのかが気になった。
「早苗さん、君は今、どんな気持ちだい?和広さんが安らかに逝くのを看取って満足かい?」
 早苗は、安らかな和広の死顔に目を移した。
「はい、とても幸せな時間でした。でも、看護師としては、あるまじき行いをしてしまったという自責の念もあります」
「なるほど、するべきでないことをしているという自覚はあったんだね」
「はい、自分のしたことの責任は取るつもりで、辞表も用意してきました」
「そうか、辞表は今、手元にあるのかい?」
「はい」
「じゃあ、それを出して」
 早苗は丸椅子から立ち上がり、制服の内ポケットから辞表を取り出すとそれを宏に手渡した。
 宏は受け取った辞表を、早苗の目の前で数回破るとそれを自分の制服のポケットに収めた。呆然とする早苗の顔をまっすぐに見て、宏は自分の行動の真意を語った。
「学校でも習ったと思うけど、新米の医者や、看護師が特定の患者さんに対して、特別な感情を持ってしまうというのは決して珍しいことじゃない。大抵は誰もが通る道だ。もちろん、人によって程度の差もあるけどね。君がしたことなんて、僕がしようとしたことに比べれば、ほんの些細なことでしかないんだ。だから早苗さん、君は看護師を続けるべきだよ」
 早苗は少し驚いた表情で宏に質問を返した。
「先生は、いったい、何をしようとなさったんですか?」
「僕はね、研修医になりたての頃、担当していた若い女性の患者さんを好きになってしまったんだ。抗がん剤の副作用で苦しんでいる彼女を見ているのが辛くて、早く楽にしてあげたいと思ったんだ。そうして、本人も親族も望んでいないのに、僕はその人を、安楽死させようとしたのさ」
 あまりにも意外な宏の答えに、早苗が黙り込んでしまったのを受けて、宏は話の続きを始めた。
「その時に、僕を愚かな行いを止めて、僕がやろうとしたことが発覚しないように、もみ消してくれたのが、今の看護師長の晴美さんなんだ。だから、僕が今日、こうしていられるのは晴美さんのお陰なんだ」
 言葉を失くし、黙り込んだままの早苗に、宏は更に語り掛けた。
「君の患者さんは、和広さんだけじゃないだろう。君を必要としている人たちのために、もう一度やり直してくれないかな?」
 言い終えて、宏は早苗の反応を待った。
「先生、こんな私が、看護師を続けても良いんでしょうか?」
 早苗の目からこぼれ始めた涙が頬を伝っていった。その瞬間、宏は早苗を抱きしめたいという強い衝動に駆られた。以前から、「感じの良い人だな」程度の気持ちは抱いてはいたが、それは恋愛感情とは程遠いものでしかなかった。そんな小さな思いが爆発的に膨張した理由を宏は探った。そして宏は、夢の中と現実、病室で同時に繰り広げられた二つの愛の物語に、自分も当てられたのかもしれないと思った。
 宏は胸中の衝動を抑えて早苗の問いに答えた。
「もちろんだよ」
「先生、ありがとうございます。私、先生の言葉に甘えさせていただきます」
 早苗は言いながら手で涙を拭った。
 宏は、もう、それ以上の言葉は必要がないと思い、話を逸らすべく事務的な質問をした。
「早苗さん、今後の勤務の予定はどうなっているの?」
「はい、明日、いえ、もう今日ですね。今日は休日で、次の出勤は明日の朝です」
「そうか、じゃあ、今日は、もう帰ってゆっくり休むといいよ」
「はい、そうします。じゃあ、失礼します」
 言い終えて、病室から出て行こうとした早苗だったが、思い出したように振り向くと宏に言葉を投げかけてきた。
「私、先生に大きな借りができてしまいましたね」
「借りか、なるほどね。じゃあ、いつかそのうち、たっぷり利子をつけて返してもらおうかな」
 宏が冗談めかして言葉を返すと、早苗は初めて笑顔を見せた。
「分かりました。心に留めておきます」
「ああ、そうしておいてくれると嬉しいな」
「それじゃあ、先生、また明日」
 小さく会釈をして、早苗が出てゆくと、二つの物語が幕を下ろした病室に、新しい朝の光が差し始めた。