夕日が海に溶けていく。暗い青に白や赤や黄色――いろいろな絵の具を溶かしたみたい。

 授業を終えて、島へと渡る船に乗り込んだ私は夕凪の海に浮かぶ朱色の鳥居に見とれた。

 大鳥居はいつ見ても本当に綺麗。

 遥か太古、佐伯鞍職(さえきくらもと)によって創建されたと伝えられる厳島神社。

 その後、平清盛が安芸守に任官されて以降、社殿が現在のように造営されたそうだ。この地は平家との繋がりが強い。

 島に降り立った私は、私はまばらになってきた観光客の人たちに混ざって参道を進み、神社の入り口で神職のおじ様にご挨拶。

「お疲れ様です」
「おや、那岐(なぎ)ちゃんおかえりなさい。これから仕事かい?」
「はい」
「学校ももう少しで卒業だろう? そうしたらあっち(・・・)の専業になるのかな」

 優しい神職のおじ様の問いかけに、私は曖昧な笑みを返した。卒業後のことは、まだ決まっていない。

「どうでしょう? 市杵島姫命と大女将にきちんと雇っていただけたらそうなれると思うんですけれど。今はバイトみたいなものですし」

 答えると、おじ様は楽しそうに笑った。

「それなら問題ない。市杵島姫命は君のことを殊の外気入っているからね。あぁ、でも専業となるとそちらで働くためにはやっぱり何かしらのあやかしと縁を結ぶ必要があるんじゃないかなぁ」
「縁ですか?」
「そうそう、そっち側に住むあやかしと何らかの関係性がないといけなかった気がするなぁ。ま、心配しなくてもその辺は市杵島姫命がどうにかしてくれるんだろう? 難しかったら大国主命を頼って出雲に行ったらいいのさ。大国主命は縁結びのエキスパートだから。さぁ気を付けてお帰り」
「ありがとうございます」

 そう答えた瞬間、わずかに世界が揺れた。朱色の回廊がぐらぐらと揺れて見える。

「また地震だ」
「早くお客さんを安全な場所に避難させましょう!」

 慌てた様子のない神職さんと大慌てな私が話していると揺れはすぐに収まる。

「もう収まった。ここ最近多いんだよね。むこうでも揺れることある?」

 むこうというのは市内の方のことだろう。大学の方では揺れを感じたことはない。

「いいえ。最近は揺れを感じたことがないかもしれません」
「そっか。じゃあ大きな地震じゃないのかな。さぁ、早くむこう(・・・)へお帰り、気をつけて」
「ありがとうございます、ではまた!」

 おじ様に見送られて、私は朱色の美しい回廊を進み、宗像三女神が祀られている本殿から奥へと進む。すると、他の参拝客には見えない岩の扉があるのだ。私が岩に右手を当てると岩は静かに動いて中に道が現れる。

 こちらがわ(・・・・・)あちらがわ(・・・・・)をつなぐ道だ。

 もやもやとした白に霧に包まれた通路を進むと、大きな岩の行き止まりが現れる。
 今度は左手を当てると、岩がゆっくりと横に滑り、出口が現れる。

 この岩、手のひらの相を読み取っているんだって以前市杵島姫命が教えてくれたんだけど、これってめちゃくちゃハイテクなんじゃないかな。

 岩の扉を抜けると、先ほどまでいた神社とは景色が一変する。目の前には、五階建ての立派な旅館が現れ、その向こうには時代劇に出てくるような平屋造りの街並みが広がる。穏やかに吹く風が心地よい。時間の流れすら、人の世とは違うんじゃないかなって思っちゃう。

 このあやかしの世界に聳え立つひと際豪奢な建物、ここが私の暮らしている温泉旅館『わたつみ』である。

「ただいま戻りました」

 従業員用の勝手口から中に入ると、仲居の細雪(ささめ)さんがこちらを振り向いてにっこりと優しい笑顔になる。細雪さんは左目の泣き黒子が印象的な美人だ。結い上げた艶つやの黒髪に真っ白な肌――もう色気が半端ないの!

「お帰り那岐ちゃん。天満の湯にハーブを浮かべて欲しいって小虎(ことら)さんが言うからあなたの帰りを待っていたのよ」
「わかりました! 今すぐに向かいます」
 
 『わたつみ』には現世(あちらがわ)幽世(こちらがわ)に住む多くの神様やあやかしたちが骨を休めにやってくる。

 物心ついたころから両親を持たず、施設で育った私は縁あって十六歳から現世の学校に通いながらこの旅館で働かせてもらっている。預かり先は現世の神職さんのもとになっているけれど、実際に生活しているのは幽世にあるこの旅館だ。

 高校卒業後は現世の大学で薬草学を学ばせてもらっていて、旅館で薬湯の管理をさせてもらっている。もうすぐ学校を卒業することになるけれど、その先の就職先はまだ決まってない。
 できるならこのまま働かせてもらえたらいいなって思ってる。もっと恩返しがしたい。だけど――
 
「小虎さーん!」

 天満の湯に着いた私は湯気の中にぼんやりと浮かび上がる大きな影に声をかけた。

「おぉ那岐、待っとったよ。待ちくたびれたわい。先に『満福(まんぷく)』で一杯やっちまうところだった」
「ちょっとちょっと、まだお仕事中ですよ!」

 湯気の向こうからぬっと顔を見せたのは大柄の河童のようなあやかし。水虎(すいこ)の小虎さん。動物園とかで見たことがある虎よりもずっと大きいのに、小虎だなんて可愛いと思っちゃう。
 小虎さんはこの旅館の湯守だ。毎日泉質の変わる温泉の全てを管理している。

 今日の天満の湯には無味無臭の単純温泉、刺激が少なく優しい湯布院のお湯が引かれている。このように『わたつみ』には日本全国津々浦々の名湯が引かれているのだ。
 これも『わたつみ』のオーナーで温泉大好きな女神、市杵島姫命の要望に応えたから。他にも旅館内の食堂『満福』ではありとあらゆる日本酒や料理をたしなむことがでるし、併設されている甘味処では日本中のお菓子を取り寄せていたりもする。温泉だけではなく、こういったサービスでも神様やあやかしたちに大いに喜ばれている。
 神様やあやかしというものは、私たちが思っている以上に人間の世界が大好きなのだ。

 私はリラックスできるハーブを合わせて薬湯を整えていく。今日のお湯はラベンダーとティートゥリーのいい香り。

「小虎さん、仕上がりましたよ」
「おーありがとう。そうだそうだ、今夜は若旦那も会合から戻ってくるし、大女将が那岐に話があるって言っとったよ」

 小虎さんの言葉に私はドキリとした。それって、もしかしてあれではありませんか。

「もしかして、私の就職先の話かなぁ?」
「どうだろうなぁ。俺たちゃ那岐にはこのままこの旅館で働いてもらって大歓迎なんだけどな」
「あはは、でも大女将は大の人間嫌いだから」

 そう。私がこの旅館で働き続けるのが難しい理由はひとえに大女将に嫌われているからだ。私という人間が気に入らないというよりは、人間である私が気に入らないというわけで、それはもう私の努力だけではどうしようもない。

「大女将なんかもう隠居じゃねぇか。現に女将がいたころは引っ込んでたわけだしよ。若旦那はあんたのこと気に入ってんだから、文句なんか言うなってんだよ。なにより那岐は市杵島姫命のお墨付きじゃねぇか」
「あはは、そうかなぁ。仮にそうだとしてもやっぱり大女将を蔑ろにするわけにはいかないですよ」

 若旦那(・・・)は、私のことなんか気に入ってくれてるかな。少し頬が熱くなるのを感じながらも苦笑いになる。

 小虎さんや細雪さんを始めとした従業員のみんなは、私という人間にとても好意的で仲良くしてもらっているんだけど、猫又の大女将は大の人間嫌い。なんでも現世で野良猫だったころに人間にひどくいじめられたらしい。それは人間嫌いにもなるよね。仕方ないっちゃ仕方ない。

 そんなわけで大女将は私がこの旅館に居つくことを大反対しているのだ。

 今は若旦那の翡翠(ひすい)のおかげで居させてもらえてるけど、この先どうなるかはわからない。

 オーナーの市杵島姫命だって、大女将の意見を無下にすることはできないだろうし、なにより私が嫌だ。一流旅館である『わたつみ』を長く切り盛りしてきた大女将に反対されてまで働きたくはないなんて思ってる。

 どうしたら認めてもらえるのかなって考えたこともあるけれど、私が人間であることは変えようのない事実。つまりはどうしようもないということだ。

「とにかくグダグダ悩んでねぇで湯にでも浸かってさっぱりしてから飯食ってこい。今日は夕霧の湯が従業員用だ。黒湯温泉の湯を引いといてやったぞ」
「わぁ! 嬉しい! 黒湯温泉、泉質もだけど、景色がめちゃくちゃ好きなんです!」

 秋田県黒湯温泉は大好きな温泉の一つだ。乳白色の硫黄泉。泉質も好きだけど、何より景色が絶景。

 『わたつみ』では泉質だけじゃなくて、景色までに津々浦々の温泉を模しているから、日によって全然違うものが味わえるのも売りだ。きっと毎日でも通いたくなる。

「あ、細雪が入った後だったらぬるいから気を付けろ。(るい)に湯を足してもらえ」
「はーい」

 仲居の細雪さんは雪女だ。熱い温泉が苦手で、細雪さんが入ったあとはいつもぬるい。

 累というのは小虎さんの弟子の河童。恥ずかしがりやの累君はいつもお湯の中に浸かっているので滅多に顔を見たことがない。

 夕霧の湯に着くと、小虎さんが言っていたとおりすっかりお湯がぬるくなっていたので、累君にお湯を温めてもらうことにした。

 温かくなったお湯にゆっくりと浸かる。

「最高……」

 今日はあまり疲れていないつもりだったけど、お湯につかると体の奥底にたまっていた疲れが表面に出てくるみたい。
 同時に不安も泡のようにぷかりと浮いてくる。

 大女将に反対されてここを出ていなかきゃいけなくなったら、私は現世に帰るべきなのだろうか。

「いけない、のぼせちゃう。考えたって仕方ないよ、なるようになるしかないんだし。大女将にできる限りのお願いをしてみよう」

 下働きでも、掃除でも何でもしますからって。大女将にきちんとものを言えるよう頑張ろう。人手は多いに越したことはないし、もしかしたら、もしかすることがあるかもしれないじゃない。

 そうと決まればまかないを食べに食堂へ行かなくちゃ。空腹は大敵なんだから!

 湯から上がり、髪をしっかり乾かすと、仕事着に着替えて食堂へ……

「那岐」

 涼やかに流れる水のような声に、鼓動が少し早くなる。私はぱっと笑顔を浮かべて振り返った。

「翡翠、お帰りなさい! 今戻ったの?」
「今しがた。これから食事をとるのに君の姿が見えたから声をかけた」
「私もこれからご飯だよ、一緒に食べよう」
「私もそうしたいと思ったところだ」
 
 青磁のように輝く青白い肌に空色のさらさらな髪。宝石のような碧い瞳――翡翠は水龍の化身だ。

 私はこの翡翠のことが、世界で一番美しいと思う。そして、私はこの美しくて不器用で、めちゃくちゃ優しい水龍に確かに恋をしている。
 その感情は、再会した日から日に日に強くなるばかりだ。

 だけどこの恋が叶うことがないこともわかっている。私は人間で、翡翠はあやかし。しかもこの旅館の跡継ぎだ。私なんかが、釣り合うはずはない。

 翡翠とは十年以上前にこの厳島(いつくしま)で出会った。当時小学生だった私は遠足で宮島にきていた。少々引っ込み思案で、あやかしが見える(・・・・・・・・)なんていう特異体質の私は周りから少し気味悪がられていて友達らしい友達がいなかった。当然遠足の日にも一緒に遊ぶ相手なんているはずもなく、自由時間を持て余して一人ぶらぶらしていた私は、水辺に佇む幼い日の翡翠と出会ったのだ。

 翡翠があまりに美しい子供だったから、私は声を掛けたくなったのだと思う。初めは女の子だと思った。中学を卒業して再会したときには立派な男の子に育っていたので本当に驚いたものだ。と言うと翡翠は怒りそう。

「那岐、学校は楽しかったか?」
「うん、楽しいよ〜新しいこと学べるから毎日新鮮! 友達もいるしね」
「女の?」
「え、うん、学部的に女の子ばっかり」
「それは良かった」

 何が良かったというのか謎すぎる。翡翠は口数が多くないからこういうことが時々あるんだよね。細かく質問していると嫌な顔をするので最近は私にも引き際が分かってきた。

「翡翠はなんだかお疲れだね」
「そうだな……最近は考えることがたくさんあったから。新しい問題としては、向こうの壇ノ浦で眠っていた水妖が(はぐ)れたらしい。こちら側に流れてきているかもしれないから旅館でも情報を集めろと御触れがあってな、そういうのは検非違使の仕事だろう、こっちはこっちで色々忙しいと言うにのに……」

 翡翠は目を閉じると頭を私の方にもたげてきた。

「ちょっと翡翠、大丈夫? ご飯、部屋まで運んでもらおうか?」
「君と一緒に食べられるならそうする」
「それは大女将が嫌がるんじゃないかなぁ」
「知ったことか。なにか嫌味を言われたら私が言い返すから」

 翡翠はそう言って私の肩から頭を持ち上げた。倦怠感をまとった顔さえこんなにも素敵だなんて羨ましい。

「いけませんよ」

 後ろからピシャリと言い切る声がした。苦手な声に、私の心臓が小さく跳ねる。

「わたつみの主ともあろうあやかしが、人間と二人で食事をするなんて、絶対にいけません」
「お、お疲れ様です大女将」

 私はすかさずペコリと頭を下げて挨拶をした。大女将には完全に無視されたけど、これはいつもどおりなので気にしない。

「大女将、お呼びいただいたようですがその前に、この場で話しておきたいことが」
「なんですか、後ではいけないの?」
「私はゆくゆくは那岐を妻に迎えるつもりでおります。ですから、那岐が学業を終えた後はこの旅館で雇いたいと考えております」

 「えっ!」と、声を上げたのはもちろん大女将ではなく私だ。色々と、初めて耳にする話なんだけど。と言いますか、今なんて言いました?

「私も、後々那岐さんの話もしようと思っておりましたが、そんなことは言語道断。そもそもあなたにはきちんとした許嫁を用意しますし、那岐さんにはこの旅館ではなく別の場所に移っていただきます。就職先は現世の神職に相談しておりますから、心配なく」
「許嫁など必要ありません!」
「馬鹿をおっしゃい! 今度女将修行のために青龍家よりご令嬢をお迎えします。どこの馬の骨とも知れない人間風情ではなく、彼女は立派に女将が務まるあやかしですよ!」
「那岐のことは譲れません。駄目だと言うなら私と那岐が出ていきますから。もしくはあなたを解雇する。これ以上もう話すことはありません」

 翡翠は大女将を一睨みすると、私の肩をそっと抱いて食堂へと向かった。思わず顔が熱くなる。

 こんな風に肩を抱くことなんか、初めてだよね。それにさっきの話は……私は恥ずかしくて那岐の顔を見ることができない。

「食欲がすっかり失せたな」
「ねぇ翡翠、今の話なんだけど、ど、どういうこと?」
「どういうこともなにも、君を伴侶にするって話だ。市杵島姫命から聞いていなかったか?」

 私が首をブンブンと横に振ると翡翠は一瞬目を大きくした。

「そうか、そういえば肝心の君に相談していなかった。相談と言っても、そもそも私には譲る気がないのだけど」
「わ、私……」
「私の妻は嫌か?」
「そんなはずない! 嬉しすぎて実感わかない。信んじられない……」

 それって、翡翠が私のことを好きでいくれてるってこと、だよね。
 体中の血液が沸騰しちゃったんじゃないかって思うくらい顔が熱い。

 信じられない、片思いだと思っていた。頭の中がぐちゃぐちゃで、大女将に猛反対されたことなんかすっかり頭から抜けてしまいそうになる。

「良かった、君に断られたら格好がつかないところだった」
「急すぎて驚いた。ここで働かせてもらえたら嬉しいし、 翡翠と結婚できるなんて夢みたいだけど……」
「大女将の言ったことは気にしなくていい」
「ううん、やっぱり反対されたままって言うのは嫌なの」

 私がそう言うと、翡翠は呆れたような顔をする。

「君って人は困ったやつだ。仕方ない、大女将の顔を立てて、夕食は食堂で食べることにしてやろう」
「えらいえらい。でも大丈夫?」
「大女将と言い合いして少し気合が入ったから大丈夫」

 確かに幾分か血色がよくなった気がする。って言っても、翡翠はもともと青いんだけど。

 今夜の賄いは出雲そば! さらさらといくらでも食べられてしまう。つるつるとすすっていると、目の前に座っている翡翠がじっと私の方を見ているのと目が合う。さっきの会話の内容を考えないようにと思っても、思わず意識してしまう。
 なんだか顔が熱くなってきたので、私は翡翠が少しもそばにてをつけないことを尋ねた。

「食べないの? やっぱ調子悪い?」
「いやだた、君は物を美味そうに食べるなと思って」
「おそば美味しいよ、翡翠も早く食べなよ、伸びちゃうって」

 私が促すと、翡翠も「いただきます」と言ってようやく食事を始めた。