「そそそそそそれは、あっあの夜のって……ことだよなっ!!」


盛大にどもりながら、一色部長が言う。
うわぁ。
慌てると、こうなるんだ、この人。
私は頷く。


「信じてくれるんですか?」


「おっおまえがっ、嘘言うようなヤツじゃないのは知ってるっ!」


信用はあるみたい。
私はお腹を触ったまま、頭を下げた。


「すみません、堕ろそうかと思っていたんですが、赤ちゃんの心音を聞いたら……できなくなりました」


「梅原、おまえ……」


「赤ちゃんは、ひとりで産もうと思います。実家の群馬に戻って。親が手伝ってくれると思います。部長には、ご迷惑をかけないようにしようと思いますので……」


「なぁに言ってんだぁっ!!!この大馬鹿がーっ!!!」


またしてもフロアに響く大絶叫。
一色部長がつかつかと近寄ってくる。
おののく私の右手をつかんだ。
お腹を触ってる右手首だ。


「おまえは何をひとりで決めてんだ!しかも、堕ろす気だっただと?俺の子なんだぞ。勝手に俺の子の生き死にを決めるな!」


「で、でも、部長……、私だって、どうしたらいいか……」


私は言いながら涙ぐんでいた。
この一月、ずっと途方に暮れていた。

予想外の妊娠。

産みたいのかと言われればわからない。
でも、死なせることもできない。
育てられるのか、
育てていいのか。
すべて皆目検討もつかない。

充分大人になったと思っていた。
だけど、決断ができない。
自分のことなのに。
我が子のことなのに。

こうして、私が悩んでいる間もこの子は頑張って大きくなっている。

週数で言えば、今日は8週4日。
3ヶ月目になる。

一色部長は私の右手首をつかんだまま、しばらく黙っていた。


「梅原、決めたぞ」


ようやく部長がそう言ったのは、たっぷり5分は経った頃だった。
この間は長かった。
次の言葉を待つ。


「よし、産め!」


「はぁっ!?」


「責任をとってやると言ってるんだ!」


「あの、それは養育費的な話ですか?認知とか?」



「違うッッ!!おまえと結婚して、二人で子どもを育てようって話だ!!」


えー!?
何言ってんの、この人。


私の中に、
正直そんな選択肢は無かった。





「そんなの……無理ですよ……!」



部長、
一色大部長殿、

私たち、付き合ってないですよ?

なのに、結婚!?
病めるときも健やかなるときも??
それはちょっと乱暴すぎやしませんか?



私の顔がさぞ困惑して見えたのだろう。

一色部長は手を離し、私に向き直る。


「腹の子は、俺たちの一時の激情でできた。この子に申し訳ないと思う気持ちはあるか?」


「それは!……それはありますけど!」


「じゃあ、責任をとろう。二人で、この子に対して。俺の言ってることは違うか?」


「違いません……」


「じゃあ、結婚するぞ!」


あれ、最近、どっかで似た言葉を聞いたような……。
あ、リョーヤだ。
それが義理人情ってやつやないかーって。

一色部長、
もっとドライだと思ってた。
それが、まさか仕事並の情熱を見せてくれるとは。


「部長はいいんですか?責任で、……私なんかと結婚しちゃって……」


「正直に言えば、俺はおまえを部下だとしか思っていなかった。丸友の案件の時は、良い相棒だと思っていた。……あんなことになったのは魔がさしたとしか言いようがない」


そうだよね。
私もそうだったもん。


「だが、おまえという人間に好感を持っていることは確かだ。家庭を営む上でも良き相棒になってくれるんじゃないかという期待もある。
俺はあの晩の記憶は全部ある。おまえと話していて楽しかったのは、本当だぞ」


私だって楽しかった。
こんなに和気あいあいと話せる人だったんだ。
もしかして気が合うところもあるのかな?
そんな風に思っちゃったのも、してしまった原因だと思うし。


「梅原、おまえはどうだ?俺のことをどう思う?」


「私は……部長のことがおっかないです」


私は包み隠さず本音を言う。
今はそのタイミングだ。
ここで隠したら、私たちは大事なステップを踏み外すことになる。


「よく、怒鳴られるし、正直苦手でした!でもあの夜、部長と楽しく話せて嬉しかった」


言葉を続けながら私の中で何かが動いていく。
変化していく。

妊娠のせい?
ホルモンのせい?
私は大きな決断をしようとしている。


「今も、赤ちゃんに責任をとろうという部長の言葉を嬉しく感じてます。
部長が一緒にこの子を育ててくれるというのなら、私は未来を懸けてみたいです……!」


これは恋ではない。
ひとつの命への責任。
その重さ。

目頭に溜まっていた涙がぽろりとこぼれた。


「俺たちは夫婦という良い相棒になれるな?」


「はい!なれます!」


涙をぐっと拭って、私は答えた。

私たちは責任を
『家族愛』に変えていくんだ。


「ところで、梅原、その……腹の子の写真はあるか?」


「写真?あー、エコー!ありますよ」


私はバッグをがさがさと探る。
手帳に挟んだエコー写真を出して、一色部長に手渡した。


部長はしばし、無表情でそれを睨み、

「よくわかんないな」

と、呟いた。



「えっと、これが赤ちゃんの入った袋です。あと、この白い点が赤ちゃんの心臓です」


「なんだ?まだ心臓しかないのか!?」


「小さすぎて、よく映ってないんですよ。動画の状態では心臓が点滅してました」


「おお」


一色部長はまたしても無言で写真を眺める。

それから、ばっと顔を上げた。


「梅原、俺の覚悟を見せてやろう」


言うなり携帯を取り出す。
そして、電話。


「あ、もしもし?一色です。今飲み会に参加してるんでしょ?じゃ、外、出て。いーから!」


「あの……誰に電話してるんですか?」
一色部長は答えない。


「あ、外に出ました?はいはい、すぐ済むから。えー、ご報告があります。俺、部下の梅原佐波と結婚することにしました」


は?誰に何を言ってんの、この人!?
こーいうところは相変わらずわけわかんない!


「ええ、ずっと付き合ってたんですけど、この度、子どもが出来まして。まだ、小さいんで内密にしてほしいんですけどね。まー、社長のあんたには言っといた方がいいかと……」


「しゃっ社長ぉっ!?」


私は目をむき、叫んだ。
一色部長は構わず続ける。


「これから二人で挨拶に行くんで。そのまま、外で待っててくださいよ。は?内密なんだから当たり前でしょ?5分で行くから」


電話を切った部長を私は呆然と見つめる。


「社長に電話してたんですか?」


「まぁ、俺には親代わりみたいなもんだしな。……どうだ?これで俺の覚悟がわかっただろう?」
私は部長の言葉が終わるやいなや、へなへなと床に座り込んだ。


「おい!梅原!大丈夫か!?」


「あ、はい。なんか力抜けちゃって。すごい目眩」


ここ最近の緊張が一気にほどけたみたい。
目の前がクラクラするし、猛烈に気持ち悪い。
私はなんとか、一色部長につかまって立ち上がる。

部長が言う。


「挨拶が済んだら、タクシーつかまえてやるから帰れ。あと、帰ったら親御さんに連絡しろ」


「はぁ……」


「年内に挨拶に行きたい旨、伝えてくれ。同時平行で新居の準備を進める。
入籍はおまえの親御さんの許可をもらってから、新年に日取りを見てだ。式の準備も親御さんの意向を聞いて、それからとする。
わかったな」


さすが、一色部長。
こんなところでも、段取りすごいッス。
プロポーズもスケジューリングも電光石火なんですけど。

私はコクコクと頷いた。


社長たちがいる居酒屋までの道、
並んで歩いた。
私は胃が気持ち悪くて仕方なく、ろくに喋れなかったけど、
一色部長はしきりに言っていた。


「子どもか、考えてもみなかった」


私もです。

でも、その感慨深い口調は、
もしかして嬉しかったりするんですか?



居酒屋前で待っていた社長も、電話で伝えた実家の両親も、手放しで喜んでくれた。


特に両親。
できちゃった婚なのに、何の反対もしないのは私がアラサー、
いわゆる妙齢ってやつだから?
早く片付いてくれてありがたいって?

まあね、そうだよね。

10代の女の子の妊娠じゃないし、相手が上司なら申し分ないって話。


近々、挨拶に行くと部長の伝言を伝えたものの、
実際に、私たちが挨拶に行けたのはそれから1ヶ月以上先だった。


何故なら、この日を境に、
私は悪夢のような数週間を送ることとなるから……。