39週検診でも、私の出産の兆候はない様子だ。

銀縁メガネ先生は『おまじない』と言って痛い内診をしてくれた。
なんでも、『卵膜剥離』というらしい。
赤ちゃんを包んでる卵膜を子宮から剥がすとか……。

これが涙が出るほど痛かった。
そして、翌日まで出血があった。

これで陣痛が進む人も多いらしいんだけど……。
私の場合はダメだったみたい。

痛みと出血は二日でおさまり、何事もない妊婦ライフが戻ってきてしまった。

なんてこったい!


私はよっこらしょと身体を起こす。
ごはんを作らなきゃ。

部長は予定日間近ということで、万障繰り合わせてくれちゃって、早め帰宅が続いている。

そんな彼のためにも、早くポンちゃんに会わせてあげたいんだけどなぁ。

夕飯はお刺身とたまねぎとオクラのサラダ。
あと、厚揚げの煮物。


「ただいま」


玄関が開く音と、部長の声。


「お帰りなさーい」


私はテーブルにごはんの仕度を整えながら答える。
リビングに入ってきた部長は汗を拭い、テーブルに箱を置いた。


「お土産」


「これなんですか?」


「お茶」


お茶?なんだろ、もらい物?


「ラズベリーリーフティー。お産を進めるお茶だそうだ」


「そんな画期的なものが!?」


私は飛びつくように駆け寄り、箱を開ける。
お茶のティーパックが15個。
部長が言う。


「なんでも、子宮の収縮を促すハーブらしい。37週過ぎの妊婦にはお産の促進、産後の妊婦には子宮の戻りを良くする効果があるって話だ」
「まさに私にうってつけのお茶じゃないですかー!」


私は早速お湯を沸かし出す。

優しい部長は、私が毎日

「陣痛マダー?」

ってやってるのを気にしてくれてたんだ。

もう!
好きすぎるぜ、禅くん!

ごはんを食べながら、お茶を飲んでみる。
すでに7月も半ば。
暑い日が続いているけれど、ホットで飲む。
なんとなく、身体を冷やさない方がいい気がするもん。


「味、どうだ」


部長に聞かれ、私は微妙な顔。


「正直に言えば、オイシイものじゃないですかね」


飲んでみます?とマグを差し出すけれど、部長は首を横に振った。


「ま、おまじないと思って気楽に飲んでくれ」


これも『おまじない』かぁ。

やっぱり、出産って不確かなことが多すぎるよ。


陣痛、早く来い~!!





「お腹が痛い……」


39週5日。
予定日2日前の夜のことだ。

夕飯後、洗い物をしながら呟いてみる。
嘘じゃない。
本当に痛い。

ソファには本日も早帰りの部長。
私の顔を見る。
ワクワクしているのは間違いないが、期待して私にプレッシャーを与えないよう落ち着いた表情を貼り付けている。


「どんな感じだ?」


「生理痛みたいな感じです。夕方から張ってましたけど、今は痛い」


「間隔は?」


「うーん、たぶん15分くらい?17分?13分?……バラバラです」


私はメモを見る。
陣痛だったら10分間隔で産院に連絡だ。

かれこれ2時間以上、夕飯を作ったり食べたりしながらメモをとっている。
これがめんどくさい。

やっぱ陣痛アプリダウンロードしとくんだったなぁ。
もう少し様子を見ようということになり、お風呂に入る私。
温まったら、少し痛みが強くなった気がする。

やっぱり陣痛かな?
でも、おしるしはないし。
……ない場合だってあるよね。

気にしながら部長と就寝。


23時30分。
私はお腹の張りで目を覚ます。

張りや頻繁になったトイレで目覚めるのはよくある。
しかし、やはりお腹が痛い気がする。

念のため、間隔を測ってみる。

時間を携帯のメモ機能に記して……。


あれ?
10分間隔だぞ?



「ゼンさん!起きて」


横で寝ている部長を揺り起こす。

過敏になっている部長はすぐに覚醒した。


「陣痛か?」


「今、10分間隔です」


「……病院に電話してみよう」

産院に連絡してみると、入院準備をして受診してくださいとのことだった。


よしっ!
やっぱりだ!
陣痛なんだ!


部長は陣痛にそなえて、禁酒中だ。
すぐに車を出してくれた。

私は簡単なワンピースに着替えて、退院用の服に合うサンダルをはく。

車で向かう最中もお腹の痛みと張りを確認する。


うん、痛い。
でも、思ったよりは痛くないなぁ。

美保子さんはもっと苦しそうにしてたけど。
あ、そっか。彼女は破水もしてたもんなぁ。

そんなことを考えながら病院到着。


採血なんかで会ったことのある助産師さんが対応してくれた。


「じゃ、見てみましょうね」


私はドキドキと内診台に上る。

子宮口、もうだいぶ開いてますよ、
とか言われちゃうのかな。


だとしたら、ラッキーだよね。
この開いていく過程が痛いって聞くもんね。

「うーん、まだかかりそうです」


「へ?」


思わぬ助産師さんの言葉。

……うん、OK、OK。
了解、了解。

初産婦の平均分娩時間は15時間くらいって書いてあった。
もう子宮口が開いて、今にも産まれそうかも……なんて。
そりゃ、私も期待しすぎだよね。

でも平気!
一度、陣痛さえ起こっちまえば、こっちのもんなんだから!
ちょっとくらい待つってもんよ!



「子宮口もだいぶ固いですし、赤ちゃんも下がってないですね。この感じだと、今日このままお産に進むって感じじゃないですよ」


助産師さんは私に十分残っていた期待を、簡単にぶち壊した。

はい?

今日はお産にならないの?

だって、お腹痛いよ?

10分間隔だよ?

教科書どおりだよ?

だから、病院に来たのに!


諦め切れない私の希望もあり、
ノンストレステストを受ける長椅子に移動して、陣痛の間隔や強さを測ってみることになった。

30分計測した時点で、陣痛はみるからに弱くなり、

そして消失した。

「前駆陣痛でしたね」


もう一度、内診してくれながら、助産師さんは軽く言った。


「まぁ、お産が近付いている証拠ですよ。また、おうちで様子を見てみましょうね」


「予定日、明日なのに」


日付が変わった。
予定日は明日にせまる。
なのに……。

私の口調にはやり場のない悔しさが滲んでしまう。


「陣痛が起こらないなんてあるんですか?」


「予定日は飽くまで目安ですからね。そう気にしなくても平気ですよ。お産が進むように、おまじないしておきましょうね」


助産師さんの優しさである、その痛い内診を再び受け、私はヨロヨロと診察室を出た。


「帰ろう」


ノンストレステストの時点で、すでにすべてを察していた部長は、私の肩を抱くと歩くのを支えてくれた。
入院荷物を持って帰宅した。

この悔しさはきっと誰にもわからない。

不思議なことに、この感情は『悔しい』なのだ。
ポンちゃんが出てきてくれない。

それがすごく不甲斐ない。
凄まじく悔しい。


「佐波、もう寝よう」


「明日も仕事なのに……ゼンさん、ごめんなさい」


「バカ、謝るな。こっち来い」


最近、シングルベッドをくっつけて寝ている私たち。
部長は、ベッドの上で私を抱き寄せてくれる。

エアコンの冷えた風、部長の温度。

涙が出てくる。

なんだよ、どうして起こんないんだよ、陣痛は。
私は早く、この人にポンちゃんを見せてやりたいんだよ。


「佐波、泣くな」


「大丈夫です……内診が痛かったから、……涙が出ちゃうだけです」


私は部長の胸に顔を押し付けた。
熱い涙が部長のTシャツの胸もシーツもじわじわと濡らす。