最寄り駅に着き、マンションまで二人で歩く。
なんか、身体が空っぽになった気分。
軽くて、自由で、寂しい。

実際はポンちゃんがぎっちり入ってて、まだまだ重いんだけど。


「明日から無職ですよ~」


試しに言葉にしてみると、やっぱり寂しさを感じる。
大学出てからずっと切れ間なく仕事してきたからなぁ。
花束に顔を埋めて、私はため息。

私の荷物を持った部長が私を見下ろす。


「何言ってんだ。おまえはこれから古今東西、何千年と繰り返されてきた重大業務に挑むんだぞ」


「はぁ、それってーと……」


「出産だよ。おまえは母親。この世で一番尊い職業につく」


母親。
子どもを産み、育てること。
この世界の根元的な事象。

私はそれを担うひとりになるのか……。


「そっか。……良いこと言いますね、ゼンさん」


「だろ?もっと俺を誉め称えてもいいんだぞ」


「よ!大統領!」


「心がこもってない」


部長が私の頭を上からガシッとつかんだ。
「ギャー!ハゲちゃう!」


「生意気な嫁はこうだ!」


私を捕まえようと部長が更に手を伸ばす。
私は頭を押さえて、夜道を逃げ回った。

あ!

身体がよろける。
ちょっとしたコンクリートの段差につまづいてしまったのだ。
部長が即座に、荷物を放り出して私を抱き寄せる。


「……調子に乗りすぎたな」


「ええ、お互いに」


私たちは誰も通らない住宅街の路地で、しばし抱き合った。


もうじき、私はこの人の子を産む。


明日から36週。
10ヶ月目だ。








妊娠10ヶ月
(36週~)


胎児(39週末)
50cm
3000g

子宮の大きさ
32~35センチ






産休に入った私はここ数日、毎日マタニティビクススタジオに来ている。
仕事をしていた時には来られなかった平日日中のレッスンだ。


私より2週間以上前から、平日クラスに出ている美保子さんと待ち合わせて来ている。

出産まで約1ヶ月。
他にもやることはたくさんありそうなんだけど、
こうして時間を決めて行動するものがないと手持ち無沙汰感が半端ない。


「なるほどね。確かに、急に仕事を辞めると、そんな感じかもね」


美保子さんはおっとり度が増した声で言う。


「美保子さんは?そんな感じしない?」


「私は、専業主婦やってたこともあるから、割とのんびり決め込んじゃってるわ。仕事もパートだから、出産を機に退職しちゃったし」
そっか~。
そんな感じでいいのか~。

彼女のゆったり感は年上の余裕もあり、なんだか羨ましい。

私、いよいよ近付いてきたお産に、気ばかり焦ってる……。


「樋口さんは37週?いよいよ正期産ね!」


話しかけて来たのは、インストラクターの先生だ。
この先生がエッグ倶楽部で『美妊婦エクササイズ』なんてのを指導していた小堺先生。

私が部長によって、ここに送り込まれるきっかけとなった先生なんだけど、やっぱ雑誌に出る人って違う。
年齢は40代半ば?
すんごい美人。
ようやく会えたよ……。


美保子さんが嬉しそうにお腹を撫でて答える。


「はい。でも、まだまだ下がってないみたいです」


「今、準備を始めたところよ。のんびり待ってあげてね。……えーと、一色さんは産休に入られたんですよね。初めまして」


私は小堺先生のピカピカの笑顔に頭を下げる。


「初めまして。エッグ倶楽部の先生の連載、拝見してます」


特に、夫が。
「一色さんもあと数日で正期産じゃないですか。どう?ドキドキしてきた?」


私はコクコク頷く。

さっきから出てくる『正期産』という言葉。
これは『臨月』なんて言葉より、よっぽど妊婦や関係者に使われる。

『臨月』は出産予定日まで1ヶ月を指すのに対して、『正期産』は37週0日~42週0日という明確な区切りがある。
多くの妊婦さんがこの期間に出産に至り、
この期間より早ければ『早産』、
遅ければ『過期産』となる。

つまりは37週イコール「いつお産になってもOKですよ~」の意味なのだ。


「待ち遠しいような、怖いような……そんな感じです」


「そうよね。体調良ければ、どんどんスタジオに通って、運動を続けてみて」


私は小学生のようにハイッと答えた。

レッスンが終わり、いつも通り受付でカードをもらう。

だいぶお腹は重い。
腰も痛い。

ポンちゃんはレッスンの間中、ドカドカ動き続けているので、疲れもひとしお。
絶対、この子もビクスを楽しんでる……。


「樋口さん、一色さん!」


受付スタッフの山田さんが、ちょっと焦った感じで声をかけてきた。


「つかぬことをお伺いしますが、明日の午前中ってお暇です?」


「明日ですか?」


明日なら、このスタジオが講習会で休みだから、美保子さんと二人で、抱っこ紐と産後リフォーム下着を見に行く予定だったけど。


「急で申し訳ないんですけど、妊婦モデルをやっていただくことは可能ですか?」


「も?モデル?」


「このスタジオが出してるフリーペーパーのモデルなんですけど、お願いしていた方がさっき切迫早産で入院されちゃいまして。急遽、明日都合つく方を探してるんです」


なんですと!?
「お願いします!人助けだと思って!」


山田さんが黒髪をなびかせ、頭を下げる。
横から小堺先生も顔を出した。


「お願い。二人とも協力して?」


そ、そりゃ小堺先生くらい麗しければ、雑誌撮影なんて痛くも痒くもないかもだけど!


「ね、佐波さん。お受けしない?」


意外にも、目立つことが嫌いそうな美保子さんが言った。
ああ、そうか。
優しい彼女は人助けになるならと思っているんだ。

うう、美保子さんだって女優並みに美人だからいいけどさぁ。
普通の私じゃ絵になんないってば!


「一色さぁん」


山田さんと小堺先生の『お願い光線』。
美保子さんの『お手伝いしましょ光線』。


……ええい!ままよ!


「わかりました。明日ですね」


うん、
割とお人好しだ、私。
翌朝、青山のスタジオに10時集合する私と美保子さん。

マタニティジーンズやチノパンの広告モデルを務めるらしい。

私たちはそれぞれ3本のパンツをはいて撮影に挑んだ。
場所は個人の家風に整えられたスタジオ内。そして、オシャレタウン青山の街角。

さすが、青山を歩くセレブレティたちは、撮影なんか慣れてるのか、誰も注目しない。

でも、私は割とテンパり気味。
基本、小心者で見栄っ張りだから、後に残るものって死ぬほど緊張する。

ああ!
昨日の今日の話じゃなければ、ヘアサロンに行ったり、エステに行ったりしたのに~!


相方の美保子さんは、余裕の表情でポーズをとっている。
微笑んでくださいとか、
視線外してとか、
カメラマンの指示に的確に答える姿はプロのモデルさんみたい。

初めて会った時から、美人だとは思っていたけど、こうしてカメラの被写体になる彼女はすごく綺麗だった。
マロンブラウンのミディアムボブ、長い睫に整った鼻梁。

羨ましいを通り越して、ちょっと自慢。

ふへへ、あんな綺麗な彼女は私のママ友ですわ。
おまけに性格も超イイんだからね。
みんな知らないでしょ~。