無事ビクスが終わり、着替えてカウンターで会員カードを受けとる。


「お疲れ様でしたぁ」


受付スタッフの山田さんはいつもの笑顔。
枝先生にしろ、さっきのことなんて、この人たちにしたら日常茶飯事なのね。


「いやぁ、驚きましたよねぇ」


山田さんの問いかけに私も美保子さんも苦笑い。


「あはは、よくあるんですかね。こういうこと」


「イエー、私長らく勤めてますけど初めてです」


山田さんがあっさり答えた。

ええっ!?
初?

横からやってきた枝先生も言う。


「私もビクス教えだして初ー。いやはや、焦りました」


全然焦ってなかったですけど?


「この産院は計画分娩ですけど、やっぱり入院前に陣痛が始まってしまう人はいるみたいですね。スタジオでも、昔は何件かあったみたいですけど、近年では久しぶりの事例でしたね」


山田さんがからっと言った。
そうなんだ。
レアケースに立ち会ってしまった。
その衝撃たるや……。


「痛そうでしたね、陣痛」


私の代わりに美保子さんが言った。
口調がおっとりなのでわからないけど、彼女だって陣痛を目の当たりにして衝撃は感じてるだろう。


「最初から歩けない程の人は少ないけど、途中からは痛いですねぇ。
この産院は、どっちみち子宮口が開いてこないと麻酔もしないみたいです。だから、無痛でも最初はある程度頑張らなきゃいけない。
でも土橋さんも、クライマックスの一番痛いあたりは痛くなく産めると思いますよ」


枝先生もからから笑う。

よ、余裕あるな、この人たち。
そっか、二人とも出産経験者か。

無痛でも痛い目にあうなんて……。
普通分娩の私たち、どれほどの痛みと闘わなくちゃならんのかしら……。


凍りつく私と美保子さんの肩を、枝先生がバシバシ叩いた。


「心配しなくても大丈夫!痛くても苦しくても、必ず産まれますから!」


うーん、陣痛の苦痛に関してはイマイチ救いがない感じ?

あとは安産を願って、運動を続けるだけ……。
うん、できることはそのくらい。



土橋さんは、その日の夕方、女の子を出産されたそうだ。






陣痛を目の当たりにした翌週、オフィスに新しいメンバーが加わった。

日笠庄司(ひがさしょうじ)さん35歳。
物静かで背が高いこの人、
私の仕事を引き継いでくれるグラフィックデザイナーなのだ。


現在、妊娠33週の私。
予定では34週から産休の予定だったんだけど、
この日笠さんが前職から転職してくる時期の兼ね合いで、
産休は35週からになった。

妊娠経過は順調だし、こちらとしては全然構わない。


しかし、私と夢子ちゃん二人でお菓子食べながらやってたスーパー能天気島に、
日笠さんみたいな寡黙で年上な男性が入ってくると、妙な緊張感を感じずにはいられない。


たとえるなら、お花畑に野武士が舞い降りちゃった感じよ。
「ウメさぁん、なんかあの人怖い~」


夢子ちゃんが人見知り全開なのは、日笠さんがあまりに喋らないのと、
あまりに仕事ができすぎるからだろう。

指示した内容は、そつなく素早くこなし、空いた時間は自ら仕事を見つけサクサク進めてくれる。


「すごいですね」


私も褒めてみたけれど、どうも彼の心には響かないらしい。


聞こえるか聞こえないかの声で

「どうも」

と返ってきただけだ。


こりゃ、仕事だけなら引継ぎに2週間はいらないぞ。

不安材料があるとしたら、私がいなくなった後、
チャラチャラゆるふわ夢子とフジヤマハラキリ武士・日笠さんがうまくやれる保障がないってこと。
初日は何事もなくお仕事終了。

翌日だ。

私たちに降ってきたのは、あの丸友不動産の案件!
何を隠そう、私と部長が『こう』なってしまった原因だ!


約半年ぶりの物件丸ごと依頼は、私と日笠さんにすべてが託されることとなった。


「頼むから、おまえは無理しないでくれ」


今回もこの案件の中心を勤める部長は、家では私にそう言う。
でも、職場で同じ態度はできない。

妊婦で徹夜はさすがにマズイし、体調的に安定してるとは言っても9ヶ月のお腹は大きい。

大丈夫!
ひとりの身体じゃないのはわかってるし、
今の私には強~い味方・日笠さんがいるんだぜ!


引継ぎも兼ねつつ、私と日笠氏はパソコンにくっつきっぱなしになったのだった。


木曜日、私と日笠さんは残業中だ。
他の案件でてんてこ舞いだった夢子ちゃんも、自分の仕事を片付け次第、手伝ってくれている。

ああ、知ってたけど、やっぱココの案件、キツイ。

妊婦でなくてもネを上げたい。

私はオフィスチェアにそっくり返った。
あー、お腹張る~!
疲れてくるとどうしても張るよう!

すると、初めてだ。
日笠さんが自分から喋った。


「あの、休憩にしませんか?」


「え?あ、はい!」


「やったぁ、休憩、休憩♪」


夢子ちゃんがデスクから躍り上がる。


「何か夕飯を頼みましょうか」


日笠さんが店屋物のリストを持ってきて言った。
蕎麦屋さんのメニュー……そそるなぁ。
「僕、海老天蕎麦にします。一色さんと山内さんは?」


名前をきちんと呼ばれたのも初めてかもしれない。
当たり前のことだけど、日笠さんが私たちの名前を呼んだことに奇妙な感動すら覚える。

そのくらい、コミュニケーションの希薄な人だったから……。


「じゃ、私、冷やしたぬき」


夢子ちゃんが嬉しそうに言う。
私は疲れから思わず……


「きつね蕎麦、ミニカツ丼付き」


最高にボリューミーなオーダー。
ふっと笑う声に私と夢子ちゃんは一斉に振り向いた。


な、なんと!
あの日笠さんが笑っている。


「いや、すみません。妊婦さんってお腹が減るんですよね」


笑ってしまったことを恥じるように、日笠さんは咳払いする。
電話で注文を終え、一旦仕事に戻る。
20分くらいで、注文の品がオフィスに届いた。
待ってましたと、応接スペースに移動して食べ始める私たち。


「うちの姉が……」


再び日笠さんが口を開いた。
どうも、休憩中のトークも進んで参加してくれるようだ。


「昨年出産したんです」


「あら、そうなんですか」


私は正面に座る日笠さんの顔を見る。
でも、日笠さんのお姉さんってことは。


「40歳初産で、高齢出産でした」


あ、やっぱりそうなるよね。


「姉はなんというか、呑気というか無神経なタイプなので、体重増加なんて何も気にしないで食べまくってたんです」


「いやぁ、でもお腹減りますもん。普段より甘いもの欲しくなったりするし、お姉さんの気持ちわかりますよ」


私が言うと横から夢子ちゃんが口を挟む。


「ウメさん、この前、デスクに隠してたチョコを部長に取り上げられてましたもんね」


言うなよ、そんなこと!