「時田さんが携わったその妊婦さんもね、うわ言みたいに言ってたんですって。『赤ちゃんだけは助けて』時田さんの手を握って。
彼女は言ってたわ。『私はあの時頷いてあげられませんでした。確実に助けられるとは思わなかったから。でも、頷いてあげられたら、どれほど彼女の心をなぐさめられたかと今でも思うんです』
彼女、少し冷たく見えるけど、真面目で、妊婦さんの気持ちに添いたいと考えてる助産師なんですよ。悪く、思わないでやってね」
私は頷いた。
ショックな話に、
そうするしかできなかった。
天池さんが仕事に戻り、
部長の点滴が終わるまでの残り一時間、
私はぼんやりしていた。
いろんなことが頭を過った。
仲良しの妊婦さんの死に立ち会った時田さん。彼女はどんな想いだったんだろう?
今、どんな気持ちで助産師をしているんだろう。
赤ちゃんをその腕に抱けなかった妊婦さん。彼女の無念と祈りはどれほどだろう。
残された赤ちゃんと旦那さんは二人で生きているんだろうか。
病気じゃないから、お産は安全。
そんな風にどこかで私も思っていた。
でも、実際はそうじゃない。
私は今回、その一端に触れた。
「ポンちゃん、ママが守るからね」
私にできることは、ポンちゃんの命の責任者であること。
産まれるまでは、私でないと気付いてあげられないこともあるはず。
母親になる覚悟がついたかというとわからない。
でも、ポンちゃんが健康に産まれるためなら、
何でもできる気がするよ。
私の手を握ってくれた時田さんを再び思い出す。
メガネで三つ編みで胸が大きいツンツン女子。
ポンちゃんが産まれる時、彼女がいてくれたらいいな。
ふと、そんなことを思った。
妊娠8ヶ月
(28~31週目)
胎児(31週末)
40cm
1500g
子宮の大きさ
25~28センチ
「はい!それではマタニティビクスのレッスン、本日はここまでになります!ありがとうございましたぁ!」
枝インストラクターの元気な声とともに、レッスンが終わる。
土曜日のマタニティビクススタジオ。
はー、今日もいい運動になりました!
私と美保子さんは丸いお腹を並べてマットで着替え始める。
「一色さん、樋口さん、お二人とも調子はいかがですか?」
汗を拭きながら、枝先生が話しかけてきた。
私は顔を上げる。
「だいぶ、お腹が重くなってきました」
28週1日。ポンちゃんは8ヶ月に入った。
昨日の検診では、体重は980グラム。
私の体重もここにきてプラス6キロだ。
「赤ちゃんがグッと大きくなる時期がきましたね。お二人とも、ここにいらした時はまだお腹が小さかったのに、早いなぁ!」
枝先生は感慨深そうだ。
美保子さんがおっとりと笑う。
「おかげさまで、ビクスの動きも少し馴れました」
確かに!
あれほど珍妙な盆踊りを演じていた私も、気づけば他の妊婦さんたちと遜色なく動けるようになってきた。
ああ、一時はどうなることかと思ったけど、続けるって意味があるのね!
「お二人とも、すっかりベテランの風格ですよ。そうそう、30週前後は張りを感じやすい時期ですから、張りが強い時は無理をせずに過ごしてくださいね」
「はーい」
私も美保子さんも小学生のようにお返事。
「あ、先生、ビクスはいつまでやっていいんですか?」
私が聞くと、先生はニコッと微笑んだ。
「ご出産当日までどうぞ。この産院なら入院日まで受けられます。他院のお二人は陣痛が始まるまでOKです」
ま、マジですか。
でも確かに先輩妊婦さんには確実に臨月の人がたくさんいるもんなぁ。
ランチをして帰り道。
休日の電車、優先席は運良く並んで座れた。
私たちは丸いお腹を撫でながら、のんびり気分だ。
「私たち、お腹大きくなったよね」
「本当にね。薄着になったせいもあるけど、さすがに電車で席を譲ってもらえることが増えたわ」
まあ、それでも譲ってもらえるのは稀だよねぇ。
なんて、
お互いのお腹を撫でっこ。
「美保子さんのお腹って典型的な『男腹』って感じ」
いわゆる俗説なんだけど、お腹のかたちの話だ。
男の子が入ってるお腹は前にせりだして尖る。
女の子が入ってるお腹は横に広がる。
私たちのお腹ってまさにそんな感じ。
だから美保子さんは一週早いだけだけど、私よりお腹が目立って見える。
「枝先生も言ってたわ。根拠はないけど、何人も妊婦さんを見ているとそういう傾向はあるって。不思議ね」
「検診も増えたし、そろそろ入院準備もした方がいいのかなぁ」
「早まることもあるらしいし、動ける内に準備しときなさいって、病院で言われたわ」
お産入院の準備のこと。
8ヶ月に入ったら準備って、私も産院から言われてる。
産褥パンツや、母乳パット。
結構色々あるんだよね。
いざ、出産となったら、バッグひとつ持って産院へ向かえるようにしておかなければならない。
私は美保子さんに聞いてみる。
「ベビー用品、見て帰る?」
「そうね。かさばるものはお互い旦那さんと買いにいけばいいし、下見にはなるかも」
「じゃあさ、デパートじゃなくて量販店に行ってみようよ。近くなら○○駅にあるって」
私たちは帰路を変更し、渋谷で電車を乗り換えた。
ホント、女同士って気楽~。
量販店でベビー服や、お産用品をチェックして、私たちは帰宅した。
デパートと違ってお安めで種類豊富な量販店は魅力的なプレイスだ。
かさばらないし……と哺乳瓶だけ、お揃いで買ってきちゃった。
プラスチックと、ガラスのものをひとつずつ。
そして、色違いのカバー。
美保子さんのチビちゃんは男の子だから、ブルーのドット。
うちのポンちゃんはピンクのドット。
あー、高まるわぁ~。
「ただいまぁ」
「おう、お帰り」
部長はソファでくつろいでいる。
夕飯の準備の前に、私はソファのお隣にちょこんと座ってみる。
「見てください」
戦利品の哺乳瓶を早速見せると、部長は興味深そうに眺めてから、一度テーブルに置いた。
それから、私のお腹を触る。
「ポンにお帰りって言ってなかった。おーい、ポン、お出かけは楽しかったか?」
ポンちゃんはパパの声に反応して、お腹の中でグルグル動いている。
と、いってももう回転できるほどスペースはないだろうけど。
「ポン、動いてるぞ」
「パパに甘えてるんですよ。すでに女子力を発揮して、悪い女」
「おお、いいぞ。存分にパパに媚を売るがいい」
部長が嬉しそうに笑っていると、私も嬉しい。
思いきって、
だいぶ思いきって、
私は部長の肩に頭をもたせかけてみる。
「甘えてんのか?」
部長が少し意地悪く聞いてくる。
私はツーンと答える。
「別にー。ちょっと疲れただけです」
すると部長がお腹に当てていた左手を私の頭に移動させた。
くりくりと手で髪を混ぜてくる。
「じゃあ、少し休んでけ。台所に立つのが苦しけりゃ、外に食べに行ってもいいぞ」