エプロンを脱いで、ふと自分のカバンの隣に見慣れない箱が置いてあることに気づく。


リボンと包装紙を解くと、箱を開けなくても何であるかが分かった。






「…佐倉くん。」


バックルームから顔を出すと、佐倉くんは私の代わりにレジに立っていた。



こちらに背を向けている佐倉くんの表情は見えない。


「こ、れ…。」





箱の中に入っていたのは、イチゴのタルトだった。

ハピーズ飯崎店一階にあるケーキ屋の物のようだ。



「…ちゃんとしたクリスマスケーキは売り切れで、だから雰囲気だけでもと思って。」





惜しむことなく使われたイチゴにはシロップのようなものがかかっているのかキラキラと光り輝いている。



これを買うためだけに店を出て、そのまま戻ってきてくれたのだと思うと涙が零れそうになる。


じんわりと心に広がる何かが、
私の内側を満たしていく何かが答えだった。




伝えたいと。

伝えたいと、思った。



私の気持ちを。













閉店を迎えた店でレジ締めや売上報告といった閉店業務をこなして、店を後にした。


佐倉くんは、結局閉店まで店にいて細々とした仕事をしてくれていた。



「タダ働きになっちゃうけど?」と可愛げのないことを口にする私に、
佐倉くんは「構いませんよ?」と言って笑った。





外へ出ると、冷たい空気が身体を突き刺していく。


コートのポケットに手を突っ込んで、佐倉くんと並んで凍える夜を歩いた。

いつもは憂うつになる駐車場までの道程が、今日に限っては有り難い。




「…あのさ。」


「…はい。」


「…私、路木さんのプロポーズ断ったの。」



佐倉くんは何も言わない。

だから、私は急に不安になる。


たったそれだけのことなのに、底無し沼へ突き落とされた気分だった。




「仕事好きだし、辞めたくなくて。」


「…それが、理由ですか?」


佐倉くんは急に立ち止まる。
俯いた彼の横顔は暗いせいもあってよく見えない。




「…うん。」






それだけが理由じゃない、とどうして言えなかったんだろう。





その横顔が見えなかったこと、土壇場で躊躇った自分の弱さを、
私は今、酷く後悔している。







「…芳乃さん。俺、もともと金貯めたくてバイト始めたんです。」


「…え?」


「留学資金にしたくて。」


「……留学って…?」


「そのつもりでバイト始めたくせに迷ってたんです。貴女の傍にいたくて。…でも、そういうところがダメなんですよね。」


「ちょ、ちょっと待っ…。」




何を言っているのか、何を言われているのか、私はただ混乱していた。






「分かったんです。」


「えっ?」


「自分のこともロクに出来ねぇのに気持ちばっかり押しつけて、俺はただのガキでした。
今のままの俺じゃ、貴女の傍にはいられないから。」


「…………。」


「…予定どおり、年が明けてからオーストラリアに留学します。報告が遅くなって、本当にすみません。」









私は今、酷く後悔している。


この時、何も言えなかった自分を。





今のままのキミで構わないのに、とどうして言えなかったんだろう。























山崎くんとマリちゃんが付き合い始めたらしい。



クリスマスに山崎くんが告白したのがきっかけだが、山崎くんは『マリちゃんに捧げる愛の歌』というものを自分で作って弾き語り。


それ自体は酷くサムかったらしいが、マリちゃんはこの話を楽しそうにしてくれた。





路木さんは、年が明けてすぐにイタリアへ旅立っていった。



出発する前に、一度だけ電話があった。


「飲み過ぎるなよ」とか「時々は肩の力を抜いてみな」とか、彼は私の心配ばかりする。


それは、もうきっと、癖とか習慣づいたものなんだろう。

変わらないでいてくれることが嬉しかった。



「頑張りすぎないで下さいね。」

と、言ってみると路木さんは電話の向こうで笑った。





旦那様のショーンとケンカして突然やって来た菫は、クリスマスも年越しもハワイへ帰らなかった。


姉妹二人で新しい年を迎えるのは、何だか不思議な気分だった。












私の仕事は嵐のように忙しく、ハピーズ飯崎店と南沢町店を行ったり来たり。


クリスマスからお正月、この時期は毎年こうなるのだった。




私が、やっと落ちついて休みをとれる頃には、1月10日になっていた。




仕事に追われて忙しい日々は、でも助かる。

他のことを考えなくてすむから。





佐倉くんは1月末には日本を発つようだった。



バイトのメンバーには自ら伝えたらしく、
皆気をつかっているのか、それに関して私に尋ねてくる者はなかった。






佐倉くんとは、あれからずっと平行線。


前進も後退もない。




私と佐倉くんの間には、見えない膜のようなものがあるんだと思う。


私は、それを破れなかった。


だから、彼は一人でどんどん先へ歩いていってしまう。





追いかけるより諦めるほうが、ずっと楽だった。


ずっと、楽なはずだ…。

















「お姉!もう無理っ!もう許してーっ。」


「はぁ?私より若いくせに、そんなんでどーするのよっ!」


「ギブ!ギブアップ!」



そう言うと、菫はテーブルに突っ伏してしまった。





久しぶりの休日。


菫の買い物に付き合って、私が行きたかったスイーツの食べ放題に来ていた。

制限時間90分で、スイーツの他にもパスタやサラダなんかもある人気の店だ。




普段、あまり甘いものを食べない私だけど、なんだか無性に食べたくなった。



好きなものを好きなだけ。


私の皿には種類も量もたくさんのケーキがあり、ハイペースでそれを口に運ぶ。

部活帰りの学生みたいな食欲に、正直自分でもドン引きだ。










「…お姉、まだ食べるの?」


「まだまだぁ!あと30分もあるんだから!」



ケーキを頬張る。

頬張る。

頬張る。


「モンブラン美味しー!
このレモン風味のタルトも最高!タルト生地にレモン風味のクリームがぁぁ!」




そんな私の様子をじっと見ていた菫は呟いた。



「…ガトー・モカ懐かしいなぁ。」


「ん?」


「子供の頃から好きだったでしょ。あたしたち、顔も性格も似てないけど好きなケーキがガトー・モカは一緒。」


「確かに。」




丸い真っ白な皿にガトー・モカ。

コーヒーとホワイトチョコレートのスポンジ生地と、バニラクリーム。

周りはコーヒー味のマカロンで飾ってある。





貧乏だった岡田家、ケーキなんて誕生日以外は食べられなかった。


私と菫の誕生日、つまり年に二回だけ近所の小さなケーキ屋のガトー・モカを食べられた。



「変な子供だよね。普通ショートケーキとかチョコレートケーキとかなのに、ガトー・モカが一番なんて超マニアック。」


菫は言いながら笑って、私もつられてクスクスと笑った。











「…お姉、恋してるでしょ?」


「…な、によ。突然。」


「誤魔化したってダーメ。あたしを誰だと思ってるの?妹だもの、分かるわ。」



自信たっぷりの菫に私は何も言い返せない。




「しかも。あんまり上手くいってないんでしょう?」



……菫、アンタもエスパーかい?




「お姉は昔からそうだもん。幼稚園の時のタツヤくんだっけ?あと小学校の鈴木くんに、中学の先輩。
お姉は恋が上手くいかないと、昔から甘いものの大食いに走ってたじゃない?」



何もかも、菫はお見通しだった。




「甘いものは人を幸せにしてくれる、食べてる時は余計なことを考えなくてすむから、だっけ?」



そのとおり。




私は溜め息を吐き出す。


こんがりと焼けた菫の肌は若々しく健康的で眩しかった。



「菫はいいよねぇ〜。」


ポツリと零すと、菫はきょとんとして不思議そうな顔をする。




「才能があって、自由で。結婚もしてさ。私なんか仕事しかない。」




なんか、自分で言ってて惨めになってきた。










「…あたしは、お姉が羨ましいけどな。」


「え?」


菫が言ってることが全然ピンとこない。

だって、私なんか羨ましいはずないでしょ?




「頭が良くて、お母さん、お父さん、先生に友達、皆から信頼されててさ。
あたしなんて…音大辞めたのだって周りとレベルが違いすぎて自分の限界見えちゃったからだし。
ハワイへ行ったのだって、何もかもリセットしたくて逃げ出しただけだし。結婚だって…また逃げてきちゃったし。
お姉が思ってるほどカッコ良くないよ。」


「…そんなこと…。」




妙に、しんみりとした空気が流れていた。

初めて聞く妹の本音に、私は戸惑うばかりだ。





「さぁて、と!あたしの話はいいとしてっ!」


「え?」


「お姉はいつまで逃げてるの?」


「…………。」




そんなこと、言ったって……。





「…何よ。イタリアだ、ハワイだ、オーストラリアだって!そんなに海外がいいならどこへでも行けばいいじゃない!!」


「え?」


「私なんかっ!日本から飛び出したことないっつーの!!」


「…お、姉……。」



菫が驚いた顔で、私を凝視している。



頬を生温いものが伝った。

それが涙だと気づいて、自分でも驚いてしまった。




心が張り裂けそうだ。

もう…本当バカみたいじゃん。