「…佐っ…倉…。」
必死に、呼吸を整える。
「…っ私…。」
「……すよね…。」
「…え?」
絞りだすように発せられた声だった。
背を向けている佐倉くんの表情は分からない。
「今の俺じゃ、ダメなんですよね…。」
「…何、言って――…。」
佐倉くんは私の言葉を遮り、振り返る。
辛そうに顔を歪めていた。
泣いているのかとさえ思った。
「ずっと考えてましたよ、俺だって。
芳乃さんが立ち止まるのは、俺がガキで、頼りないからだって。迷惑ばっかかけて…何も出来ねぇからだって。」
「ちがっ!」
そんな顔を、しないでほしかった。
分かってほしい、
分かってほしいのに気持ちが溢れるばかりで伝えられない。
もどかしくて――苦しい。
「俺だって…分かってますよ。あの人の方が、ずっと貴女にふさわしいんじゃないかって。
俺は何も持ってないし、何も勝てねぇし、誇れるものもない……すみません。待つなんて言っておきながら、全然余裕なんかなくて一人で焦って、いつまでも…ガキで。」
――あぁ、そうか。
待つのも、待たせるのも、辛いことだったんだ。
佐倉くんはいつも笑顔で、言いたいことなんか言っているように見えていた。
……ガキは私の方だ。
自分ばかり悩んでいると思ってた。
自分のことしか考えてなかった。
私が悩んだ時間と同じだけ、佐倉くんも足掻いていたのに…。
ねぇ、お願い。
そんな顔しないで。
私を、諦めないでよ。
「それでも、俺は…。」
何かを言いかけて、でも佐倉くんは。
佐倉くんはもう何も言わず、私の目を見ることもなく、背を向けて行ってしまう。
今度は身動き一つ出来なかった。
佐倉くんを引き止める言葉も術も、私は知らない。
小さくなっていく背中が滲んで見えなくなる。
私は、その場に立ち尽くし、ただ泣いていた。
職場恋愛なんてするもんじゃない。
私は、今それを肌で感じている。
「ケンカでもしたんすかぁ?」
「…別に。」
山崎くんは復活してもチャラいままで。
「芳乃さんがハッキリしないから。勿体ないなぁ、イケメンなのに〜。」
「は、ははは…。」
香織さんは他人の色恋沙汰が大好物なのだと、最近になって気づかされ。
「…芳乃さんって…なんか残念な人ですね…。」
「…………。」
マリちゃんから哀れな目で見られる。
あれから、1週間。
佐倉くんのオープンすぎるラブ攻撃(?)はパッタリとなくなった。
それどころか、佐倉くんは私を避けているような気さえする。
仕事以外で話すこともなく、私もどうしたらいいのか分からない。
私たちの気まずい空気を察知したバイトのメンバーも、何となく気をつかっていたり、好奇の視線を向けていたり。
仕事がやりづらくて堪らない。
どうして、私はいつもこうなってしまうんだろう。
クソ真面目に悩むから優柔不断になる。
クダグダと悩み続けているうちに、幸せは逃げていく。
本当、最悪だ。
こんな日はビールにどっぷりと溺れてしまえ!と思いながら帰宅すると、
部屋の玄関先に不審者がいた。
キャップを目深に被り、背中をドアに預けて座り込んでいる。
大きなスーツケースとボストンバック。
驚きで動けなくなってしまった私を見つけた不審者は、立ち上がるとキャップを取った。
その瞬間、唖然とする。
「…嘘…菫?」
小麦色の肌に、男のコのようにサッパリとした短い髪。
満面の笑顔で駆け寄ってきて、そのまま私に飛びつく。
「お姉!久しぶりーっ!!元気だった!?」
自由奔放な妹は、突然やって来た。
才能がありながらも勝手に音大を辞めて、勝手にハワイへ行ったまま帰らなかった妹が。
「お姉!ちょっと痩せたんじゃない?」
再会を喜んでいる菫の片手には瓶ビール。
……おいおい、ココで飲んでたのか…。
「って、お姉聞いてるー?ユーレイでも見てるみたいな顔しちゃってさ!」
「いや、だって…。」
そりゃ、びっくりするだろう……。
菫から聞かされる話は、いつも私にとっては奇想天外だった。
例えば、菫が高校生の頃。
「お姉!あたし、彼氏ができたー。」
「そう。良かったじゃない。」
それから、5時間後。
「お姉!あたし、彼氏と別れたからー。」
「………は?」
菫が高校生の頃といえば、こんなこともあった。
学校から帰ってくるなり、
「お姉!あたし、今日の朝、駅でナンパされちゃった!」
という報告だ。
「へぇー。」
「それでね、あたしも気になったから、学校サボってついていったの。」
「…は?ついてったって…ナンパに?」
「うん。あっ、でも心配しないで。いつも駅で見かける人だったし。」
ほわんとした笑顔で答える菫に、私は眉をひそめる。
「…どんな人なの?高校生?」
「ん?ホームレスのオジさん。」
「………は?」
変人で奇天烈な妹の可笑しな武勇伝は数知れず。
そんな不可思議な菫が突然、ハワイから帰国した。
「わぁーっ!お姉、けっこうイイ所に住んでんじゃ〜ん!」
部屋を見渡してくるくると回る菫に、私は溜め息を零す。
「お姉!しばらく、ここに置いてもらってもいい?」
「…それは構わないけど。…っていうか、ちゃんと実家に顔出した?お母さんたち、あれでも心配してるのよ。」
「出した、出した。でもブチギレでさぁ、追い返されちった。」
その言葉に、嫌な予感が駆け巡る。
「…菫、アンタまさか…また何かやったの?」
恐る恐る尋ねると、菫は困ったように笑う。
「まぁまぁ。ビールでも飲みながら、ゆっくり話そうよ。」
冷蔵庫を勝手に開けると、缶ビールを2つ取り出して1つを私に差し出した。
「おっ!いいじゃん、このバルコニー!お洒落ー!!」
菫はカラカラと窓を開けると、石畳のバルコニーへ飛び出す。
渋々、私もビールと煙草を片手に菫の後を追った。
「夏なら超気持ち良いだろうねぇ〜。」
ゴクゴクと喉を鳴らしてビールを飲みながら、菫は無邪気に笑っていた。
「…で、今度は何やらかしたの?」
「…厳しいなぁ、お姉は。」
そう言って肩を竦めてみせる菫には気づかないふりをして、煙草に火をつけた。
ゆっくりと煙を吸い込み、吐き出す。
吐き出した煙は、夜空に浮かんで消えた。
「あのね」、と菫が口を開く。
「あのね」とか、「それでね」とか、「あたしね」とか。
その言い方は子供の頃から変わらない。
私はそれを、“妹らしい話し方”だと思っている。
「あたしね。」
「うん。」
「…結婚したの。」
「う……は?」
……“結婚しようと思うの”じゃなくて“結婚したの”。
“結婚したの”!!?
間抜けな顔をしていることは分かっていたけど、それどころじゃない。
「い、いつ?」
「2ヶ月前。」
「あ、相手は?」
「ハワイで知り合ったアメリカ人。」
呆然とする私に、菫はやっぱり困ったような笑顔を向ける。
「…やっぱ、勝手に結婚したのってマズかったかなぁ?」
「…当たり前でしょ…。」
音大を辞めた時も、ハワイへ行った時も、
どうしていつも、この子は事後報告なんだろうか?
そりゃ娘が勝手に結婚してたら親はブチギレるわな。