エレベーターを降りて、マンションのエントランスから外へ出る。
道沿いに、一本一本と桜の木が等間隔に並んで、舞い散る花びらがひらりと落下する。
その下を、私とジンは歩いた。
「どこに行くの?」
「え…あぁ…ジンが迷子になった公園。」
「あぁー、あそこも桜いっぱいあったもんねぇ。」
いちいちドギマギしてしまう自分を、だらしなく思う。
同時に、何も気にしていないようなジンを見ていて悔しくなる。
何だか、これじゃ、私ばっかりドキドキしているみたいだ。
背の高いジンを見上げれば、その背景に美しい桜。
……ムカつくくらい、絵になる男だ。
私は、さっさと目を逸らす。
私のショボい歩幅に合わせて隣を歩いてくれるジンの、そういう優しさが嬉しいような、切ないような、悔しいような………。
ブランコやら、滑り台やらを通り過ぎて、さらに公園の奥へと進む。
整備された散歩道の先に広場がある。
右を見ても、左を見ても、桜、桜、桜。
それほど込み合っているわけではないけれど、花見を楽しむサラリーマンや大学生らしいグループがいくつか。
……ヤバッ!中学の時のアズキ色ジャージで来ちゃったよ…。
左胸には、しっかり『川野』と刺繍までされている。
美男子と歩く、ジャージ女………一体、他人の目には、どう映るんだろう。
……少なくとも、“ペットとご主人サマ”とは誰も思わないな。
「ツバサちゃん、あっちにしない?」
「え?」
ジンが指し示した方向には、小高い丘の上に桜の木が一本だけ。
華やかさには少し欠けるけど、人気はないようだった。
「ゴメンね。俺、人が多いところって苦手でさ。」
ジンは苦笑した。
本当に人の多い場所が苦手なだけなのか、それとも人目をちょっぴり気にした私に気がついてくれたのか。
どちらにしても、ジンのそういうさりげない優しさに私は弱い。
たった一本だけの桜の下で、お弁当を広げた。
夜の空に、薄桃色の花はよく映える。
丘の上からは、たくさんの桜も見渡せた。
……意外と、ここは穴場かも。
「夜桜デートだね。」
「散歩っ!」
すかさず否定しても、ジンは表情一つ変えず、おにぎりを頬張っていた。
そんなジンの顔を見つめながら、私は思う。
ジンと一緒にいると、居心地がいい。
私は、その居心地の良さに甘えてしまう。
………じゃあ、何でこんなに居心地がいいんだろう?
それは、私とジンの間に一定の距離感があるからだ。
決して踏み込もうとはしない領域。
お弁当を食べ終わった頃、私はジンに尋ねた。
「……どうして何も聞かないの?」
私の言葉に、ジンは首を傾げる。
「桜助の事にしても……例えば、私が高校生の分際で、あんな高級マンションに一人で住んでた事とか。」
ジンは黙って聞いていた。
それから、少し考えてから、口を開いた。
「うーん、聞く必要がないからかな。」
「え?」
優しい瞳で、ジンが微笑む。
「言いたくなったら、ツバサちゃんから話してくれるでしょ?」
「…………。」
「それに、ツバサちゃんも俺のこと聞かねぇじゃん?何も聞かないで拾ってくれたでしょ。
だから、俺はご主人サマに尽くしますヨ?」
何、ソレ。
そんな……何もかも包み込んでくれるようなこと言うな。
ジンの目を見れなかった。
……泣いてしまいたかった。でも、泣いてなんかやらない。
「でも、一つだけ、お願いかな…。」
「え?」
「俺はイイ大人だけど、けっこうガキだったみたいだ。
ペットよりオトコ、なんてなったら犬じゃなくてオオカミになろっかなぁ。」
「……はっ!?」
「閉じ込めて襲うのも悪くない。」
ニコリと笑って言ったジン。
……こ、殺し文句…。
「は、発情、的な?」
「かもね。」
「!!!??」
……私の心臓、ウルサイ。
そのうち、ショック死とかしたらどうしよう。
そんな私を知ってか、知らずか、ジンは私の膝の上にゴロリと横になった。
………いわゆる、膝枕状態。
「なっ!?ちょっと!ジン!!」
「いいじゃん。犬なんだから。それとも、オオカミがお好み?」
「バカじゃないの!?」
完全に、ジンのペースだ。
あぁ。もう。
けれど、そこはイカれた愛犬家。
気づけば、ジンの髪を撫でている私がいた。
瞳を閉じている綺麗なジンの顔。
……美しさは、桜とイイ勝負になりそう。
「そういえば、この間言ってたよね、ツバサちゃん。」
「ん?」
「“シャンプーしてあげる”って。」
「……え!?」
「楽しみだなぁ。」
「…………。」
……さて、甘い生活に閉じ込められたのはジン?
…………それとも、私だったのでしょうか……?
・『発情期!?』・
それは、夕食の準備をしていて私がキッチンに立っている時だった。
ちなみに、ジンはお風呂に入っていて……。
その日は、ジンが放棄していた部屋やベランダの掃除をしてくれて、
私はデザートにプリンをつけてやろうか、なんて思っていた。
……思っていたのだが。
「ツバサちゃーん!」
「なに?もう、ちゃんと髪乾かしたの?」
そう言って、振り返った私は絶句する。
たぶん、ハトが豆鉄砲をくらったような顔をしていたかもしれない……。
ジンは、腰にタオルを巻いただけ……上半身裸。
「なっ!!?」
「ツバサちゃん!シャンプーは!?ずっとお風呂で待ってたのにー。」
……シャンプーって……まだ言ってたのか…。
「と、とにかく、さっさと服着てよ!!」
「なぁに今さら恥ずかしがってんの〜?初めて見る身体じゃないのに。」
「別に!恥ずかしがってなんか!!?」
濡れたままの髪に、濡れたままの身体………。
肌から滴り落ちる雫……。
スタイル良いのに、筋肉質な……細マッチョ?
……って、私!何考えて!!
ハッとした。
ジンの身体をじっと見つめていた自分に。
“変態”と言われても、返す言葉もない…。
「ツバサちゃん、拭いてー。」
「…ったく、手がかかるんだから。」
私は変態的思考に蓋をした。
バスタオルを持ってくると、ジンの髪を拭く。
ジンは大人しく、されるがまま。
ふいに、ジンの肌に指先が触れた。
瞬間、私はさっと身を引いた。
それは、まるで指先から電流が走ったような感覚で。
ジンの肌は熱く、私は指先が痺れているような錯覚さえ起こす。
「どうしたの?ツバサちゃん。」
ジンは、そう言って私を見つめる。
その綺麗な瞳に、私は身動きも出来なくなった。
……一体、どうしたって言うんだろう。
まるで、可笑しくなってしまったみたいだ。
「ツバサちゃん?」
「ッ!!」
私は、ジンの頭からタオルを被せた。
「え??」
「自分で拭いてよねっ!!」
その場から逃げ出すように立ち上がり、私はキッチンへ戻る。
……イカれてるどころの話じゃない!
ジンに見つめられながら、私は一瞬とんでもないことを思ったのだ。
そして、あと1秒でも遅ければ、そうしていたかもしれない。
顔が熱い。耳が熱い。
胸の内が、嵐の夜のように騒めく。
プリンのことは、忘れていた。