家に帰り、部屋の鍵を開けると、なぜだか室内は真っ暗だった。
電気をつけて、周囲を見渡すがジンの姿がない。
「ジンー?」
キッチン、私の部屋、バスルーム、トイレ、ママの部屋…………どこにもジンはいない。
バタバタと部屋中を駆け回っていた私は、リビングのテーブルの上の紙切れに気づく。
慌てて手に取ると、
一言だけ書かれていた。
― 散歩。 ジン ―
「…………。」
あのバカ犬!!
どっと疲れが襲う。
心配して損した。
いなくなったのかと思ったじゃん!
……いや、別に、いなくなろうが関係ないけどっ!!
……つーか、勝手に散歩って何なの!?
マジで頭にくるっ!!
帰ってきたら、叱ってやる!!
置き去りの紙切れを放り出して、私はキッチンへと向かった。
夕食の準備をしつつ、パソコンの電源を入れる。
インターネットに繋いで、検索ワードは……シンプルに“犬の飼い方”でいっか。
表示されたページからテキトーにクリックして…………えーっと、なになに?
犬の世話……散歩……。
散歩の目的は、
犬の運動不足、ストレスの解消……飼い主とのコミュニケーション…へぇ〜。
ん?犬のブラッシング……シャンプー…………シャンプー!?
いやいや、でも、アレはね………一応は人間だし。
うん、人間だし!!
っていうか、躾だよ!躾!!
えーっと、『犬のしつけ』あった!!
私は早速クリックしてみる。
簡単に流し読みしながら、目に留まったのは『褒めてあげる』という項目。
“ちゃんとホメてあげることで、犬もしつけを覚えることが楽しくなる。”
……ちゃんとホメてあげる、かぁ。
『犬の叱り方』は、
名前を呼ばずに「ダメ!」、「いけない!」、「No!」。
えっと、無視で躾けるのも有り?
へぇ〜。
ん?ダメな叱り方は、
“時間が経過してから叱る”、“散歩に連れていかない”、“エサを与えない”、か。
んん?『発情期』?
“発情という体の変化はメス犬だけ。”
へぇ〜そうなんだ、知らなかった。
“オス犬は1年中発情していて、発情期のメスから出るフェロモンに誘われて、メスを追いかけまわす行動………。”
…………え?
“オス犬に発情期はない。発情期中のメスの匂いを嗅ぎ分けて発情する。
オスは、いつでも交尾可能。”
…………はい?
………………まさか、ね。
私は慌てて時計を見つめる。
私が帰ってきてから1時間弱経過…………。
……あのバカ犬!!
一体、どこまで散歩に行きやがった!!?
・『ご褒美はキスで』・
片付けられて、すっかり広くなったリビングとキッチンを行ったり来たり。
ジンが置いていった紙切れを見ては、溜め息。
そうしているうちに、焦げ臭い匂いに気づいて、私はハッとした。
慌ててキッチンへ向かうが………。
炒めていた色鮮やかなパプリカと牛肉は、真っ黒になって干からびていた。
私は、また、大きな溜め息を零す。
……どうしよう。
いくら何でも遅すぎない?
もう、あれから1時間が過ぎている。
整った顔をしているし、愛嬌あるし…………まさか、誘拐?
それとも、メスに誘われた?
綺麗なお姉さんに拾われて、ついていった?
嫌な想像ばかりが頭の中を巡る。
ご飯とお味噌汁、サラダと黒焦げになってしまったパプリカと牛肉の炒め物をテーブルに並べて、私は頭を抱える。
……それとも、始めから全て嘘だったのだろうか。
ペットになるなんて、始めから……。
私がバカみたいに真に受けていただけ?
そう、
考えてみれば私は何も知らないのだ。
彼のことを。
ジンと一緒にいたのは、たったの1日なのに。
こんなに、寂しいなんて………。
こんな事になるなら、最初から一人ぼっちの方がよかったよ。
こんな事になるなら……朝、もっとちゃんとホメてあげるんだった。
もう、私を包むゴミもない。
広すぎる部屋は、残酷なだけだった。
私は、もう一度、時計を見つめる。
……それとも、迷子にでもなってる?
それは、期待というか、希望だったけど。
そんな見えない可能性くらいしか、縋るものがなくて。
私は、後先も考えず部屋を飛び出した。
飼い主に忠実な、利口なペットなんでしょう?
だったら……だったら!勝手にいなくなったりしないでよ!
マンションのエントランスから外へ出て、私は周囲を見回す。
夜空には幾千もの星が輝き、咲き誇った桜の花が春の風に揺れていた。
あてもなく、私は走る。
灰色の地面の上に、点々と白い花びら。
「ジンー!ジンーっ!!」
格好悪くて、情けない。
プライドも恥ずかしさも捨てて、私はジンの名前を叫ぶ。
交差点を駆け抜けて、ジンと出会ったカフェの軒先も、近所のコンビニも。
さらに、その先の公園まで…………。
そして、満開の花をつけた桜の木が立ち並ぶ公園へ足を踏み入れて、
そこにジンの姿を見つけた私は声を上げた。
「ジンっ!!」
私の大きな声に、ジンは驚いたようで……それでも、ぱぁっと笑顔で駆け寄ってくる。
「ツバサちゃん!おかえりっ!」
「……ッおかえりって…。」
「ゴメンね、ツバサちゃん。実は…コレ、食べちゃったから買いに行ってたんだけど、俺…方向音痴でさ。
帰れなくなっちゃって……。」
ジンが私に渡した物は、コンビニの袋。
中には、昨日買って冷蔵庫に入れてあったはずの牛乳プリン。
「ゴメンね。ツバサちゃん、怒ってる?」
俯いたまま何も言わない私に、ジンは慌てた様子で口を開いた。
「つい食っちゃって…本当にゴメンねっ!!」
「…バカ、じゃないの?」
「え?」
私は唇を噛みしめた。
ボロボロと零れ落ちる涙の止め方を、私は知らない。
「っ勝手にいなくならないでよ!!どれだけ心配したと思ってるの!?」
「…ツバサちゃん。」
「私、バカみたいじゃん!色々考えて、色々ッ……。」
それ以上、言葉にできなくて私はまた俯く。
よく分からないけど、悔しくて、ホッとして………。
「ツバサちゃん。」
「…なに?」
「裸足で飛び出してくるほど、心配だった?」
「はっ?」
自分の足元に視線を落とせば、私は裸足。
無我夢中で、自分が靴も履かずに出てきたなんて………。
それさえも、気づかなかったなんて。
今さら途方もない恥ずかしさが込み上げてくる。
耳が熱い……。
そんな私の様子を見下ろすジンは、ニヤリと不敵な笑み。
それが、また、悔しくて。
「ツバサちゃん、おウチに帰ろっか?」
ジンはそう言うと、いとも簡単に私を持ち上げてしまった。
「なにっ!?降ろしてっ!!」
「ヤダ。裸足なんだからケガするでしょ?」
それはお姫サマ抱っこというよりは、抱っこで。
「掴まってないと落ちるよ?」
というジンの言葉で、私は慌ててジンの首に腕を絡める。
「うん、イイ子。」
くしゃっと笑うジン………これじゃ、どっちが飼い主か分からない。