また扉が開き、バタバタとスーツを着た男が駆け込んでくる。
「総理!そろそろ…!」
「…あぁ、分かった。」
本宮貴一郎は、椅子から立ち上がると私の手を放した。
その後ろ姿に視線を向ける。
初めて見る父親の背中は、広いとも大きいとも思わない。
私が成長しすぎたせいかもしれない。
ずっと、ずっと、憎んでいた。
私は、あの人を。
なのに、
あの人の顔を見て、
たった一言の自分にかけられた言葉を聞いて、心に風が吹いた気がした。
私は、ママと同じだったのかもしれない。
あの人を、ずっと待っていたのかもしれない。
憎しみながら、ずっと。
立ち去ろうとする、
その背中に言った。
「あの……まぁ、ありがとう…。」
何に対しての「ありがとう」なのか、自分でも分からない。
自然と口をついて出た言葉だった。
本宮貴一郎は振り返ることはなかったが、
立ち止まって言った。
「…大した事がなくて良かった。」
それだけ言うと、慌ただしく病室を出ていった。
そんな様子を見つめていた観月さんは、嗚咽を繰り返している。
私は、思わず笑ってしまう。
初めての父親との対面は、お互い言葉少ない。
私とあの人が歩み寄るには、きっとまだまだ時間が必要だ。
“お父さん”と呼べるのなんて、ずっとずっと先の話。
それでも、私の中に降り積もっていた雪が溶けていく。
やっと、一歩踏み出せたのかもしれない。
本当に大切なものは、失ってみないと分からない。
失う前に手を伸ばすこと。
失ったものに、
もう一度手を伸ばすこと。
迷子になっていたのは、
私のほうだったのかもしれない…………。
・『心配性なキミ』・
携帯電話を握りしめて、
深呼吸をする。
病院から観月さんに送ってもらって、私が最初にすることは荒れ果てた部屋の掃除ではなくて。
電話をかけることだった。
『…もしもし?』
電話越しに、妙にいい声が耳に響く。
『あ、あの…川野 翼です。』
緊張のせいか、私の喉はカラカラに渇いていた。
やっとの思いで出した声も擦れてしまう。
電話の向こうで沢崎八重が微笑したのが分かった。
『俺に会いたくなっちゃった?』
『違います。』
『……けっこうハッキリ言うねぇ。』
沢崎八重は、また微笑したと思う。
『あの…私も思うんです。』
『え?』
『……沢崎さんの言うとおりなんです。
私とジンは、確かに住む世界が違いすぎます。』
『…………。』
『…だから、ジンを待ったりなんてしません。
ただ…ただ、他のペットも飼いません!』
『……え??』
『部屋も、ベランダも、しっかり掃除します。
自分の為に美味しいご飯を作ります。
牛乳プリンは食べ過ぎないし、朝もちゃんと起きて学校に行きます。
知らない男も、知ってる男も、さらっと家に入れません。
時々は周りの人たちに甘えてみます。
これから、もっとちゃんと、あの人と向き合ってみます。
……でも、私はジンを忘れません。
離れても、私はジンを思ってます。
そう、ジンに伝えてください!』
『……えーっと…、告白?』
『いえ、どちらかというと…宣言です。
「行ってきます」って言って、勝手にいなくなったジンだから。もしも戻ってくることがあるのなら、私は「おかえり」って言いたいんです。
でも、ジンがいても、いなくても、ちゃんと胸を張って生きていきたいから。』
『…………。』
『沢崎さんに、こんな事言ってすみません。
私、ジンに癒されていたんです。
だから、もしもまた苦しくなったり辛くなって、気ままなジンが辿り着いたなら、ジンにとってもここはそういう場所であってほしい。
……私は、ジンの飼い主ですから。』
『……逆じゃないかな?』
『えっ?』
『癒されてたのは君じゃなくて、仁のほうだったのかもよ。』
『…………。』
『これから俺らは、
シングルにアルバム、47都道府県ツアー、個々に映画、ドラマ、舞台って既に決まってる仕事だけでもハンパないんだ。
でも、メンバーの関係は少しずつ良くなってきてる。』
『えっ?』
『…以前の仁は余裕がなさすぎたのかもな。
俺からも一つ、頼みがあるんだ。』
『…何、ですか?』
沢崎さんは微笑する。
『もしも仁が君のところに戻ってきたらさ、カレーライス、作ってやってよ。』
私は電話を切ると、再び深呼吸をした。
……さぁて、部屋の掃除をしなくちゃ!
よいしょっと立ち上がって、私は前を向いた。
片付けは苦手だけど、仕方がない。
ベランダに散らかったゴミを分別して、洗濯をして。
お日さまの下でちゃんと干そう。
太陽の匂いがいっぱい染み込むように。
ベッドのシーツも洗濯しようとして、
枕の下から小さな紙切れを見つけた。
“眠れない夜は、愛犬の数を数えよう!
ジンが1匹、ジンが2匹………”
……なんだ、これ?
書いてある文字の下にはヘタクソな絵。
犬、の絵か?
私は笑った。
いつのまに、ジンはこんなイタズラをしたんだろう。
けれど、紙切れはそれだけじゃなかった。
全身鏡に貼りつけられた、
“ツバサちゃん、今日も可愛い!ナンパ注意!!”
ハブラシが入ったコップの下に、
“虫歯にならないように、丁寧にね!”
クローゼットに、
“ちゃんとハンガーにかけること!”
掃除をしながら、
いくつも、いくつも、それは出てきた。
小さな紙に書かれたメッセージ、ヘタクソな絵―……。