― 「じゃあ、私のペットになる?」
― 「へっ?」
― 「ペットとしてなら置いてあげてもいいけど。」
― 「ペットってカレシの事?」
― 「ペットだってば。
野良犬から飼い犬にでもなる?ご主人サマに忠実なペットになるなら、置いてあげる。」
― 「ペットかぁ。悪くないね。」
― 今日からよろしくね。
ご主人サマ。 ―……
瞳に映る世界が濁っている。
マンションのエントランスの明かりは二重、三重にぼやけていた。
それが雨のせいなのか、涙のせいなのか、よく分からない。
酷い眩暈を覚える。
ただ、ジンと過ごした日々が、その瞬間、瞬間が写真のスライドショーみたいに流れていた。
その内、身体に力が入らなくなって、
私の視界は大きく揺れた。
痛みと衝撃のあとで、瞼を開ける。
転んだのだろうか。
それとも、倒れたのだろうか。
……もう、どちらでもよかった。
冷たい雨が私の頬を打つ。
世界が滲んでいく。
私の身体を突き刺すように降り続く雨。
その雨音は、どんどん遠くなっていく。
「 人 に 優 し く 、
自 分 に 正 直 に 。 」
ママの声が聞こえた気がした。
それが、最後。
私は意識を手放して、
暗い闇の淵へと落ちていった――………。
・『あの人の背中』・
夢を見た。
酷く懐かしい朝の風景。
「翼!忘れ物ない?大丈夫?」
「大丈夫だってばぁ。」
「ほらっ!お弁当!」
「やだ。いらない。」
「えぇ?」
「パン買うから、いいの。」
ちょっとした反抗期だったんだ。
「パンって……せっかく作ったのに。」
この頃の私は、
「別に頼んでないし。」
小さなことにイライラしていた。
「そうね。翼、はい、“行ってきます”は?」
いつもしていた挨拶。
私が「行ってきます」と言って、
ママは私の髪にキスをする。
いつもしていた当たり前の決まり事だったのに。
あの日に限って私は―……。
「ウザっ。」
―――それが、最後だった。
退屈な授業を受けている教室に、青ざめた顔の教師が飛び込んでくる。
悪夢のような知らせは、私の心を粉々にするには十分だった。
後悔ばかりだ、私の人生なんて。
本当に大切なものは、失ってみないと分からない。
いつもの朝。
私はお弁当を持っていかなかった。
本当はパンなんて食べたくなかった。
“行ってきます”のキスを拒絶した。
ママをウザいと思ったことは、本当は一度もない。
病院で触れたママの亡骸は、まだ温かかった。
でも、もう二度といつもの朝はやって来ない。
話すことも、叱られることも、ママの笑顔を見ることも、二度と出来ない。
人の死を、初めて知った。
私に残ったのは、死にたくなる程の後悔だった。
重い瞼を開ける。
白い天井が広がっていた。
膜に包まれたように、私の意識ははっきりしない。
脳裏に散らかる、さっきまで見ていた夢の欠片。
そして、私は自分が泣いていたことを知る。
ただ、しばらく白い天井を見上げていたが、
次第に意識がはっきりとしてきた。
歩美とコンサートに行って……マンションまでは覚えてる。
そこから先の記憶がない。
私は倒れたのだろうか。
だとすると、ここは病院………。
そういえば、病院特有の湿ったような薬品の匂いがする。
重い体を無理やり起こそうとして、私は初めて気づいた。
私の手を握る、皺が刻まれた大きな手。
ベッドに突っ伏して眠るスーツ姿の男。
……驚いた。どうして、この人がここにいるの?
その時、カラカラと扉の開く音がして、入ってきた観月さんと目が合った。
「翼様!ご気分は?大丈夫ですか!?」
「あっ、うん……。」
「倒れていたところをマンションの住人の方が見つけてくださって、救急車で運ばれたんですよっ!」
「…………。」
「栄養失調だそうで……ろくな物を召し上がってなかったんでしょう!?」
……そういや最近、食欲もなくて……コンビニ弁当とかファーストフードとか………。
「あぁ〜、でも大事に至らなくて良かったです。
どれほど心配したことか…。」
観月さんはポロポロと涙を零す。
それを自らのハンカチで拭った。