色、色々[短編集]



高谷と出会ったのはいつだっただろうか。まだ暖かかった頃。

大学での喫煙場所が一気に減り、数カ所しかない喫煙場所には常に知らない人たちが団子のように固まっていた。

イスもないし人だかりだし、せっかく休憩込みの煙草の時間くらいゆっくり吸いたい。そう思って一人煙草を吸う場所を探し求めて見つけた場所がここ、人気の少ない校舎の屋上。三階の建物だけれど、屋上に上る術は外の非常階段だけ。

毎日適当な時間に屋上に行き、一人で数時間を潰した。

友達にも教えていない私の特等席だった。そこに――……来たのが高谷だった。当時は名前も知らなかったけれど。


「あれ?もう先客がいたのか……」


背後からの声に振り返り、「別にいいよ」となぜだか答えた。この男なら――……別に良いかと思えたんだから理由なんてものは特にない。

一人だったから、というのもあるかもしれないけれど。


「さんきゅう」


そう優しく笑って、煙草を咥えた高谷に何も言わずにライターの火をつけてあげた。


ただそれだけ。
特に話をすることもなく、だけど私たちは一緒にいた。特に気にならない存在で、挨拶程度の関係で。

相手が高谷ではなければ私はもう行かなかっただろう。穏やかな時間は嫌いじゃないし、その時間に高谷が増えようともそれは変わることはなかったし。

時々話はするけれど、面倒だなんて思った事は一度もない。
それだけだったはず。煙草を吸うためだけの場所なのに。いつからだろうか。

性欲も満たす場所になってしまったのは。


「火、貸してくれない?」


いつも通りに煙草吸っていると、高谷がライターを数回カチカチ鳴らした後に私に声を掛けてきた。

「あー……ごめん……私も今ないんだ……」


今日はたまたまマッチを使用してて、今吸っている煙草のために付けたものが最後の一本だった。


「これでいい」


何かあっただろうかと咥え煙草で鞄を探る私の顔を綺麗な手ですっぽりと包み、煙草を咥えた高谷の顔がゆっくりと近づく。

――まるで、キスされるのかと思う程に。


「ども」


自分の煙草に、私の煙草から移った火を確認すると高谷はにこりと微笑んで何事もないように煙草を吸い続ける。

一人、高鳴る胸をぎゅっと抑え込む。
何を一人動揺しているのか。

こんな些細な事で――……何でこんなにも心拍数は乱れるのか。

「美弥?」

「――なに……」


呼びかけられる声にも顔を向けずに返事をする。顔を向けてしまえば、きっと赤いだろう顔が露わになるだろう。

だけどそれを何も言わずに、阻止するように、高谷はまた私の顔を包み、私の顔を見て優しく笑い私から煙草を取り上げた。

その煙草を高谷は軽く吸って、そし私たちを包むように白い煙を吐きだして――……。


キスをした。
煙草のキス。


そこからはまるで転がる石のように。そのまま思考回路を奪われて、そのまま空を仰いだ。視界は青く染まった。


「美弥」


呼ばれる名前が麻薬のように私の思考を奪い続ける。

麻薬はまるで体に蓄積されてでもいるのか、それからも屋上にと私は足を運んだ。

やめなければいけなかったはずだ。好きではないはずならば。

高谷の何を知っているわけでもないのに、逆に高谷だって私のことなんか知らないというのに。

ベッドで、愛の言葉を囁きながら抱き合って眠りたいと思えるほど好きなのかと自分に問うてみても答えは出ないままで。

なおさらやめるべきだ。
快楽なんかに溺れてどうなるのか。
あの場所に行かなければ会う事なんてあるはずがないのに。その程度の関係なのに。


「火、貸して」

その言葉に、今日も変わらず屋上で私たちは言葉を交わす。

そもそも高谷も何でこんなにこの場所に来ているのだろう。もしかしたらやれるから――……そんな理由なのかも知れない。

せめて、やる前にでも、やり終わってからでもいいから……私に優しくでもしてくれたらこの関係の先に何かを見つけ出せるかも知れないのに。

やめたいと思いながらもやめられない煙草。
その理由はきっと――……この関係のせい。


あなたは、煙草。


キスも苦いし手だって綺麗だけど煙草臭い。少し優しい微笑みに、声に、手。だけどそれだけで、結果的には全て苦しいだけ。

いいことなんて何もない。害にしかならない煙草のように、害にしかならない関係。
美味しくないのにやめられないのはきっともう、中毒。

名前を呼ばれている間だけ、私を抱いて行きを乱す間だけは――……錯覚のように、現実逃避でも、私のことを想っているのかも知れないと、そう思えたのに。

気付いてしまったからもう――やめなくちゃいけないんだと体が告げる。



「煙草もうやめるから、ここにこない」


行為が終わった後に、私はそう告げた。出来るだけ高谷の方は見ないように。


「なんで?」


何が“何で”なんだろうか。
煙草をやめることに関して?それとも――……ここに来ないことに関して?
どっちにしても、聞かれたって何も答えられないし、何を聞きたいのか。

だけどそんな焦った様子もない高谷を見ていると、我慢している気持ちがあふれ出す。
涙が――ぽろぽろと。


「美弥?」


泣きたくなかった。泣きたくなかった。
別に悲しい訳じゃない。むなしいだけ。

会えないことも抱き合えないことも悲しい訳じゃない。

ただ高谷にとって私は本当に――……意味のない、煙草のように害もない無意味な存在だったのかと想うと、むなしい。


「美弥?」


呼ばないで、私の名前を呼ばないで。
優しいあんたの声でもう、傷付きたくない。


「美弥もしかして――……俺のこと好きなんじゃないの?」


ゆっくりと立ち上がったのか、いつの間にか目の前にいる高谷が私を見て告げた。
馬鹿じゃないの。


「――今更、気付いたの?」


ホントはずっと欲してた。
やめたいけど、やめたくなかったからやめなかっただけ。

煙草も関係も。だけど認めてしまったら抜け出せなくなるでしょう。依存してしまうでしょう?

私の言葉に、高谷は吹き出したように笑って、そしてまた私の顔を包み込んだ。



そして落ちてくる煙草味のキス。
いつもよりも――すこし苦くない。そう感じるのは何でかな。
高谷の顔が――嬉しそうだから?

癖になる。美味しくないのにやめられない。やめられないのは私だったの?それともあんた?

ただ分かるのは、二人してやめられないのは煙草。


「俺だって下心なしに毎日ここで美弥を待つと思う?」


苦い煙草が癖になる。高谷のキスと一緒。癖になるのは高谷と高谷のキス。

これからは、終わってすぐに煙草は吸わないでね?名前を呼んで抱きしめて。


でも――……たまになら許してあげる。

甘い煙草。
これからの私とあなたの甘い甘い煙草味の癖になるキス。



End

頭上に広がる空はいつも
毎日変わらずそこにある

まるで、それに支配されている

そんな気になる


だから、空は嫌い



20091105
[空に浸かる]


学校の屋上から、空を見上げるのが私の日課だった。

何をするわけでもない、ただ空を見上げる時間。


夏休み、学校がない日も私は毎日変わらず屋上に来て、勉強するつもりでもってきた教科書を開きながらもただ空を眺めていた。
家にいてもいいんだけど……狭苦しく感じて、ついつい制服を着て学校に来てしまう。

そんなに楽しい場所でもないのに。


「くあっ」


大きなあくびをして、涙でぼやけた視界の中には、水色だけが映る。潤んだ瞳に映されたそれは、まるで水みたいだ。

じりじりと肌が焦げ付くように感じるものの、そのまま、大の字になって空を仰ぐ。
目をつむると夏休みの間もクラブ活動に精を出す生徒たちの声が聞こえてくる。


ブブ……と鞄の中の携帯電話が振動を起こすのを感じて、寝転んだまま手だけを頭上に伸ばして鞄を引っ張った。中にある携帯電話を急ぐこともなく探る。

どうせ迷惑メールか親からの連絡かどっちかだ。

振動が収まった頃に手に携帯電話があたって取り出すと、画面には案の定母親からのメール。


『帰りに牛乳買ってきて』


そのメールを確認して、『うん』とだけの短いメールを返した。


「めんどくさ」


そんな私のつぶやきは、メールの相手には聞こえない。
何て便利なのだろう。
みんなが依存症になるのも致し方ないのかも知れない。……とはいえ、私の使用頻度は一日に数分にも満たないものだと思う。

この携帯電話はもう二年以上も変えていない、今では少し型の古いもので、たいした機能もそんなにない。
メールと、電話。それだけに近い。

でも私にはそれで十分。

携帯電話の中の電話帳には5件ほどしか登録されてないし、それも殆どが家族だ。
メールだってこんな親からの用事でしか使わない。


クラスの女の子たちのようではなく、すっからかんな携帯電話。
持たない方が気が楽なんじゃないかと思うほどに。


「あー宿題やらなくちゃー……」


もうあと二週間足らずで夏休みも終わる。なのに宿題は半分もできていない。
学校が始まったらみんなに……貸さなきゃいけないのにな……。

そう思っているのに頭も手もなかなか動かない。

別に約束したわけじゃない。だけど貸すことになるのはわかりきっている。いつものことだから。

夏休みも、毎日の宿題も、掃除も、日直も。

『私』という存在を貸さなきゃならないんだ。

顔の隣にあるノートにちらりと目をやるものの、体を動かすことができないまま、ただ大きなため息をついた。


「……っあ……」


大きな風が隣を通り抜けた、というほどの風にノートがバサバサっとページをめくり上げて、そばにあったプリントが宙に舞う。


「……あー……あー……」


あきらめに近い声が出る。

一瞬舞い上がった髪の毛を整えながら体を起こすと、飛んだプリントがひらひらと落ちて行くのが見えた。

さすがにもう手が届かない。
宿題のプリント。


友達も居ない私には、コピーを頼めるような相手も居ない。

呆然とゆらゆら落ちて行くプリントを眺めながら小さな溜息が漏れて、そのままプリントは屋上よりも下に落ちて、視界から消えた。



ただ眺めているだけの私と、ただそこにある空だけが残された。




「あんたはいつもそこにあるだけね」


空をあおいで皮肉まじりにそう声をかけた。
もちろん返事があるはずもなく、聞こえるのは運動場の生徒の声だけ。


「あーあ」


一度あげた体を再び倒して、同じように大の字になった。
どうしようかな……。取りに行くのも面倒だし、もうどうでもよくなってきた。

新学期にクラスメイトが落胆の声を上げるのも想像出来る。ため息と同時に、役立たず、とでも言いたげな視線を向けてくるだろう。

もう二週間足らずで学校が始まる、その憂鬱さには似合わない青空が広がって、私の視界にはそれ以外何もない。

別にいじめられているわけじゃない。
だけど仲がいいだなんてことはあり得ない。

利用されていることはわかっているけれど、利用されることでしか人とつながれない。

真っ青な空の中を、一羽の鳥が泳ぐように通り過ぎる。


「憎たらしい」


学校もなにもない世界の中で好きなように飛び回れる、空に近い存在。
空にとけ込めるのが憎らしい。

むくっと体をもう一度起こして、ぐるりと周りを見渡した。

腰を上げて、一歩ずつ柵に近づく私を今、見ているのは空だけだ。

空にとけ込めたらもう、こんな憂鬱な気持ちはなくなるのに、高く高く飛んで空に混ざってしまいたい。

ここから飛び立てばー……。

けれど、柵に手を当てて、そこから見える景色は……。


「ふ」


苦笑が出るほど『地面』だ。

こんなところから飛び立ったって、これ以上は上に行けるはずがなく、見えるのは視界に映るのはただ離れたい場所だけだ。


「ふふ」


なんでそんなことに私は笑って、そして泣いているんだろう。

そう思うのに涙があふれるー……。

空はいつも上にあって私を眺めていて、こんな私を今も笑っているんだろう。
何もしてくれない、ただあるだけ。
空になったらこんなむなしい気持ちはなくなるのだろうか。

鳥になったって広がるのは空じゃない。

そう見えるのは私が鳥よりも下に居て、空だけを見上げているからだ。


高く高く
鳥よりも、飛行機よりも高く飛べたら

空にとけ込めるだろうかー……。

空を手に入れることができる存在だったなら、こんな気持ちにはならないんじゃないだろうか。


こつっと柵に頭を当てて、涙が乾くとすぐ鞄を持って屋上から出た。
これ以上むなしくならないために。


欲しているのに、いつもむなしくなる空から離れるために。
固いアスファルトは、ここがどこだか、いやというほど思い知らせるから。

毎日その繰り返しだ。

「本木?」


校門を出て地に足をつけて歩いていると、珍しく私を呼ぶ声にばっと顔を上げた。

私の隣のフェンスの向こう側から男の子がこちらを覗き込むように見てる。フェンスの向こう側から微かに塩素のにおいがする。


「何やってんの?夏休みに」

「別に」


声をかけてきたクラスメイトの深山。とはいえ話したのは多分今日が始めてだ。

そんな深山が私の名前を知っていたことに少し驚きつつ、余りにも明るい場所にいるカレを直視できずそう素っ気なく答えた。


「しけた顔してんなーお前は」


いつも友達に囲まれた深山に私の気持ちなんかわからない。

口にしかけて、言ったところで僻みだ—……そう思って口を閉じた。


「あ、そうだ。これ、お前のじゃねえ?」


無視して帰ろうかと思い顔を背けた瞬間に、深山がひらひらと私に一枚の紙を見せてくる。


「……それ……」


さっき、屋上で落ちて行ったプリントだ。
名前だけ律儀に記入してしまったのは失敗だったのかも知れない。

ひらひらとプリントを揺らして、深山はにかっと笑った。


「とりあえずこっち来いよ、今日水泳部休みだから俺一人で自主練してんだ。こんな機会めったにねえぞ?」



—―いいから返して。
そういえばよかったのに……。


ほんとだったら行かない。行くわけがない。今までろくに話したことがない深山と話すこともないし……そんなの面倒。
そんなことしたって私の日々は変わらないし、寧ろ惨めになるかも知れない。

だけど


「きもちいいぞ」


その声が本当に気持ちよさそうで。

この暑い中彼だけがキラキラ輝いているように見えて思わず、きっと熱さで意識が朦朧としていたんだろう、「うん」そう答えた。

生暖かい水の臭いが充満するプールサイド。

ベンチに座って泳ぐ深山を眺めた。
何て気持ちよさそうに泳ぐんだろう。
地上でもこんなに自由に泳げるのか。
そう思うほどにキレイで、楽しそうで、羨ましく思う。


「本木も泳げば?」


その声は無視して、ゆらゆら揺れるプールの水面を眺めた。
水面が太陽の光でキラキラに光り輝き、まぶしいのにそのまま眺めた。

深山がそのまま仰向けに浮かんで揺れる。


ゆらゆら
ゆらゆら


きっと深山には悩みなんてないんだろう。
羨ましい。そして憎たらしい。

私だけがこの場所に不釣り合いな気さえする。
息苦しい。息苦しい。狭い苦しい。羽ばたきたい。

だけど、どうしたいいのか分からない。


「あー空の中を泳いでるみたいだ。お前も泳げたらいいのになー」


そのつぶやきが私を捉えて、まるで催眠術にかかったように私を立ち上がらせた。


「本木?」


その声と同時に、水面に映る空の中に——飛び込んだ。


「本木!?」

「げほっげっほっ!」

「およげねーのかよ!制服のまま何やってるんだよ」


焦った深山が私の傍まで泳いできて私を抱える。
ゆらゆら映った空が揺れて、その中に私がいる。


「ふっ」

「……何笑ってるんだよ」


空の中にいる私。
空の中、限られた空間だけだけど自由に泳げるこの空の中。

地面から浮いた水の中。

見上げると空が見える。


「だからあんたは自由だったんだね」

「は?」


水を両手ですくうと小さな空が手のひらに入った。


欲しかった空。空になりたかった、変わらず、誰にも届くことのないものを手に入れたかった。

とぷん、と水の中に頭まで潜って水色の世界のなかを、ゆらゆら自由に、身を任せて泳ぐ。


空の中を、空にとけ込むように、水色の中を。