「何が」

「あの、金髪の元気な子」

「はっ? おれが?」

「うん。好きなんでしょ?」

やわらかく微笑みながら花菜は言い、おれはグローブから練習球を足元にぼっとりと落とした。

練習球はコロコロ転がり、おれのスパイクの爪先にぶつかって、停まった。

固まり続けるおれの無防備な背中を、花菜がバシバシと手のひらで叩いた。

けっこう、強い力だ。

でも、そんな小さな紅葉のような手で叩かれても、へとも思わなかったけど。

夕陽が射し込む校舎の日陰を、とんでもない女がてくてくと歩いている。

彼女が日陰を出た瞬間にあの金髪に西日が反射して、それを見たおれは自分の体の異変に気付いた。

鼓動が激しくなって、息苦しくなった。

花菜のお告げ、のせいなんだろうか。

「だってさ、球技大会の時の響也、男っぽい顔してたよ」

マネージャーの目は確かなり、と花菜は言い、どこで知ったのか両手を大きく振り、その名前を叫んだ。

校舎を後にしようとしている、彼女の名前を。

「おーい! 翠ちゃーん! バイバーイ!」

「えっ! お前、何であいつの名前知ってんの? 仲良しだっけ?」

「健吾に聞いた! おーい! 翠ちゃーん」

すると、翠は立ち止まり辺りをキョロキョロ見渡し、グラウンドのおれ達に気付いたようだった。

小さな豆粒のシルエットになって見える翠は、ギャアギャア何かを叫んで手を振り返してきた。

遠いためか鮮明には届いて来ないが、なんとなく予想がついた。

補欠エース、さぼってんじゃないよ。

きっと、そう言ってるに違いない。

あの男勝りな口調で、明るく元気すぎる声で。

「馬鹿じゃねえの。早く帰れってえの」

おれは言い、高鳴る鼓動をひた隠しながら、爪先に転がった練習球を拾い上げた。

「素直じゃないんだね」

花菜はひやかすように言い、おれの脇腹を肘で突いて笑った。

「好きじゃねえよ。あんなへんな女……たぶん」

とおれはぶっきらぼうに言い返し、でも、またフェンス越しに翠の姿を探した。

校舎が茜色に染まっている。

どこの教室だろうか。


3階の奥から5番目の教室の窓から、朱色に染まったカーテンがひらひらとはためいているのが見えた。

下校して行く生徒が1人去り、2人去り、校舎は次第に静けさを取り戻し始めている。

今日も1日が終わる。

夕焼け空に浮かぶ雲は鰯雲で、手芸に使用するような綿にさえ見えた。

授業はもう無いのに、17時10分になると何故か意味も無く鳴り響くチャイム。

夕焼け空に吸い込まれる、深紅の縫い目の白球。

古びた金属バットの甲高い音。

白球を追い掛け続ける、部員達の気合いの入った掛け声。

校門の先に小さく見える、桜並木の切れっ端。

昨日のこの時間に、このブルペンの横の草の中に眠っていた、へんな女。

いつだって無理難題を押し付けて来て、理解不能なことばかりを口にして。

毎日、馬鹿みたいに元気丸出しで、悩み事なんてひとつも無さそうで。

今日だって、そうだ。

人の打席を横取りして、あげくに奇跡の一打を放ったりなんかして。

無職の高校生に30万円以上のカルティエを買えだなんて、けろっとした顔で言ってのけたり。

初めての会話でいきなり、甲子園に連れてけ、なんて言うし。

花菜が立ち去った後のブルペンで、おれは人気の無くなった校舎を何度も何度も振り返った。

あのへんな女のことだから、もしかしたら戻ってきて、また無理難題を押し付けて来るんじゃないか、と思ったからだ。

「響也! さっきから何よそ見してんだよ! ほら、次来い」

健吾は言い、青いキャッチャーミットをぱっくり開いて、おれに内角低めの直球を要求してきた。

おれは即座に首を振り、否定した。

「いや、スライダーだ」

相澤先輩が投じる、あの一球に一刻も早く近付きたい。

ぶあははは、と豪快に健吾が笑った。

「響也ってスライダー好きだよな! よーし、来い」

相澤先輩に影響されすぎだな、と健吾は言った。

おれは大きく振りかぶった。

健吾が構える青いミットのど真ん中を、射抜くように鋭く睨み付けて。

翠が、

と心臓と喉の中間地点で言ってから、

「ああ、好きだ」

と口にした。

翠が、好きだ。


おれが降り下ろした左手から離れた薄汚れた練習球は、左へ流れたと見せ掛けて、ベースの右端ギリギリを水平に滑り、健吾のミットに飛び込んだ。

「ストライク!」

健吾が叫んだ。

いつからだろうか。

何で、今の今まで気付かなかったのだろうか。

いつの間に、おれの心に翠が住み着いていたんだろう。

茜色に染まっていたグラウンドが薄暗くなり始め、部室の上にひと粒の星が輝いている。

一番星だ。

一番星の横には今にもすうっと消えてしまいそうな、太った三日月がおぼろげに浮かんでいた。

来週は春の甲子園選抜をかけて、県予選が控えてある。

ときおり突風の如く吹く西日が、少し冷たさを含んでいる事に気付かないふりをして、おれはボールを投げ続けた。








春色の甲子園球場を見てみたかった。

春の甲子園球場の土を、この履き馴れたスパイクで踏み締めてみたかった。

苦いエスプレッソコーヒーに濃厚なミルクを一滴ぽとりと落として、マドラーでひと掻きしたような空だった。

青い空に白い雲が絡み溶けたようなマーブル色の上空を駆け抜けた一球は、儚さばかりを残した。

初戦、初回。

マウンドに立った本間先輩は、県立北高校の5番打者からスリーランホームランを浴び、春の甲子園への道のりは閉ざされる事になった。





南高校、初戦敗退





負けた翌日の地元スポーツ新聞の一面を、でかでかと飾った青い文字。

本間先輩は、夏にかける、と涙を呑んだ。








10月になり、残暑の面影もどこへやら。

ワイシャツから学ランへ衣替えとなり、校内は学校祭へ向けて慌ただしくなった。

おれは翠への気持ちにはっきり気付き、でも、何の代わり映えのないいつもの学校生活を、日々淡々と送っていた。

いわゆる、片想いというやつだ。

今日は年に一度の学校祭で、校内のあちらこちらで他校の生徒の姿もちらほらと見受けられた。

おれ達のクラスの出し物は屋台で、校庭でお好み焼き屋だ。

たこやき、と手書きで書かれた赤い旗が取り付けられた手作りの屋台。

ベニヤ板で作られた薄っぺらい屋根の軒下に、赤いちょうちんを2つぶら下げて。

大きな鉄板からは熱い湯気が立ち上ぼり、キャベツに小麦粉豚肉などの材料と、お好み焼きソースの混ざり合ったこうばしい香りが漂った。

「ちょっと、補欠! キャベツ切りな」

屋台の裏方でキャベツをザクザク刻んでいた翠が、売り子をしていたおれに鋭く尖った包丁を突き出した。

「うわっ! 危ねっ」

釣り銭の入った小箱にお客さんから貰ったばかりの300円を投げ入れ、おれはテーブルにぶつかりながら仰け反った。

「殺す気かよ!」

「ああ? キャベツ切らないって言うなら殺す」

と翠は言い、キャベツの千切りが張り付いた刃先をおれに向けたまま、けたけた笑った。

豪快な女だ。



そんな翠の後ろでステンレス製のボウルの中の小麦粉を、シャカシャカと手際よくかき混ぜながら笑ったのは、健吾だ。

青い、エプロンをしている。

日に焼けた小麦色の頬に、溶かれた小麦粉が飛び跳ねたのか、白くペイントされている。

「響也、まじで代われば? これじゃ商品になんねえよ」

健吾は言い、今しがた翠が刻んでいたと思われる、それ、を指先で摘まんでぷらぷらさせている。

「これ、千切りじゃねえよ……乱切りだ」

健吾の指先でぷらぷら揺れるキャベツは、横幅2センチにも及ぶ太いものだった。

野菜炒めにピッタリのサイズである。

おれは呆れ顔で言った。

「翠……お前、料理した事ある? 包丁かしてみな」

「くれてやるわい」

翠から包丁を受け取り、まな板に目を落とした。

可笑しくてたまらなくて、おれは笑った。

「何だよ、これ」

性格も笑い方も、野菜の切り方でさえ、翠は豪快だ。

「どうやったらこんな乱雑な切り方になるんだよ」

「うっさいな! 補欠のくせに。教えてやろうか?」

こうやるんだよ、と翠は言い、再びおれの手から無理やり包丁を奪った。

そして、斧でも降り下ろすかのように、包丁を一気に降り下ろした。

「翠スペシャルサンダー!」

ダアン、と凄まじい音を出して、翠はまな板に包丁を降り下ろした。

「ギャー!」

と雄叫びをあげたのは健吾だった。

丸々と太った一玉のキャベツは見事に真っ二つに切り裂かれ、破片が飛び散った。

その中身は樹齢何百年も経った木の年輪のように、ぐるぐると新鮮な渦を巻いていた。

薄い緑色でふにゃふにゃと波を打った、新鮮で瑞々しい年輪だ。

「まあ、こんなもんかね」

満足感たっぷりに笑う翠に、クラスメイト達はあんぐりして静止したままだ。

開いた口が塞がらない。

まさしくそれだった。

「まじでウケるからあ! 翠ってば最強だし」

その凍てついた空気を秋の空まで押し上げて、結衣は豪快に笑った。

そんな結衣の真横で、明里がお好み焼きを摘まみ食いしながら爆笑している。

包丁は木製のまな板にぐっさりと突き刺さったまま、微動だにしない。

いかに素晴らしい力で翠が包丁を降り下ろしたのかがはっきり分かる。

屋台が並ぶ校庭を楽しげに練り歩く生徒達も、しばしその足を止めておれ達を見ては笑った。

「響也、だめだ! 翠に刃物持たせたらだめだ」

とかなり真剣に大真面目な顔で言い、

「翠、お前は売り子やってろ。な」

とおれまで普通にあくせくとしてしまった。

水を打ったように静まり返っていたクラスメイト達が、一声に笑いだした。

今日も翠はフランス人形のような頭をして、下着が見えそうなほど短くスカートを履きこなしている。

「まあね。あたしに料理しろなんてこと事態が間違いなのさ! この美しい爪が泣いてるわ」

翠は不貞腐れて、用意されてあったパイプ椅子に腰を降ろした。

右手を空にかざしとても嬉しそうに微笑む翠は、本当にフランス人形のようだった。

激しく、どきどきした。

すらりと伸びた彼女の細い腕は初雪のように白く、青空に良く映えた。

パステルカラーの絵画のようだ。

「見て、補欠。この爪、可愛くない? 昨日の夜2時間も費やしたんだあ」

魔女のように長い翠の爪は白いエナメル質のような光沢を放ち、桃色の小花がちりばめられていた。

「へえ、翠ってこういうの得意なんだな。結構うまいじゃん」

とおれが誉めてやると、翠はとても可愛らしい笑顔を見せた。

この笑顔を独り占めにできたら、どんなにいいだろう。

小さな小さな宝石箱にでも詰め込んで、いつも胸ポケットに忍ばせて、誰にも見せたくない。

「あたし、ミラクル翠だから」

「へえ。そりゃ、素晴らしいっすね」

おれはクスクス笑って、照れ隠しにぶっきらぼうに言った。

いとおしい。

爪はこんなにも几帳面に飾り付けできるくせに、キャベツは乱切り。

おれはキャベツよりも、翠の横顔に釘付けになってばかりいた。

チャイムが鳴り響き、校舎と体育館の隙間を秋の風が通り抜けた。

「よう。夏井と岩渕はお好み焼き屋台か」

ミックスひとつ、と店先に現れたのは相澤先輩とその彼女だった。



相澤先輩と、彼女の藤堂若奈(とうどうわかな)さんは、中学からずっと付き合っているらしく、でも、初々しさがほどよく残されたお似合いの2人だ。

美男美女とはまさにこういう2人を言うのだろう。

激しく似合い過ぎていて、くらくら目眩がした。

背が高い相澤先輩の胸下までしかない小さな若奈さんは、同じ南高校生でストレートの長い黒髪をしている。

日本人形のような、可憐な人だ。

儚さもあり、でも、凜としていて。

「おー、相澤先輩! 若奈さんも! 相変わらず仲いいっすねえ」

頬に溶けた小麦粉をつけたまま健吾が近寄って行くと、若奈さんは口元を小さな手で押さえてクスクスと清楚に笑った。

「よっす、先輩! 若奈ちゃん」

と馴れ馴れしい態度で健吾を押し退けて飛び出したのは、翠だ。

あの球技大会以来、翠は相澤先輩と若奈さんのお気に入りに任命され、廊下で立ち話をするまでの仲になっている。

若奈さんはかなり翠を気に入っているらしく、ちょくちょく1年生のクラスに遊びに来る事もあった。

若奈さんは目を輝かせて翠に微笑んだ。

「翠ちゃん、今日も元気だね」

「まあね! かなり元気よ」

「よ、翠ちゃん。今日は夏井とやり合わないのか?」

と言いながら、相澤先輩は豪快に笑い、

「2人って、夫婦漫才みたいだよね」

と若奈さんが続けて笑った。

おれはわざと呆れた顔をして、今、ワンラウンド終わったとこですよ、と笑った。

「まあね。さっき、包丁で軽く脅してあげたとこさ」

フフン、と翠は横目でおれを見てほくそ笑み、相澤先輩と若奈さんは体をくねらせて爆笑した。

その直後、突然、若奈さんが話を持ち出した。

「あ! そうだ、そうだ、夏井くん」

「何すか?」

若奈さんの後ろからは初めて見掛ける女が、伏し目がちにひょっこりと現れた。

「この子ね、私と同じクラスの岩瀬涼子(いわせりょうこ)」

と若奈さんは言い、彼女の肩をぽんと叩いた。

涼子さんは恥ずかしそうに微笑みながら、お好み焼きの匂いが染み付いたおれに頭を下げた。

「初めまして、夏井くん」



肩までの長さで艶々の焦茶色の髪の毛を、さらさらと揺らして。

「あ、ども」

おれも背筋をしゃんと伸ばして、涼子さんに一礼した。

170センチ弱しかないおれの肩下までしかない涼子さんは、小人のように小さく見えた。

目は形のいい切れ長で、奥二重瞼のわりにまつ毛が長く、目鼻立ちがはっきりしていた。

しとやかで内気な、お嬢様のようだ。

「涼子ね、夏井くんが入学して来てからずっとなのよ」

そう言って、若奈さんは清楚に笑った。

「ずっと?」

おれが訊くと、

「そう。夏井くんのファンなのよ、ずっと」

若奈さんは言い、涼子さんに、ねっ、と微笑みかけた。

涼子さんは頬をほんのりと薄紅色に染めて、こくりと頷いた。

何だろう。

やけに後ろが騒がしくて、おれは振り返った。

結衣と明里がおれを睨みながら、ひそひそと耳打ちし合っていた。

2人だけじゃない。

他にもクラスの女子数名が、やけにそわそわしている。

「え! まじですかー? 響也のどこがいいんです?」

健吾が好奇心旺盛に訊いた。

おれもだ。

おれも、全く同じ事を訊きたい。

「まだ1年だし、試合とか出てないっすよ? しかも、背番号貰ってないし。よく響也にファンができたなあ」

へえー、と語尾を丹念に伸ばしに伸ばして、健吾は、物好きもいるもんだな、と言わんばかりにおれを見つめた。

おれの爪先から頭のてっぺんまで、惜しみ無くじろじろと。

「あら、岩渕くん知らないの?」

と若奈さんが笑った。

「え、何がです?」

「夏井くんてけっこう人気あるのよ。特に、3年の女子に」

おれは何だか申し訳ない気持ちになった。

別に極めて背が高いわけではないし、相澤先輩のように特別カッコいいわけでもない。

好きな女には「補欠エース」なんて呼ばれている様だ。

幼顔で、単なる野球馬鹿で。

この進学校を受験した理由も相澤先輩を追い掛けて来ただけで、成績だって中の下で。

そんなおれに、こんな美人のファンがいてくれたなんて。

地球を1周しても実感できそうにない。


驚いた顔をして、キャベツを刻んでいた包丁をだらりとぶら下げ唖然としているおれに、涼子さんが言った。

「モンチッチみたいで可愛い」

「えっ」

おれの唯一の自慢のポーカーフェイスが、ガラガラと音を立てて崩れて行くのが手に取るように分かった。

顔から高温の湯気がシューシュー出ているんじゃないかと、心配になった。

「モンチッチ! はいはい、確かに。響也は可愛いっすからね」

健吾はステンレス製のボウルをテーブルの上に乱暴に置き、両手をシンバルのように叩いて笑った。

その笑いの渦の中を掻い潜り、言ったのは若奈さんだった。

やけに真剣な面持ちをしていた。

「でね、夏井くんにお願いがあるの」

「はあ……何ですか」

「涼子と友達になって欲しいのよ」

ややあって、頭が真っ白状態のまま、おれは訊いた。

「おれ、ですか?」

「うん。これも何かの縁だと思ってさ。アドレス、交換してあげてくれないかな?」

そう言って、若奈さんは涼子さんから携帯電話を取り上げ、おれの胸元に突き出した。

白い薄型の携帯電話はストラップ1つ突いてなくて、シンプルで傷1つ発見できなかった。

きらきらしている。

パールホワイト色の携帯電話。

あの喧しい翠の携帯電話とは、日本とブラジルくらい違っていた。

翠も、涼子さんも。

同じ人間なのに、こんなにも違うのだから、私物が違うのも当たり前の事なんだろうけど。

翠は華奢なわりに背が高めで、涼子さんは女らしい体型で背が低い。

花で例えると、翠はデイジーのように元気で、涼子さんは撫子のようにしとやかだ。

翠は酔っ払いおやじのように、ガハガハと豪快に笑う。

涼子さんは祇園の舞妓のように、クスクスとはにかむように笑った。

「ね、夏井くん! 今、彼女居ないでしょ? お願いよ」

と若奈さんは言い、皮肉にも屈託のない笑顔を見せた。

「彼女は、居ませんけど」

でも、とおれは心底思った。

確かに、彼女は居ないし、涼子さんと友達になろうが、アドレスを交換しようが、何も問題はないだろう。

でも、おれには好きな女がいる。