「はい」
「絶対勝つからって、修司に伝えといてくれないかな」
「うん、言っておく」
まりこちゃんはにっこり、嬉しそうに笑って頷いた。
「それと、修司のそばにいてやってよ」
「え?」
「あいつ、野球馬鹿で鈍いからさ。苦労すると思うけど」
クスクス、まりこちゃんは呆れた顔で笑った。
「あいつの事が好きなら、もっと積極的にいけよ」
無口で無表情で愛想のないおれにしては、かなり珍しい事だった。
初めて話した女の子に、こうやってべらべら自分から話すなんて。
「それじゃ、健闘を祈ります。頑張ってね。夏井くん」
そう言って、まりこちゃんは中央出入口を出て行った。
「響也! いつまでそこに居るんだよ! バス出るぞ」
混雑している中央出入口付近で、健吾が急かすように叫んでいる。
ずり落ちたスポーツバッグを背負い直す。
おれは、修司から託された千の祈りを胸に抱き、駆け出した。
「分かってるよ! 悪い」
「まったく!」
健吾と肩を抱き合いながら中央出入口を出ると、すぐ目の前で修司がインタビューを受けていた。
小綺麗なスーツ姿の女性記者が、メモ帳を片手に修司を見つめた。
「平野くん、残念でしたね」
ええ、と頷き、修司は潔く帽子をとった。
別の男性記者が、修司に質問した。
「大学や社会人でも、野球は続けますか? プロとかは考えてますか?」
当たり前じゃんな、修司だぜ、と健吾はその様子を見つめながら笑った。
修司は小さく笑って、胸を張った。
「いえ。野球は続けません」
堂々としていた。
修司を取り囲んでいる記者たちが、一瞬、固まったように見えた。
修司は、真っ直ぐで濁りのない瞳で、告げた。
「でも、悔いはありません」
修司は笑っていた。
「修司……?」
「健吾、行くぞ」
戸惑いを隠しきれない健吾の手を引っ張って、おれはその横を駆け出した。
インタビューに受け答えする修司の真横を通過した時、おれは縦縞のそいつを誇りに思った。
宇宙一の、野球馬鹿だと思った。
「最高の夏でした!」
修司。
お前は、きっと、何年経っても、何十年経っても、色褪せない男なんだろうな。
「なあ」
と健吾が気落ちした声で、おれのスポーツバッグを引っ張った。
「うん?」
「修司のやつ、本気かな。まじで野球やめんのかな」
「本気だろうな」
「なんでかな」
「さあな。でも、修司らしいと思わないか? 潔く散るあたりが」
おれが言うと、健吾は「ああ」と頷き、目を潤ませた。
バスに乗り込むや否や、監督がおれに言った。
「夏井、宿に着いたら、すぐにおれの部屋に来なさい。話がある」
「あ、おす。わかりました」
空いている座席に座り、空を見上げた。
じりじりと火傷しそうなほどの、きつい陽射し。
全開に開け放たれたバスの窓からは、蝉時雨が入ってくる。
夏の青空に、入道雲。
バスに揺られながら、おれは目を閉じた。
頭には、あの一言がいつまでもリフレインしていた。
『最高の夏でした!』
炎天下の下で、親友が流した涙は大空にたかく登って、アーチを描き、潔く散った。
大喝采だった。
「決勝進出、おめでとう」
宿に戻ると、支配人と中居さんたちが拍手で迎えてくれた。
「すごい試合だったねえ。久しぶりに興奮させてもらいました」
おれたちは、全員でいっせいに頭を下げて、旅館が汚れてしまわないようにソックスを脱いで上がった。
「はいはいはい! これに入れて!」
玄関では、すでに洗濯かごを並べて、花菜が待っていた。
「着替えたらユニフォームも持ってきて」
「岸野」
監督に呼ばれ、その指示を岸野が部員たちに伝えた。
「ジャージに着替えたら、大広間に集合な。遅いけど昼飯と、あと、テレビ中継みろって。東ヶ丘と西工業の試合始まってるから」
以上、と岸野が言うと、各自素早く散らばる。
洗濯かごにソックスをぽいっと放って、おれも着替えに向かおうとした。
けれど、ハッとして立ち止まった。
昨日、相澤先輩と話し込んだ中庭の前で、おれは一瞬にして羽交い締めに合った。
夜と昼では、全く違う風景だったからだ。
夜、風情ただよう園庭ならば、昼のここは異国情緒ただよう洋館の花園だ。
真夏の陽射しをまんべんなく浴びながら、無数の花がびっしりと咲いていて、壁のようになっていた。
「すげ……」
昨日の夜は気付かなかった。
花を見て、絶句してしまうほど美しいと思ったのは初めてだった。
なんという花なのだろう。
太陽に向かって真っ直ぐ背を伸ばす、花。
その背筋も風格も、色も美しさも、翠みたいだと思った。
純日本人なのに、どこか西洋感がまざっていて。
呆けたように立ち尽くし、中庭を見つめていると、花菜がおれの背中をポンと押した。
「何ぼけっとしてんの?」
「え? ああ」
あの花がきれいだから、なんて言ったら花菜に笑われてしまうのだろう。
だから、言わないことにした。
「お腹へったでしょ? 着替えてきなよ」
みんな、もう行ったよ、と花菜は忙しそうに洗濯場へ走って行った。
大きな洗濯かごをかかえて、チャキチャキと素早く。
タフな女だと思う。
あの炎天下で長時間に渡る試合に、疲れただろうに。
勿論、おれの胃袋はすっからかんだったし、東ヶ丘と西工業の試合もこの目で見届けたい。
でも、おれはその場から離れられなかった。
その花が、あまりにも美しかったからだ。
しばらく立ち尽くしていると、岸野が呆れた顔で現れた。
「ほんと、マイペースでよく分かんねえ男だなあ。夏井は」
ハッとして振り向く。
岸野はもうすでに、ジャージに着替えていた。
「あ、岸野」
「あ、岸野。じゃねえよ」
クックッと肩で笑って、岸野が続けた。
「監督が呼んでる。早く来いって。大至急だってさ」
思わず、あっと声をもらした。
花に見とれて、すっかり忘れていた。
バスに乗り込んだ時、監督に言われていたことを。
「ほら、バッグとサポーターかせよ。部屋に置いてきてやるから」
「ああ……ごめん。ごめんな、岸野」
そう言って、おれはスポーツバッグと、アイシングのサポーターを岸野に渡した。
そして、2階の1番奥の監督の部屋に駆け足で向かった。
ドアをノックすると、すぐに監督が出てきて、おれを部屋に入れた。
「入りなさい」
「おす。失礼します」
1人部屋ってのは、どうしてこうも高級感があるのだろう。
畳の、青臭いにおい。
光沢感のある、木のテーブル。
床の間にはいかにも高そうな掛け軸が垂れていて、いかにも骨董品のような花瓶に、和の花が生けられていた。
「そこに座りなさい」
「おす」
木のテーブルに、監督と向かい合って座った。
正座した時、おれの足がパンパンになっていた。
「正座しなくていいから、崩しなさい」
「すいません」
おれがあぐらをかくと、監督が話し始めた。
「今日はよく頑張ってくれたな。おまえらに頭が上がらん」
「いえ」
そんなに緊張するな、そう言って、監督は小さく笑った。
「夏井」
「はい」
「さっき、相澤から電話があった」
今、旅館に向かっているそうだ、そう言って、監督は髭をさすった。
怖い顔をくしゃっと緩めて、監督は肩をすくめた。
「おれは監督失格かもしれん」
「は?」
さすがに肩から力が抜けた。
「明日は決勝だというのにな。おれみたいな甘い監督はいないだろうな」
そんな事を言いながら、監督は満足そうな口調だ。
監督が腕を組む。
「吉田翠のところへ行ってきなさい。相澤が、もうじき、ここへ迎えに来る」
はい、と即答しなかったのは、おれにも意地とプライドがあったからだ。
確かに、翠に会いたい。
会いに行かせて下さい、そう頭を下げようと思っていた。
昨日までは。
「いえ。でも、明日、決勝ですから」
テーブルの下で、おれは手をぎゅっと握った。
「会いたいだろう? 意識が戻ったそうじゃないか」
「会いたいです。でも、明日、優勝してから会いに行けるんで」
決心が鈍らないように、真っ直ぐ、監督の目を見つめた。
すると、監督は呆れたとでも言いたげに、息を吐いた。
「お前は、何を考えているのか分からん。顔に出さないから、どうしたらいいのか分からん」
「え? すいません」
「口数は少ないし、いつも無表情で。実は、おれもコミュニケーション下手でな。すまないな」
こんなことしかしてやれなくて、と監督は言い、テーブルの下からおもむろにそれを出して上に置いた。
昔ながらの竹細工の小箱。
蓋を開けてみると、中身は形のいい三角おむすびだった。
3つ、入っていた。
「腹が減ってるだろう。旅館に頼んで作ってもらった」
「おれに、っすか?」
「それを食べながら行くといい。吉田に会ってきなさい」
「けど」
「いいから行きなさい。岸野には言ってある。着替えて、玄関で相澤を待っていなさい」
会って、また気持ちを切り替えなさい。
そう言われて、おれは監督に頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして、竹細工の小箱を片手に、立ち上がった。
「夏井」
「はい」
「夜7時の夕食までには戻りなさい。明日、勝っても負けても、仲間揃って飯を食えるのは最後になるだろうからな」
監督は、コミュニケーション下手だと言ったけれど、上手いのだと思う。
ちゃんと、部員たちの気持ちを理解している。
はい、と返事をした時、監督の携帯電話が鳴り出した。
がっくりした。
ついでに、こっそり笑った。
着うたが、氷川きよしだったからだ。
手短な会話を済ませ、監督が立ち上がった。
「相澤が着いたそうだ。急いで着替えて、病院に向かいなさい」
「はい。夕食までには必ず戻ります。ありがとうございます」
深々と一礼して、おれは監督の部屋を飛び出した。
大部屋に駆け込み、ユニフォームを脱ぎ、素早く遠征ジャージに着替えた。
白いポロシャツの背中には、横文字で『南高校 野球部』と、背番号の『1』が小さく然り気無くワッペンされている。
竹細工の小箱を抱えて大部屋を飛び出し、洗濯場へ飛び込んだ。
ゴウゴウ音を立てる洗濯機の前で、花菜が奮闘していた。
「花菜」
「なに?」
「おれ、翠のとこに行ってくるから。洗濯よろしく」
試合で汚れたユニフォームを、花菜に投げ飛ばして、おれは駆け出した。
「グッドラーック」
花菜の声を背中に感じながら。
玄関に向かっている途中、おれはやっぱり中庭の前で立ち止まった。
純日本の庭に、赤、桃色、白、紫。
鮮やかな花がびっしり咲いている。
ジャパニーズローズ、とでも例えようか。
大きくて艶やかな花びら。
背が高くて、青空によく映える花だ。
その中でも一際美しく見えたのは、喉の奥がまったりとしてしまいそうなほど、濃ゆい濃ゆい、ショッキングピンク色の花だった。
おそらく130センチほどの背丈で、真っ直ぐ伸びた茎。
幾つも花を咲かせて、たまに吹く緩い風にしなっていた。
近所にも咲いている花だ。
でも、こんな美しい色のやつは見たことがなかった。
何度も目にしているのに、花の名前が分からない。
「夏井ー!」
玄関の方から、相澤先輩がおれを呼んでいる。
でも、おれは振り向かなかった。
この気高い色の花、なんて名前なのだろう。
その花の名前が知りたくて、この花を見たとたんにどうして翠が頭に浮かぶのか不思議で、動けなかった。
「あの、すいません」
そこを通り過ぎようとした小走りの中居さんを、とっさに呼び止めた。
「はい?」
色白で、日本人形のようにしとやかな女性だった。
「どうかなさいましたか?」
「あれ」
と、おれは中庭を指差した。
赤、淡紅、桃、白、紫。
中庭を縁取るようにびっしりと立ち並んで咲いている花。
「あれ、なんていう花っすか?」
あの、翠みたいに気高そうな花。
中居さんは、ああ、あれね、と少し呆れたように笑った。
「あれ、支配人の趣味なのよ。あんなに密集してると、少し暑苦しいわよね」
そうだろうか。
この世とは思えないほど、きらびやかで美しいと思う。
「いや。そんなことないっす」
おれが言うと、
「男の子なのに花に興味があるなんて、珍しいわね」
なんて、中居さんはしとやかにくつくつと笑った。
別に、花に興味があるわけじゃない。
ただ、翠みたいだと思っただけだ。
もう一度、中庭に視線の基軸を戻してみる。
仲居さんが言った。
「タチアオイ」
「え?」
振り向くと、仲居さんはにっこり笑って、一礼するとその場を去った。
「タチアオイ」
初めて知った。
「私の1番好きな花ですよ」
タチアオイの花から視線をずらすと、いつの間にか隣には支配人が立っていた。
「タチアオイは、不思議な花でね」
そう言って、支配人はとても楽しそうに、生き生きと話し始めた。
「花茎の1番下に花が咲く頃に梅雨入りして、上まで咲き終わる頃に梅雨明けをします」
「へえ」
感心してしまった。
気象予報士の予報でさえことごとく外れるものなのに。
この花は、それを分かっているのか。
なんとも、ツボを得た咲き方だ。
「まるで薔薇のような花びらでしょう」
「そっすね」
「天を目指してすっと立つ花茎は清楚なのに、なかなかダイナミックでしょう」
「うん」
支配人の趣味は庭仕事と、花言葉なのだそうだ。
支配人はにっこり笑って、おれに花言葉というやつを教えてくれた。
「タチアオイの花言葉、知っていますか?」
野球が趣味のようなおれには、そんなものとうてい分かるはずがなかった。
「いいえ」
とおれが首を振ると、支配人は腰に両手を回して、中庭を愛しそうに見つめながらぽつりぽつりと話した。
「気高い美。高貴。それから、熱烈な恋」
さすがのおれも、吹き出してしまった。
こんな事ってあるんだろうか。
これは偶然なのか、はたして運命と呼んでいいものなのだろうか。
「花にも意味があるんですね」
気高い美。
いつも、しゃんと背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見ている、翠みたいだ。
高貴、か。
日本人のくせに、ヨーロッパの貴族のような堂々たる振る舞いの、翠みたいだ。
フランス人形みたいだ。
熱烈な恋。
ドラマのように燃え上がるような恋とは言えないけれど、おれはたぶん、翠に熱烈な恋心を抱いているのだと思う。
「もう、梅雨明けも近い。花が咲き終わりそうだからね」
「そうですね」
「タチアオイが終わると、ここに、都忘れという花も満開になりますよ」
「へえ」
なんて、興味深そうな相づちをしながら、でも、全く興味はそそられなかった。
花言葉というやつを知ってから、おれはタチアオイに夢中になった。
「支配人さん」
おれが声をかけると、支配人は、はい、と首を傾げながら微笑んだ。
「もし良ければ、タチアオイを1本、頂けないっすか?」
支配人は、良い、とも、だめだ、とも言わなかった。
ただにこにこして、予想を大幅に外れた質問返しをしてきた。
「誰かに、贈るのですか?」
「はい。おれの彼女に。これから会いに行くところです」
「これからですか?」
なんて不謹慎な高校球児だろう、と思ったに違いない。
決勝を控えながらも、宿を抜け出して彼女に会いに行くなんて、と。
支配人は口をぽかんと開けて、おれを見つめた。
「これからです。実は、病気で入院してて。決勝前にどうしても会いたくて」
おれが肩をすくめると、支配人も肩をすくめた。
「それは、大変ですね」
「いいえ。だって、おれの彼女、タチアオイみたいな女なんで」
そう言って、おれは笑った。
翠は、タチアオイみたいだ。
気高くて、高貴で。