補欠エースへ





あたし、B型ってけっこう好きよ





世界一の美女より










おれは笑った。

さっき想像したよりも、笑った。

無論、数学担任からは怒鳴られてしまった。

その紙切れを左手でくしゃっと丸めて、おれは静かに笑い続けた。

おれだって同じだ。

A型の翠とはうまが合わないと思う。

でも、A型は嫌いじゃない。

翠は天敵だと思う。

でも、いつも几帳面に手入れの行き届いている爪をしている翠を、本気で敵だとは思っていないのだ。

開け放たれた窓のずっと向こうに広がる、水色一色の背高のっぽのビルから、濃い白色の分厚い入道雲がもくもくと沸き上がっていた。

今日は、雷雨になるかもしれない。






黄色い、元気な花が散った。

毎日、練習に明け暮れているグラウンド。

その片隅にあるブルペンのフェンス横に咲いていた、向日葵が潔く散った。

夏の花は咲っぷりも見事だが、散りゆく様もお見事だ。

一気に散る。

もうじき、ここには大量の秋桜が咲き乱れるのだろう。

秋がやってくる。

たぶん、急ぎ足で。








9月になって、南高校の野球部員達は、練習への意気込みが強くなった。

春の甲子園選抜の県予選があるからだ。

空は若干低くなり、ペンキを塗るハケで殴り描きしたように、薄く伸びた雲がまんべんなく広がっている。

渇いた砂ぼこりが舞い上がるグラウンド。

浜風で錆び付いた緑色のフェンス。

少し土色に染まった深紅の縫い目のボール。

代々、使い古されてきた金属バット。

商売道具の使い馴れたグローブと、スパイク。

スパイクの底は金属が光っていて、それでアスファルトを蹴っ飛ばそうものなら、火花が散る。

線香花火のような、短命な火の粉が。

ブルペンの横の道は裏門へと続いていて、下校して行く生徒達が大名行列のようにぞろぞろと通り過ぎて行く中、おれと健吾は一緒にブルペンの整備をしていた。

すると、ジャージ姿で走って来たのは、マネージャーだった。

「響也! 健吾!」

その声に、おれと健吾は整備していた手を止め、同時に振り返った。

きっと、彼女は生まれ持った才能とやらを持っているマネージャーだ。

おれはそう思っている。

「ブルペンの整備が終わったら、バックネット裏に集合ね」

と相澤花菜(あいざわかな)は言い、おれと健吾に一つずつストップウォッチを手渡してきた。

嫌な予感がした。

数メートル離れた距離を保ったまま、あからさまに嫌な顔を作り、おれと健吾は目を合わせた。

「こら! そういう顔しないの」

そう言って、クスクス、彼女は笑った。

花菜は、おれが心底惚れ込んでいる相澤隼人先輩の妹だ。

そんな兄に影響されたのだろう。

同じ一つ屋根の下で生活を共にしていれば、無理もないのかもしれない。


とにかく、野球に詳しい女だ。

監督とコーチに楯突いて行ける女は、この花菜くらいのものだろう。

見ていて、天晴れだ。

2年生の先輩達でさえ、花菜には頭が上がらない。

「ストップウォッチ……まさか」

ブルペンを整備していたトンボを杖代わりにして、ストップウォッチを見つめながら俺が訊くと、

「さすが響也! そのまさかです、今日は先に1年のバッテリー陣がロードワーク。後半に2年のバッテリー陣がロードワークだから」

それ見て1時間は走り込むように、と分かりやすく的確な指示を花菜が出してきた。

ショートボブの黒髪は知的な雰囲気で、どこからどう見ても大人しそうな、背の低い小柄な女だ。

でも、その細い腕で何十球ものボール入りの箱やバットケースを持ち、涼しい顔をして颯爽と歩くのだから驚きだ。

1年生ながら、花菜はたくましき敏腕マネージャーである。

でも、それだけではない。

何と言うか、花菜はちょっと勘の冴える女で、時々、突拍子もない事を口にしたりする。

特に、人の感情を言い当てるのが得意なようだった。

その時思っている事をどんぴしゃりと言い当てられたときは、本当にどきりとする。

それ、を部員達は口を揃えて「花菜様のお告げ」なんて言ったりする。

人の顔色から気持ちを察する勘が著しく発達しているのかもしれない。

花菜様のお告げ、はほとんどが怖いほど、どんぴしゃりだ。

滅多に的を外さない。

「ちょっとちょっとお! 何よ、その目は」

と花菜は言い、今にも土の上に雪崩れ落ちそうなおれと健吾を、ぎろりと睨んだ。

やばい、とおれは目を游がせた。

花菜様のお告げ、が降ってくる。

「投球練習はやる気満々で。でも、走り込むのは嫌、だなんて言うつもりじゃないでしょうね?」

今日も見事に、どんぴしゃりだ。

人の毛穴の奥まで透視しているようなその横目で睨む仕草は、変に貫禄があったりして。

投球練習、がおれは一等好きだ。

でも、走り込むのは好きではない。

やはり、花菜には頭が上がらない。


「なっ、何を言うのかね! そんなわけないだろ! うしっ、ロードワーク大好きー! ヤッホー」

な、響也、と健吾は言い、おれに同意を求めてきた。

へらへらと笑いながら目を閉じたり開いたりしている。

健吾は基本的に負けず嫌いで、少しお調子者だ。

「おれ達、走るの大好きだもんなあ? そうだよな、響也」

「おう。走り込んでなんぼだろ」

おれも、基本的に負けず嫌いで、かなりのお調子者なのだ。

「よろしい! 分かったら、さっさとやる!」

ピイッ、と首にぶら下げた白いホイッスルを短命に吹き、花菜はキャプテンの河田(かわだ)先輩の元へと、一目散に駆けて行った。

おれが、あの子への淡い感情にはっきりと気付いたのは、まさしくこのグラウンドでの事だった。

しかも、あの敏腕マネージャーの花菜が確信させてくれた、と言っても過言ではない。

だから、おれは花菜に頭が上がらない。

はああ、と海底2000メートルほど深い溜息を吐き出したのは、背中を丸める健吾だった。

「響也……バッテリーは辛いよ」

「馬鹿か。寅さんじゃねえんだから。仕方ねえよ。バッテリーは体力勝負だって相澤先輩も言ってただろ」

そう言って、おれは再びブルペンにトンボ掛けを始めた。

「健吾、さくっと走り込んで、みっちり投球練習しようぜ」

「おう、だなっ」

グラウンド整備を終え、ウォーミングアップをした後、商売道具に触れたい気持ちを押し殺し、おれと健吾はロードワークに向かった。

「夏井、岩渕、さぼって歩くんじゃねえぞー」

「ちゃんと走れよ」

ブルペン横を通りかかった時、錆びたフェンスのすぐ向こうで、2年生のバッテリーが笑って声をかけてきた。

おれと健吾は同時に帽子を取り、同時に、うす、と返事をした。

「怪我するなよ」

現在のエース、本間淳平(ほんまじゅんぺい)先輩は気さくで面倒見が良く、頼りがいのある先輩だ。

おれよりも一回り体格が良く、背も高い。

サウスポーのおれとは正反対の右投げ。

長い腕を横に振りだしてボールを投げる投球法を用いる、サイドスローピッチャーだ。


ブルペンのマウンドに立つ本間先輩は、激しく凛々しい。

カッコいい。

そんな本間先輩の投球練習を見ると、おれは軽く落ち込んでしまう事が多々あった。

まだまだ、だ。

まだ、あのマウンドにはかなり遠い位置におれは居る。

正門を抜け、八重桜の木のトンネルを抜け、急勾配を下った。

ロードワークのコースは決まった道で、グラウンドに戻る頃にはちょうど1時間強の長い道のりだ。

ピッチャーとキャッチャーは夫婦同然。

心中も覚悟しろ。

監督の口癖だ。

毎日のように、口酸っぱく言われている。

30分ほど走ると広い河川敷きに出た。

北方向へ長く続いている川は、ずっと向こうに見える橋のもっと奥の日本海へ繋がっている。

この清らかな川辺りが、折り返し地点となっていた。

緩やかに流れる川辺りには、5メートル間隔で白いベンチが5つ並んでいる。

黄色。

いや、白か。

違う。

乳白色を帯びた金色だ。

夕方になりかけている時間帯の太陽の光が反射した水面は、かなり眩しい。

おれは目を細めた。

学校帰りの小学生達がランドセルを土手に放りっぱなしにして、キャッチボールをしていたり。

退職して暇をもて余しているのか、平日休みなのか。

本当のところは謎だが、大人の男が居眠りしながら釣りをしていたり。

のどかな光景が、河川敷きいっぱいに広がっていた。

この川は町の人々の憩いの場になっていて、南高校のボート部の練習にもよく使われている。

今日も数台のボートが威勢良く緩やかな流れの川を切り開くように、流れに逆らって登って行く。

「よし、戻るか」

と健吾は言い、汗だくになりながらも気持ち良さそうに息を切らしていた。

「おう」

西風に川の瑞々しい香りが入り交じって、額の汗に触れるとひんやりとした。

「あれっ! 夏井と健吾じゃんか」

折り返し走り出した時、聞き覚えのある声に呼び止められ、おれと健吾はほぼ同時に振り返った。

「よう、結衣。お前、こんなとこで1人で何やってんの?」

少し息を切らしながら疲れた声で、俺が訊いた。


毛穴という毛穴からこんこんと噴き出す汗をアンダーシャツの袖で拭いながら振り返ると、そこに居たのは佐東結衣だった。

翠の親友の1人だ。

結衣はあの3人の中で1番幼顔で、でも、1番化粧が濃い。

ただでさえ厚化粧なのに、昼休みの時よりもさらに濃くなっていた。

赤毛の髪の毛が太陽に照らされて、半透明な琥珀色に輝いていた。

この爽やかな河川敷には全く似合わない顔をして、結衣は微笑んだ。

今、明里とマック寄って来たとこ、と結衣は言い、続けた。

右手にマクドナルドのシェイクを持ちながら。

「あたしの家、この近くなの。何、あんた達こそ。何でこんなとこ汗だくで走ってんの?」

おお、暑苦しいったらないわ、そう言って右手に持っていたシェイクをうまそうにズルズルと音を立てて吸い上げ、結衣はあからさまにしかめっ面をした。

これだから、スポーツっ気の無い女は。

両肩をがっくり落として呆れてしまったおれよりも先に話したのは、健吾だった。

「あのなあ!野球部はグラウンドに居るだけじゃねえの。どんなスポーツも、基本は走る事なんだぞ」

「へえー。ま、どうでもいいや。あたしには関係無いし」

けらけらと笑い飛ばして、突然、何かを思い出したのか、結衣はあっと声を上げた。

「ねえ! 夏井」

「何だよ」

「翠から聞いたでしょ?」

「何を」

「何って……翠、グラウンドに行かなかった?」

来てないけど、と答えると、結衣は急に顔付きを代えておれの背後に回り込み、背中を両手で力任せにぐいぐい押してきた。

「馬鹿じゃないの! 早く戻れよ! 翠、行ってるかもしれないじゃん! さっき、大変だったんだから」

「何! 何で翠が? 大変とか……意味が分からん」

「いいから、早く戻れよ! 使えねえ野球部だなあ」

やっぱり、類は友を呼ぶのかもしれない。

翠も男勝りな言いぐさをする女だが、結衣も負けてはいない。

明里だってそうだ。

清楚なのは見た目だけで、あの3人は遠慮とか相手の気持ちとかに遠慮を使わない。

常に、真っ向勝負してくる。


「使わないとか言うなよ。普通にへこむって」

おれが苦笑いすると、結衣は怒鳴り出した。

丸い形の垂れ目を釣り上げて、怖い顔をしている。

「いいから戻れよ!」

「分かったよ! はいはいはい……何、キレてんだよ」

翠を始め、結衣と明里。

3人は本当にに可笑しなトリオだ。

いや、確実にへんだ。

おれと健吾は結衣の勢いに圧倒されながら、走り出した。









ロードワークの帰り道、おれはよく既視体験をする事がある。

デシャ・ビュ、だ。

帰り道はいつも同じ事を疑問に思いながら、軽快に走る。

戻りの距離、が行きの距離よりも短く感じるのはなぜだろう。

全く同じ道を、同じ距離を走っているのに。

行き、と、戻り、では時間の感覚が麻痺を起こす。

グラウンドに戻り花菜に報告をすると、彼女は休ませる事なく次のメニューを与えてくる。

かなりのスパルタマネージャーだ。

「お帰り! じゃあ、ストップウォッチ、次は本間先輩達に渡して」

ピイッ、と短命に吹くホイッスルの音が、花菜のお気に入りらしい。

「で、次は投球練習! バッテリーは休む暇無しよ」

「ちょっと休ませてくれよ」

ぜいぜい、激しく呼吸を繰り返し、息も絶え絶えすがったのは健吾だ。

顔を真っ赤にして、大粒の汗を滝のようにぼたぼた流している。

花菜は優しい声をして、厳しい言いぐさをした。

「駄目! 選抜予選近いんだから。今月だよ、分かってるの?」

「きっつー! はいはい、分かってますよ」

「はい、分かってるならプロテクター持つ! 行った行った」

ほら、響也も、とまるで野良犬を追い払うようにシッシッと手の甲を振り、花菜は笑った。

おれと健吾は汗だくになりながら、お互いに顔を見合わせて笑った。

「花菜ってさ、結婚したら典型的なかかあ天下タイプだよな」

と健吾がひそひそと俺に耳打ちをして、悪戯にキシシと笑った。

だよな、とおれも笑った。

2人でキシキシ、キシキシ、笑っていると花菜が雷を落としてきた。

ピイッ、という短命な甲高い音のすぐあとに。


「そこ! 笑ってるなんて随分と余裕ね。さっさと動く!」

うす、と同時に返事をして、おれと健吾は念願の商売道具を小脇に抱え、ブルペンへと駆け出した。

「本間先輩! お疲れっす、交代っすよ」

「おー、夏井。お疲れ」

ブルペンで投球練習に精を出していた彼に声をかけ、ストップウォッチを差し出すと、本間先輩はなんとも奇妙な面持ちでのそのそとおれに歩み寄った。

ひどく重い足取りで、とにかく全てに納得がいかない。

そんなオーラを全開にして。

「本間先輩? どうかしたんすか?」

「いや、お疲れさん。夏井……あのさ」

「どうかしたんすか?」

もう一度訊くと、本間先輩は後ろを振り返り、フェンスをじっと見つめた。

「何か……変なギャルが来てさあ。絡まれた」

「変な?」

と俺が訊き返すと、本間先輩は、あそこ、と言ってブルペン横のフェンスの向こうの茂みを、グローブをはめた左手で指した。

濃い緑色の雑草が生い茂った中からちらちらと見え隠れする金色を見付けて、おれは呆れた声を漏らした。

「あああ……」

ロードワークの途中、河川敷で遭遇した結衣が言っていた言葉の意味も。

本間先輩が言っている、変なギャル、の正体も。

全ての事が一致したような気分だった。

例えば、1000ピースのジグソーパズルが、不意に完成してしまったような。

「補欠エースって、夏井のことか?」

本間先輩は疲れきった顔をして、おれに訊いた。

野球帽を取り、おれは答えた。

「はあ……たぶん、と言うか……そうです」

すみません、とおれは言い肩をすくめた。

別に悪い事はしていないのに、ひどく申し訳なく思えたからだ。

補欠エース。

おれの事をそう呼ぶ人間は、この世界に1人しか居ない。

きっと、今のところ、彼女しかいない。

「補欠エースはどこ? とか……何かマシンガンみたいな質問の嵐浴びたわ。何か、寝ちゃったみたいだし」

「寝た?」

後は任せた、そう言って本当に困ったように苦笑いをした後、本間先輩はブルペンを去って行った。