この部屋には監視カメラが取り付けられているらしく、ナースステーションでその様子を確認しているのだと、看護師さんが教えてくれた。
おれが硝子にべったり貼り付いて中を覗き込むと、看護師さんが優しい声で話した。
「手術は成功したよ。明日には麻酔から醒めると思うから」
「はい」
「それと、翠ちゃんのお母さんね、妹さん達を実家に預けたら、また来るらしいから」
「分かりました。ありがとうございます」
おれは看護師さんに一礼し、すぐに翠の寝顔を見つめた。
翠は長い睫毛を休ませて、穏やかな表情で眠っていた。
頭は白い包帯でぐるぐるに巻かれ、自慢の金髪がかくれんぼしていた。
いばらの森の眠り姫のようだ。
モニターの線や点滴の管に囲まれて眠り続ける白肌の眠り姫は、薄く赤い唇をしていた。
翠。
頑張ったな。
心地よさそうに目を閉じている翠を見つめて、初めて安堵の息を吐いた。
その時、今度は少し年輩の看護師さんがやって来て、おれの肩をそっと叩いた。
「ちょっと、あそこ見てみなさい」
看護師さんは微笑み、硝子の向こうを指差した。
「え、何すか? どこ?」
きょろきょろと部屋の中を見渡していると、看護師さんはおれの頭を両手で固定し、クスクス笑った。
「手よ、手。翠ちゃんの右手」
「えっ……あっ」
「見つけた?」
翠の右手は毛布から少しばかりはみ出していて、それ、を緩い力で握りしめていた。
朝、おれが渡した翠色の折鶴だ。
翠の白く細っこい手のひらの中で、折鶴は開かれて一枚の紙切れになってあった。
「手術室に向かう時も、手術の時も。絶対に離そうとしなかったんだって」
―これ持たせてくれないなら、手術は受けないからね―
―これ、黒魔術がかかってんの。持ってたらだめって言うなら、ぶっ殺す!―
「そう言って、だめって言ってもきかなかたらしくて。大変だったみたいよ」
とんだわがまま娘だわ、と看護師さんは笑った後、またどこかへ歩いて行った。
男は強い生き物だから泣いたらだめ、だなんて一番最初は誰が言い出したのだろうか。
男だって、女のように泣きたい日がある。
おれは仄暗い廊下で、ただひたすら泣いた。
翠の笑顔、翠色
その下手くそな文字入りの折鶴を、お守り代わりにしてくれたのだろうか。
おれは汚れたユニフォーム姿のまま、硝子越しに眠る眠り姫を見つめて、静かに涙を流した。
翠。
翠。
早く目を開けてくれないだろうか。
一回戦負けしてしまった事を伝えれば、きっと、きみはまた怒鳴り散らすのだろう。
その可愛い顔を、般若のように強張らせて。
でも、夏は約束を果たすから、それだけは守るから。
早く目を開けて、笑ってくれないだろうか。
翠の笑顔がないと、どうにも調子が良くない。
おれは翠の右手を見つめて、暗い廊下にひっそりとたたずんでいた。
10月になれは、きっと、うざったくなるような冷たい時雨が、この街を濡らすのだろう。
11月になれば、木の葉が色づき冬支度が始まる。
12月にはこの海辺の街も薄く雪化粧をするだろう。
年が明けて1月になれば、白銀の世界よりも眩しいきみの笑顔があって、おれは瞬きせざるおえないと思う。
2月になれば、きみの大好きなチョコレートが街に並ぶ。
3月になったら、なごり雪の中で、一緒に春の準備をしないか。
4月になれば、この街も桜吹雪に見舞われて、きっと、きみもすっかり元気になっているはずだ。
5月になったら、また自転車を走らせて、一緒に海まで行こう。
6月になっても、きみが笑っていてくれるなら、梅雨の湿気さえ心地いいのだろう。
そして、夏が来る。
おれの高校最後の夏は、全部、きみのために使おうと思う。
「おれの夏、全部、翠にやるよ。だから……」
早く目を覚まして、笑った顔を見せて欲しい。
泣き崩れそうになってよろけた時、おれの背中にそっと手をかけてくれたのは、翠と瓜二つの顔をしたさえちゃんだった。
「響ちゃん、来てくれてたんだ」
「さえちゃん、ごめん」
「どうした?」
「負けたんだ」
おれが背中を丸めると、さえちゃんはフフと笑って、おれの頭をぽんぽん叩いた。
さえちゃんの手は想像していたよりも温かくて、おれの頭蓋骨にしっくりと馴染んだ。
安心できた。
「何さ、たった一回負けたくらいで泣くな。また翠に怒鳴られるぞ」
そう言って、さえちゃんはクスクス笑いながら硝子ケースに入った翠を見つめた。
おれはしゃくりあげながら言った。
「夏は……夏は絶対勝つからさ」
「うん、期待しといてあげる。翠のこと、連れてったげてよ。甲子園球場にさ」
「うん」
翠が眠っている部屋の窓辺に、優しい月明かりが射し込んでいた。
とてもやわらかく、金色によく似た温かい色の月光が。
南高校の校門を出ると、真っ先に見事な八重桜のトンネルがある。
毎年、ソメイヨシノが散っても、しばらくは咲き盛りを保つ。
今年もきっと、見事に咲き誇ることだろう。
八重桜は、生き様がすごい。
まるで、翠のようだ。
なごり雪が混じった春の風にビョオビョオ叩かれても、なかなか折れない。
絶対に、枯れたりしない。
散っては咲き、散っては咲き。
また、来年も咲く。
その次も、また次も。
おれみたいにひょろひょろした根っこじゃなくて、しっかりした根っこがあるからだ。
だから、強いのだろう。
だから、翠はあんなにきれいなのだろう。
地元のテレビ局にチャンネルを合わせると、春の選抜県予選の決勝戦がクライマックスを迎えていた。
解説者が狂ったような声を上げた時、おれはテレビの画面にへばりついた。
「打った! 打ったあー! 逆転サヨナラー!」
「9回裏、東ヶ丘エース、藤森(ふじもり)! 打たれましたー!」
「やはり今年も横綱桜花! 強い! 最後は平野のサヨナラ二塁打!」
修司もまた、根っこの強い八重桜だ。
今年も横綱桜花
逆転され、再逆転した横綱のミラクル逆転劇
大砲平野 サヨナラ二塁打
その見出しが翌日の地元スポーツ新聞の一面を飾ったのは、言うまでもない。
またしても修司は、おれに差を見せ付けてずっと先を走っていた。
今年の春の甲子園行きの切符も、修司率いる桜花大附属が掴みとった。
手術の翌日、翠は麻酔から醒めて、一週間後にはまた個室へ戻った。
今は顔色も良く定期的に検査の日々の中、放射線治療を受けながら翠は笑っている。
と言いたいところだが、春になってすぐに翠は退院した。
まだ、なごり雪の春の始まりに、翠は今もおれの隣で豪快に笑っている。
「このチキンエース! シャキッと投げろや!」
ひとつ、冬を越えて翠の髪の毛は少し伸び始めて、フランス人形の風格を増した。
春休みは翠に全然かまってやれないほど、練習ばかりの毎日だ。
雪が融けて、グラウンドも茶色く輝き出し、ようやく本格的な練習に打ち込めるようになった。
夢中になって投げ込みをしていると、さすがにグラウンドコートなんて着ていられなくなる。
「暑っちいな」
おれは、ブルペンの脇にグラウンドコートを脱ぎ捨てた。
「チキンて何だよ! これでも成長したんだぜ」
「チンチクリンて事よ! そんなへなちょこな球じゃ、また負けるぞー」
翠はケタケタと大笑いしながら、ブルペン横のフェンスを揺らした。
優しい春の陽射しでさえ、この元気な翠に比べればすすけて見える。
翠は、やっぱり八重桜だ。
手術後の放射線治療を乗り越えて見事に復活し、春休みはこうしてグラウンドに顔を出せるようになった。
と言っても、秋から休学していたため進級が難しくなり、春休みは補習授業の毎日なのだ。
「翠、もう9時過ぎてる。また先生に探されるぞ」
校舎のてっぺんに取り付けられている大きな時計を指差し、おれが呆れた素振りを見せると、翠は慌てて駆け出した。
「やっべ。じゃあ、まったねー! ほ、け、つ」
「だから、もう補欠じゃねえっつうの」
「へいへい。分かってますよ。ほっけつー!」
「だからっ!」
短いスカートをひらひらと揺らしながら、翠は校舎の中に吸い込まれるように入って行った。
そんな翠を見て、嬉しそうに笑ったのは健吾だった。
「響也」
「ん?」
「良かったな。翠が元気になって」
そう言って、健吾はブルペンのホームベースから、緩やかな弧を描かせてボールを投げてきた。
「おっと」
そのボールをグローブで捕らえ、おれはだらしなくニタニタと笑った。
「ああ、もう最高」
また、翠とこうして同じ校舎に居られる事が、翠がフェンス越しで笑っている事が、おれは嬉しくてたまらなかった。
鼻の下を伸ばしてニタニタし続けるおれに、健吾は呆れたと言わんばかりに投球を要求してきた。
「こら、響也! だらしねえ顔しやがって。来い! まずはカーブだ」
「おーし。そのミットに、穴あけてやるぜ」
と投球体勢に入った時、思わぬ最高の来客に、おれと健吾は飛び付いた。
「夏井、岩渕。久しぶり。頑張ってるか?」
「うわあー! 相澤先輩」
と健吾は面を外し土の上に投げ出して、相澤先輩の元へ駆け出した。
「相澤先輩!」
無論、おれもじっとしてはいられなかった。
「何で? 東京、満喫してるんじゃなかったんすか?」
相澤先輩は左の口角を少し上げて、クッと笑った。
「バーカ、大学だって春休みなんだよ。昨日、こっちに戻って来たんだ」
若菜も一緒に、と相澤先輩は顔をほころばせた。
相澤先輩が東京の大学へ進学すると共に、彼女である若菜さんも一緒に上京したのだ。
相澤先輩が大学を卒業したら、2人は結婚をするつもりなのだそうだ。
相澤先輩が声を掛けてきた。
「夏井」
「はい?」
「花菜からきいたよ。翠ちゃん、大変だったんだってな」
相澤先輩は少し気を使うように言い、でも、良かったな、とおれの肩を叩いた。
「もう、大丈夫なんだろ?」
「あ、うん。今はすっげえ元気になりましたから」
とおれが言うと、すかさず健吾が続けた。
「そうそう。前よりパワーアップして、困ってるんですよ」
「そりゃ結構」
相澤先輩は二枚目の顔立ちをくしゃくしゃにして、後ろにひっくり返りそうなほど爆笑した。
相澤先輩が、別の人に見えた。
東北なまりが薄れて、髪の毛も少し伸びて茶髪で、なんだか生まれも育ちも都会の人みたいだ。
「あれ以上パワーアップしたら、地球の破滅だよなあ。大変だなあ、夏井は」
相澤先輩はげらげらと笑い、おれの背中をバシバシと遠慮なしに叩いた。
「いや、破滅上等っすね。まじで」
地球が破滅したって構わない。
翠が元気に笑っていてくれるなら。
地球が破滅しようが、沈没しようが、爆発しようが、おれは素直に受け入れてやる。
「夏井! 岩渕!」
3人で笑いながら近況について語り合っていると、むっつりとした不機嫌面で歩いて来たのは、鬼監督だった。
「何を笑っとるんだ! お前らに笑ってる暇はない」
今日の監督は、ひと味違う雰囲気をみなぎらせていた。
虎視眈々とした、厳しい表情にひときわ拍車がかかって見える。
監督は相澤先輩をブルペンのマウンドに立つように指示し、バッターボックスにはおれが立つことになった。
不意打ちに声を掛けられ、少し焦った。
「夏井」
「はい」
「バッターボックスに立って、今から相澤が投げる一球を見ろ。絶対に、目を離すんじゃないぞ」
健吾はプロテクターを装着し、マウンドに向かってミットを構えた。
おれは左打席にただ突っ立って、マウンドに立つ相澤先輩の左手ばかりを見つめた。
「それじゃあ、相澤。すまないが、一球、投げてくれ」
監督はバッターボックスの横で、腕組みをしながら鬼のような面持ちで言った。
「夏井、しっかり見なさい」
はい、とおれと相澤先輩はほぼ同時に返事をし、行動に移った。
やっぱり、かっけえ。
マウンドで大きく振りかぶる相澤先輩を見ていると、胸が騒ぎ始める。
やっぱり、あの整ったフォームは、現役の頃から何も変わっていなかった。
左腕を日本刀のように勇ましく降り下ろし、相澤先輩はグッと歯を食い縛った。
「うわっ」
見逃した、と焦った。
でも、それは見逃したわけじゃなくて、おれは相澤先輩が投じたその変化球に羽交い締めにあっていた。
足がすくんだ。
ビュウッ、と突風のような音が目の前を通過した時、向こうで花菜が吹いた甲高い音が短命に響いた。
ピイッ、と蝉の一生くらい短命なホイッスルの音が。
見逃し、三振。
バッター、アウト!
そう、言われたような気がした。
「何だ、これ……魔球もいいとこだぜ。すっげえや」
健吾は受けたままの体勢を微動だにしないまま、唖然とした面持ちで呟いた。
「すっげえ」
おれだって、健吾と同じ気持ちだった。
相澤先輩が投じた一球は、おれと健吾を凍りつかせた。
右へ曲がったと思えば、それは単なる見せかけで。
左へ曲がったのかと思いきや、今度は竜巻のようにキュルキュルと激しくうねり、最後はホームベースの手前で急激に下降した。
もの凄いスピードで向かって来たくせに、ホームベース手前で忽然と消えるように、その球はがくりと落ちたのだ。
固まるおれと健吾に、監督がニタリと笑った。