秋の青空を秋桜が仰いでいた。
来週末から、春の甲子園選抜予選が開幕する。
ジリジリと蝉時雨のような地響きの音で、おれは目を覚ました。
「げっ!」
おあいにくさま。
さすがのおれも前日の練習で疲れまくっていたらしい。
完璧で立派な朝寝坊だった。
午前6時30分。
30分の寝坊の末、朝飯も摂らずに家を飛び出した。
最近、使い古してきた自転車がくたびれた音を出すようになった。
ペダルも何だか重くなったような気がする。
「くそー! また翠に怒鳴られる」
6時30分きっかりまでに病室に到着しないと、あの馬鹿でかい声で怒鳴られる。
おれはとにかく無心になって、自転車を加速させた。
朝の病院はまるで別の世界に来てしまったんじゃないかと思ってしまう。
静かで、朝飯の匂いが病棟を包み込んでいた。
病室前に到着してコソコソと中を覗いた時はもう7時に5分前で、翠は今日も元気に朝飯を食っていた。
「翠……おはよう……ございま……」
翠の雷が落ちる。
やばい。
と覚悟は決めていたものの、おれの声はたいそう立派な腰抜けだった。
「ごめん、寝坊し……」
そーっと病室に入って行くと、やっぱり翠の雷が落ちた。
その電圧、10000ボルト。
「コラー! 寝坊とは何事だ! この翠様……ブハッ……翠様を待たせるとは何事だ……ゲフッ」
無様だ。
翠の口から飛び出しては散る、食べ物たち。
怒られているというのに、おれは涙をたらしながら笑った。
「頼むよ。朝からやめてくれ、腹がねじれる」
「シャラップ!」
ゲッフー、と翠は男のようなげっぷをかまし、ベッドに備え付けられていた取り外し可能のテーブルな飛び散った野菜を拾う。
オレンジ色の人参。
真っ赤に熟れたトマト。
焼き魚のほぐれた白身。
翠は口に食べ物を入れながら怒鳴った時に、あらゆる物を口から撒き散らした。
「すっげえ元気だな。安心した」
まあ、おれが朝寝坊をした日にはよく見る光景だ。
可笑しくて、たまらない。
げっぷの豪快さも、食べっぷりも、天下一品だ。
他の人が見たら不思議かもしれないが、こういう飾りっ気のない性格もおれは好きだ。
「ったりめえだ! 補欠が怒らせるからあたしの貴重な朝飯が減ったじゃん! ただでさえ間食禁止なのに」
「いや、口に物入れながら怒鳴る方もどうかと思うけど」
「返せー! あたしの人参返せ! 末代先までぶっ殺してやる!」
とか何とか言いながらも、翠は食べる事が大好きなのだ。
残り少ない朝飯に夢中だ。
質素な朝飯をぺろりとたいらげ、翠はどこかのおやじのように腹をバコバコ叩いた。
「ういー。食ったあ、食ったあ。補欠、これ、おぼんごと返してきて」
病院食は不味くてかなわん、と言い、翠は満腹の腹をさすった。
「ほら、返してきて」
「はいはい」
廊下に出ていた食事を運んでくるカートに空の食器を返し、病室に戻るとまた笑う羽目になった。
翠は爪楊枝で歯の間をカキカキして、シーシーと音を立てていた。
これで小道具に朝刊を持たせたら、おっさんだ。
その光景を見ながらクックッと笑いを必死に堪えていると、不意打ちに翠が言った。
「あたし、手術の日決まったから」
「え……まじ? いつ?」
ややあって、翠は壁に掛かっていたカレンダーを見つめながら言った。
「来週の土曜日」
翠が見つめているカレンダーのとある日には、赤いインクで丸が付いていた。
9月15日
春の選抜予選開幕、とも書かれてある。
翠の筆跡だ。
おれは言葉を失った。
「残念。補欠の初陣とかぶっちゃった」
ドラマチックー、なんて翠は言い、でも、とてつもない不安と闘っているのだと分かった。
いつもの気の強い翠は、そこには居なかった。
元気な翠だけど、でも、空元気な翠だ。
「まじかよ」
おれは戸惑いを隠しきれなかった。
「まじだ! まあ、しょうがないさ」
「しょうがないって……」
「あたし、ファイト! 補欠はど根性で勝て」
ど根性どころじゃない。
手術の日は学校を休んで、翠の側に居ようと思っていたのだから。
おれは床に突っ立ったまま、スポーツバッグがいつもより遥かに重いことに気付いた。
「翠、おれさあ」
と言いかけた時、翠はそれを止めて完全にシャットアウトした。
きっと、翠なりに察したのだろう。
おれが今、何を言おうとしていたのかを。
「負けんなよ、補欠! あたしが麻酔から覚めた時、1回戦突破してなかったら……分かってんだろうな?」
翠は勝つ気だ。
目が本気だ。
手術という敵に勝つ気だ。
「どうせ、ぶっ殺すとか言うんだろ」
「分かってんじゃん」
「1回戦なんて楽勝だぜ」
言わなくて良かったと思った。
おれは初陣を辞退しようと、馬鹿な事を考えていたのだ。
「よーし、分かってんじゃない! いい? 試合終わったら、この病室であたしを待ってろ」
翠は言い、まるでおれにも宣戦布告を言い渡すような言いぐさをした。
「それにしても、腹減ったなあ」
不機嫌な顔をして、翠が言った。
「は? 今食ったばっかだろ」
「足りねえんじゃ」
翠は来週末に控えている手術に向けて絶食があるらしく、最近ご飯の量が少ない事がネックになっているようだった。
明日には小さい頃から伸ばし続けているという、自慢の髪の毛もばっさりとカットしなければならないとかで、少し元気がない。
入院した当日は殺風景だったこの病室も、今では生活感が溢れ始めていた。
花瓶に生けられた秋桜とガーベラが、清らかな桃色に揺れている。
そして、翠が眠るパイプベッドの枕元には、いつも翠色の折り目が何羽か置かれていた。
「補欠、見て」
翠は金色の髪の毛を一まとめにしていて、笑顔で窓の外を指差した。
「この病室から南高が見えるの! 超小さいんだけどね」
「ああ、うん。知ってる」
「あたし、毎日、ここから見てるよ。補欠が居眠りぶっこいて、先生から怒られてるのとか」
確かに、居眠りぶっこいているけど。
見えるはずがない。
学校はずっとずっと向こうに見えて、小さな米粒のようなのだから。
おれは笑った。
「見えるわけねえじゃん。お前はエスパーか」
「エスパーじゃないけど、あたしには見えんのよ! 補欠が泣いてればすぐ分かるし。笑ってんのも分かる」
あたしは天下無敵の翠よ、と言い、翠は細い体でおれに抱き付いた。
「え、朝っぱらから?」
おれはクスクス笑いながら、翠を抱き締めた。
「補欠、勝ってね」
本当は不安で怖くて仕方ないのだろう。
翠は震えていた。
決して口には出さないけど、おれには分かる。
だって、おれは補欠なんだから。
また夜に、と翠と約束をして、おれは病院を後にした。
病室で翠が泣いているかもしれない。
間食は禁止だと言われているらしいけれど。
今日、練習が終わったら翠の好きなキャンディーを買って行こう。
炭酸味の。
レモングラスの香りがする、口の中でシュワシュワ弾けるキャンディーを。
朝が涼しくなった。
とろとろとした緩いまどろみの中でおれはその音を聞き、目を覚ました。
ゴツ、という鈍い音。
続けてもうひとつおまけにゴツ、という音も。
「やべえ。窓、開けっ放しで寝たんだな」
窓辺に並べて置いてあった2つの白球が、朝の秋風に押されてフローリングの床に落ちゴロゴロ転がっていた。
水色のカーテンがつめたい風にふわふわ揺れていた。
まるで、パープの音色のようにきれいに揺れていた。
昨晩、あまりにも月がきれいで窓を開け放ったまま、おれは眠りに落ちてしまったらしい。
秋の新鮮な空気が、この部屋いっぱいに充満していた。
「相澤先輩、本間先輩、すいません」
おれは転がるボールに笑いながら謝り、それを拾い上げてまた窓辺に並べた。
2つのボールに朝の爽やかな白い陽光が一筋の光となって射し込んでいる。
午前6時。
目覚まし時計が豪快に鳴り響き、慌ててそれを止めた。
前日からベッドの枕元によういしていたそれらを、おれは緊張しながら身に付け始めた。
黒いスライディングパンツを履き、長袖のアンダーシャツを着込んで、一息をついた。
「やべえ。緊張してきた」
9月15日。
ついに初陣の日を迎えた。
今日から約1週間、おれ達は春の甲子園をかけて、白球を奪い合う。
練習用のユニフォームとは全く違う感触の白いユニフォームに、足を通し、腕を通した。
黒いエナメル質のベルトをカチャカチャと鳴らしながら締める。
もう逃げ出す事はできない事に気付き、おれは全身を映す鏡の前に立った。
ぞくぞくした。
夢にまで見ていたこの数字をおれは今、たしかに背負っていた。
1
試合用のキャップのツバ先を両手でぐにゃりと折り曲げ、震える手で深めに被った。
鏡に映るおれは、戦闘態勢が整った顔をしていた。
エナメル質の黒いスポーツバッグに、昨日丹念に磨いたグローブとスパイクを詰め込み、肩から掛けて部屋を出た。
階段を1段ずつ踏み締めながら下りて行くと、母さんが弁当箱を抱えて玄関先に座っていた。
「おはよう」
「おはよう、響也」
夏井洋子(なついようこ)、40歳。
夏井家の裏の大黒柱で、おれの自慢の肝っ玉母さんだ。
「行ってくる」
「うん」
母さんは振り向き様に、ユニフォーム姿のおれを見て背中を叩いた。
「ついにこの日が来たわね! まずは一勝。翠ちゃんにプレゼントしてやんなさい」
「痛てえ」
母さんに叩かれた背番号1が、何くそ、と言っているような気がした。
「ほら、早く行きなさい。翠ちゃんのとこに寄ってくんでしょ」
「うん。じゃあ、もう行く。母さんと父さんは11時半までに来てよ。市営球場な」
「分かってる。響也、負けるんじゃないよ」
母さんから受け取った朝飯代わりのおにぎり2つと、ずっしり重い弁当箱をスポーツバッグに放り込み、おれは玄関を飛び出した。
「最高! 野球日和だぜ」
秋にしては珍しく雲一つ無き、水色晴天。
ギコギコ、音を鳴らしながら翠が待つ病院へ向かった。
長い坂道を下り、短い下り坂を一気に上り、大通りの路地裏を駆け抜けて病院に到着した。
病棟を歩いていると看護師さん達がおれを見ては振り返った。
そして、あっと小さな声を漏らしている。
この背番号はそんなにすごいのか。
いや、すごいのだ。
1
翠の病室は朝にしては有り得ないほど、賑やかで驚いた。
さえちゃん。
あかねちゃん、そうたくん。
「おはよう、翠」
少し緊張した面持ちで病室に入ると、そこにはショートヘアーになった翠がいた。
「グーテンモーゲン、補欠! カッコいいじゃんか」
「グーテン……モゲ……何すか、それ」
「ドイツ語でおはよって意味よ! 分かんないの? これだから補欠は」
ふう、と溜息した翠は呆れた顔をして、ベッドから体を起こした。
5日前は大変だった。
翠が長い髪の毛を切るのが嫌だと騒ぎ出して、さすがの看護師さん達もたじたじだった。
「命だ! 髪の毛は女の命じゃ! 切ったらぶっ殺す」
そう叫び散らし、朝っぱらからおれにしがみついて離れなかった時は、本当に参ってしまった。
隣の病室、ナースステーション。
トイレ、選択場、洗面所。
さらにあらゆる病室に駆け込んで逃げ回る翠を捕まえるのは、本当に苦労した。
8階から7階の間にある非常階段の踊り場でようやく捕獲した時、翠は半べそになって言った。
「髪の毛が短くなっても、補欠はあたしを嫌いにならない?」
翠を抱き締めながら、おれは可笑しくてたまらなかった。
可笑しくて、可笑しくて。
でも、いとおしかった。
げらげら笑ったのは、久しぶりの事だった。
当たり前だろ、とおれが答えると、翠は今で逃げ回っていたことなどまるで嘘だったように、
「あら、そう? じゃあバッサリ切るわ」
なんて、ケロッとして病室に戻った。
可笑しくて、可笑しくて、可愛いくてたまらなかった。
ショートヘアーになった翠は少し大人びて、また少し可愛くなった。
「補欠、勝っても負けても、ちゃんと報告に来なさいよ」
朝一番の翠の笑顔は、この秋の空によく映えた。
きれいだった。
「分かってる。翠も手術頑張れよ」
と言うと、翠はぽかんとした顔をして、おれを見つめた。
埴輪だ。
でも、フランス製の埴輪。
「何で? 頑張るのはあたしじゃなくて、お医者様だし」
それより腹減った、と翠はぐったりと横になって、ぺったんこで空っぽのお腹を可哀想に撫でた。
「補欠。あたしが復活したら飯おごって。たこ焼きとピザと、ラーメンとオムライスと、アイスクリームと……」
翠は天井を見つめながら細い指を食べたい物の数だけ、次々に折り畳んでいく。
さえちゃんは呆れた顔をして、クスクス笑っていた。
「はいはいはい! 分かった、分かった。全部食わしてやるよ」
「ヒャッホー! パラダーイス」
飛び起きて右手でガッツポーズを決めた翠は、これから手術をする患者とは思えないほど元気だ。
「じゃあ、9時から開会式だから。おれ、そろそろ行くな」
選抜の県予選は、県内4つの球場を使って行われる。
南高校の初戦はこの街の市営球場で行われるのだが、開会式だけは桜花大附属がある市内の球場で行われるので、学校からバスで向かう事になっていた。
一時間ほどかかるので、7時半にはバスが出発する。
「頑張れよ、補欠! まあ、さほど期待してないけどさ」
と翠は言い、嫌味ったらしく笑った。
そんな翠におれはスポーツバッグのポケットから、ある物を取り出して渡した。
「これ。手術室行く前に開いて、見て」
「何?」
「補欠流、黒魔術がかかってるから気を付けろ。呪われるかも」
おれが渡したそれは、あの日、翠から一羽だけ持ち帰った翠色の折鶴だった。
「何これ。あたしが折った鶴じゃん。何か細工でもしたのか?」
と翠が訊き、
「だから、補欠流黒魔術だって。翠の手術が無事に成功するように」
とおれが答えると、翠は嬉しそうに笑って、その折鶴をいつまでも握り締めていた。
翠の笑顔を見ていたい。
一番近い場所で、この先の未来も、ずっと。
フランス人形の笑顔の色は、翠色だ。
おれ達は何も言わずに自然に手を握り合い、静かに離れた。
病院を出てすぐ、おれは両手で空を仰いだ。
秋の深い青空を。
さあ、初陣だ。
学校へ到着するなり、おれに飛び付いてきたのは、岩崎勇気だった。
「あ! 来た来た! 夏井先輩」
背中にでっかい8を背負った、大型一年生。
「遅いっすよ。逃げ出したのかと思ったっす」
「阿呆。誰が逃げ出すか。ちょっと翠のとこに顔出して来たんだよ」
「ああ、今日でしたね、手術。翠さん、大丈夫そっすか?」
「馬鹿たれ、おれより元気だ」
「翠さん、可愛いんすよねー。好きになっちゃいそ」
「くだらねえこと言ってんじゃねえよ、生意気。ほら、バス乗れよ」
「おす」
おれが到着した時はもう7時半に5分前で、おれ以外はみんな揃っていた。
バスに乗り込み、市内の県立球場に到着した時、おれの野球魂に火がついた。
球場の駐車場にバスが停車して降りると、隣に停まっていた大型バスの側面に「桜花大学附属高等学校 野球部」とペイントされていたからだ。
あいつも、いる。
「修司」
球場の入り口で健吾とじゃれていると、声をかけられ振り向いた。
修司だった。
「響也、健吾。待ってたぜ」
白地に黒い縦軸が入り、胸元には黒い刺繍で「桜花大附」と名前が入ったユニフォーム。
全国にも名が知れている高校のユニフォームは、威圧感がすごい。
もう完全に桜花色に染められた修司が、おれ達の前で微笑んでいた。
相変わらず、片方にだけできるえくぼがよく目立っている。
部員達はそのユニフォームに圧倒され、目を丸くして固まっていた。
修司に飛び付いたのは、勿論、健吾だった。
「修司!」
「おう、健吾。久しぶり」
「久しぶり! うわ、やっぱ桜花のユニフォームは威圧感あるなあ」
健吾は言い、修司のユニフォームにべたべた触った。
「そういう人懐っこいとこ、健吾は変わってないなあ。懐かしいぜ」
と修司は言い、屈託のない笑顔で健吾を抱き締めた。
抱き締めながら修司は、健吾の肩越しにおれを見つめた。
「響也。やっと同じフィールドに立てるな。待ちくたびれた」
「待たせて悪かったな」
おれ達は3人で握手を交わし、睨み合った。
昔、同じグラウンドを駆け回った最高の仲間として。
そして、現在の最強のライバルになった証として。
予定時刻通りに開会式は行われ、今回の出場校は例年を上回る52校だった。
県内4つの球場でトーナメント式で試合は行われることになっている。
おれ達は市営球場のAブロック。
修司達の桜花は県立球場のBブロック。
もし、お互いに順調に勝ち進んだとして、次に顔を合わせるのは準決勝だ。
「響也、健吾。絶対、勝ち進めよ。準決勝で会おうな。待ってる」
開会式直後、バスに乗り込むおれ達に駆け寄って来た修司は、握手を求めた。
でかくて、ごつい手のひらだ。
グローブなんか使わなくても強烈なイレギュラーした打球に食らい付いていきそうに、修司の手は大きくて広かった。
「待ってろ! 準決勝で会おう」
健吾が言い、おれが続けた。
「修司こそ、絶対勝ち進めよな」
「当たり前だろ」