その日、朝になってもおばあちゃんは起きなかった。
「おばあちゃん、朝だよ」
ぼくはベッドの横に立って、おばあちゃんの肩を揺らしてみる。
いつもなら、ぼくが起こすより先に起きている。
台所からパンを焼く匂いがして、鍋の中ではスープがことこと鳴っているのだ。
『おはよう、リオ。顔を洗っておいで』
そう言って、笑ってくれる。
だけど、今日は何も聞こえなかった。
「おばあちゃん?」
もう一度呼んでみるんだけど、返事はない。
そのままおばあちゃんの所に行くと、眠っているおばあちゃんの顔はとても静かだった。
昨日の夜、おばあちゃんは少しだけ苦しそうに咳をしていた。
ぼくが「お薬作る?」と聞いたら、
『大丈夫だよ。少し疲れただけさ』
そう言って、ぼくの頭を撫でてくれた。
だから、寝れば元気になると思っていた。
「……まだ、疲れてるの?」
手を握ると、すごく冷たかった。
まるで冬の川の水みたいに、冷たかったんだ。
「おばあちゃん」
ぎゅっと握ってみる。
「寒いよ」
毛布をもう一枚持ってきて、おばあちゃんにかけた。
暖炉にも薪を入れた。
「《火起こし》」
ぽっ、と薪に火がつくと、ぱちぱちと音を立てて、部屋が暖かくなっていく。
「うん、これで大丈夫だよ」
だけど、おばあちゃんの手は温かくならなかった。
ぼくはしばらく、その手を握っていた。
それから、おばあちゃんが前に言っていたことを思い出してしまった。
『人はね、いつか眠るんだよ』
『眠る?』
『そう。とても長い眠りにつくんだ』
『朝になったら起きる?』
そう聞いたぼくに、おばあちゃんは少し困ったように笑った。
『その眠りだけは、朝になっても起きないんだよ』
あの時は、よく分かったような分からないような感じがした。
でも今は、分かった。
「……おばあちゃん、眠っちゃったの?」
返事を待っていても、おばあちゃんの返事はない。
「長い、おやすみなの?」
やっぱり、返事はなかった。
胸の奥がぎゅっと痛くなり、同時に泣いたら駄目だと思った。
おばあちゃんはいつも言っていた。
『リオは強い子だね』
だから、強い子でいなくちゃいけない。
「……おやすみ、おばあちゃん」
そう言ったら、涙が一つだけ落ちた。
それからぼくは、おばあちゃんのお墓を作った。
家の裏にある、大きな木の下——春になると白い花がたくさん咲く、おばあちゃんの好きな場所だ。
「《土ほぐし》」
杖を振ると、ふわりと土が柔らかくなった。
そこを小さなスコップで掘った。
何度も、何度も。手が痛くなったけれど、やめなかった。
おばあちゃんを一人にするのは嫌だったから、家から見える場所にした。
夕方になる頃には、小さなお墓ができた。
石を一つ置いて、その前に白い花を飾った。
「おばあちゃん……ここなら、寂しくないよ」
ぼくはおばあちゃんのお墓に座りながら言った。
家からすぐだし、毎朝、おはようって言えるし、夜には、おやすみって言える。
「ぼくもいるから、大丈夫だよ」
そう言った――でも、どうしてか涙が止まらなくなった。
「……ぼくも、大丈夫だから」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
◇
その夜、ぼくは初めて、一人でご飯を食べた。
パンと、昨日の残りのスープなんだけど、向かいの椅子には誰もいない。
「いただきます」
声が家の中に響いた。
いつもなら。
『はい、召し上がれ』
って聞こえるのに、今日は何も聞こえない。
ぼくは、スープを一口飲んだ。
「……おいしい」
おばあちゃんが作った最後のスープだった。
そう思ったら、なかなか次を飲めなくなった。
それでも全部食べた。
『食べ物を残したら駄目だよ』
おばあちゃんとの約束だから。
「……ごちそうさまでした」
食器を洗って、暖炉の火を消して、ベッドに入った。
怖くない――森の中で暮らしているんだから、獣の鳴き声なんて毎日聞いている。
怖くないはずだった。
「…………」
だけど、家って、こんなに広かったっけ。
風が窓を揺らしているのを見ると、木々がざわざわ鳴っている。
どこか遠くから、魔物の遠吠えも聞こえた。
「おばあちゃん……」
ぼくはおばあちゃんを、呼んでしまった。
返事はないのはわかっているんだけど、ぼくは毛布を頭までかぶった。
「……大丈夫」
強い子だから。
「ぼく、六歳だもん」
もう赤ちゃんじゃない。
一人で着替えられるし、料理も少しできるんだ。
掃除も洗濯もできるし、魔法だって使える。
だから大丈夫——そう何度も言っているうちに、いつの間にか眠っていた。
◇
次の日、朝日で目を覚ましたぼくは、いつものように言った。
「おはよう、おばあちゃん」
挨拶をしたんだけど、誰もいない事を思い出した。
「……あ」
胸がまた痛くなった。
でも、その時、おばあちゃんの言葉を思い出した。
『リオ』
亡くなる少し前、おばあちゃんはぼくをベッドの横に呼んだ。
『もし、私がいなくなったらね』
『いなくなるの?』
『もしもの話さ』
おばあちゃんは笑っていた。
そして、ぼくの頬を優しく撫でた。
『森の外へ行きなさい』
『森の外?』
『そうだよ』
『おばあちゃんも?』
そう聞いたぼくに、おばあちゃんは答えなかった。
ただ、少し寂しそうに笑っていた。
『外には、たくさんの人がいるし、リオがまだ知らないものも、たくさんある』
そして最後に言った。
『怖がらなくていい。お前ならきっと、大丈夫だから』
「……森の外」
ぼくは窓を見ると、ずっと遠くまで、木しか見えない。
ぼくは森の外へ行ったことがなかった。
少し怖い、けど。
「おばあちゃんとの約束だもんね」
ぼくはベッドから降りた。
小さな鞄を出して、パンを三つ入れた。
干したお肉と、水筒と、着替え。
それから――おばあちゃんが使っていた古い魔導書。
とても分厚くて、ぼくにはまだ読めないところもいっぱいある。
「むむ……重い」
でも、大事なものだから持っていく。
鞄を背負って、杖を持った後、最後に家の中を見回した。
「行ってきます」
挨拶をしたんだけど、返事は帰ってこなかった。
外へ出て、おばあちゃんのお墓へ向かう。
白い花が朝露に濡れていた。
「おばあちゃん」
墓石の前にしゃがむ。
「ぼく、森の外に行ってくるね」
もう一度、おばあちゃんの声が聞こえるかと思ったんだけど、やっぱり聞こえなかった。
「大丈夫だよ……ぼく、強い子だから」
ぼくはそのように言った後、立ち上がった。
森の向こうへ続く細い道を見る。
どこへ行けばいいのかは、分からない。
森の外に何があるのかも知らない。
だけど、おばあちゃんが行きなさいと言ったから、きっと大丈夫。
「いってきます!」
今度は少し大きな声で言って。
ぼくは六年間暮らした小さな家をあとにした。
――これが、ぼくにとって初めての旅になった。



