夏ちゃんへ。
この手紙が内地へ届く頃、兄の戦死の報せもまた、お前の元へ届いていることだろう。
兄が戦地へ向かう出征の日、駅の改札口でお前は兄の軍服の袖を握りしめ、ぽろぽろと涙をこぼしながら「どうか死なないで」と言ったね。あの小さな声と、すがりつくような手の温もりを、兄は一度たりとも忘れたことはない。
兄の死を知ったとき、夏ちゃんは深く悲しみ、「兄さんはどれほど死ぬ瞬間が怖かっただろうか」「どんなに痛く、恐ろしい思いをして冷たい泥の中に倒れたのだろうか」と、胸を引き裂かれるような思いで想像するに違いない。
けれど、夏ちゃん、どうか安心しておくれ。決してそうではないのだ。
内地を離れ、人間としての心を一刻ごとに削り取られるようなこの地獄の底にあって、死ぬことへの恐怖などとうに消え失せてしまった。それどころか、兄にとって死とは、あらゆる苦痛と絶望から解き放たれる唯一無二の「救い」であり、この上なく甘美な喜びでさえあったのだ。
実は、戦地にやって来てからというもの、兄はずっと死にたいと思い続けていた。自ら命を絶とうと、夜闇の中で小銃に手を伸ばしたことが幾度あったか知れない。しかし、まさに引き金に指を掛けようとしたそのとき、兵舎の同期に見つかり、激しく組み伏せられて止められたのだ。
「馬鹿野郎、自決なんぞしてみろ。自殺とみなされれば遺族年金も恩給も一切支払われなくなるんだぞ。遺された家族に非国民の汚名を着せ、路頭に迷わせる気か。どうせ死ぬなら、戦場で敵の弾に当たって死ね」
その言葉に、兄は打ちのめされた。早くに父さんを亡くし、母さんも体を壊している我が家で、お前が少しでも不自由なく、幸福に暮らしていくためには、国から支払われる遺族年金がどうしても必要なのだ。お前の未来を支える金を残すためにも、兄は身勝手な自殺すら許されなかった。
けれど、夏ちゃん、もう限界だ。兄の魂はとうに擦り切れ、一歩も先へ進めない。
だから兄は、明朝の出動要請の際、敵陣の銃火の前に身を晒し、弾丸に倒れたふりをして命を終えるつもりだ。これは国家のための戦死ではない。兄が自らの意志で選んだ、穏やかな死だ。
そこに怯えや嘆きは一片もない。暗闇から光の射す場所へようやく帰れるのだと、胸の奥底から静かな安堵が湧き上がっている。兄は、穏やかな笑顔を浮かべて逝ったのだということを、どうか知っておいてほしい。
死ぬ前にもう一度だけでいい、大好きなあの川のほとりで『源氏物語』を開きたかった。
春の風が吹き抜け、川面をはらはらと散る桜の花びらが一面に埋め尽くすのを眺めながら、あの「胡蝶」の巻を静かに読み耽りたかった。春の町の船楽の、あの息を呑むほど美しい光景を描く巻を、もう一度だけ、穏やかな気持ちで読んでみたかった。
手元に残されたのは、軍から推奨されたこの『萬葉集』一冊だけだった。頁をめくれば、かつて故郷を遠く離れ、筑紫の防人として駆り出された古代の人々の悲痛な叫びばかりが胸に迫り、まるで自分たちの影を見るようで、涙で文字が読めなくなる夜もあった。
けれど、それも今夜で終わりだ。
夏ちゃん。兄の命の灯火は消えても、魂はお前のそばに寄り添っている。
遺族年金が、少しでもお前のこれからの暮らしの助けになることを祈っている。どうか涙を拭い、兄のために心を痛めることなく、いつまでも、いつまでも幸福でいておくれ。
昭和十八年十一月二十九日夜
誠治
大好きな夏ちゃんへ
この手紙が内地へ届く頃、兄の戦死の報せもまた、お前の元へ届いていることだろう。
兄が戦地へ向かう出征の日、駅の改札口でお前は兄の軍服の袖を握りしめ、ぽろぽろと涙をこぼしながら「どうか死なないで」と言ったね。あの小さな声と、すがりつくような手の温もりを、兄は一度たりとも忘れたことはない。
兄の死を知ったとき、夏ちゃんは深く悲しみ、「兄さんはどれほど死ぬ瞬間が怖かっただろうか」「どんなに痛く、恐ろしい思いをして冷たい泥の中に倒れたのだろうか」と、胸を引き裂かれるような思いで想像するに違いない。
けれど、夏ちゃん、どうか安心しておくれ。決してそうではないのだ。
内地を離れ、人間としての心を一刻ごとに削り取られるようなこの地獄の底にあって、死ぬことへの恐怖などとうに消え失せてしまった。それどころか、兄にとって死とは、あらゆる苦痛と絶望から解き放たれる唯一無二の「救い」であり、この上なく甘美な喜びでさえあったのだ。
実は、戦地にやって来てからというもの、兄はずっと死にたいと思い続けていた。自ら命を絶とうと、夜闇の中で小銃に手を伸ばしたことが幾度あったか知れない。しかし、まさに引き金に指を掛けようとしたそのとき、兵舎の同期に見つかり、激しく組み伏せられて止められたのだ。
「馬鹿野郎、自決なんぞしてみろ。自殺とみなされれば遺族年金も恩給も一切支払われなくなるんだぞ。遺された家族に非国民の汚名を着せ、路頭に迷わせる気か。どうせ死ぬなら、戦場で敵の弾に当たって死ね」
その言葉に、兄は打ちのめされた。早くに父さんを亡くし、母さんも体を壊している我が家で、お前が少しでも不自由なく、幸福に暮らしていくためには、国から支払われる遺族年金がどうしても必要なのだ。お前の未来を支える金を残すためにも、兄は身勝手な自殺すら許されなかった。
けれど、夏ちゃん、もう限界だ。兄の魂はとうに擦り切れ、一歩も先へ進めない。
だから兄は、明朝の出動要請の際、敵陣の銃火の前に身を晒し、弾丸に倒れたふりをして命を終えるつもりだ。これは国家のための戦死ではない。兄が自らの意志で選んだ、穏やかな死だ。
そこに怯えや嘆きは一片もない。暗闇から光の射す場所へようやく帰れるのだと、胸の奥底から静かな安堵が湧き上がっている。兄は、穏やかな笑顔を浮かべて逝ったのだということを、どうか知っておいてほしい。
死ぬ前にもう一度だけでいい、大好きなあの川のほとりで『源氏物語』を開きたかった。
春の風が吹き抜け、川面をはらはらと散る桜の花びらが一面に埋め尽くすのを眺めながら、あの「胡蝶」の巻を静かに読み耽りたかった。春の町の船楽の、あの息を呑むほど美しい光景を描く巻を、もう一度だけ、穏やかな気持ちで読んでみたかった。
手元に残されたのは、軍から推奨されたこの『萬葉集』一冊だけだった。頁をめくれば、かつて故郷を遠く離れ、筑紫の防人として駆り出された古代の人々の悲痛な叫びばかりが胸に迫り、まるで自分たちの影を見るようで、涙で文字が読めなくなる夜もあった。
けれど、それも今夜で終わりだ。
夏ちゃん。兄の命の灯火は消えても、魂はお前のそばに寄り添っている。
遺族年金が、少しでもお前のこれからの暮らしの助けになることを祈っている。どうか涙を拭い、兄のために心を痛めることなく、いつまでも、いつまでも幸福でいておくれ。
昭和十八年十一月二十九日夜
誠治
大好きな夏ちゃんへ



