お父さま、お母さま。
わたくしの我儘と不孝を、どうかお許しくださいまし。この手紙をお読みになる頃には、わたくしはもう、この世の冷たい風の当たらない、青く深い海の底で安らかに眠っております。
どうしても、お伝えしておかねばならないことがございます。
わたくしは、罪をおかしました。神さまのお許しにならぬ、哀しい、けれどこの上なく美しい罪でございます。
わたくしは、同じ教室の八重子さまに恋をしてしまいました。
八重子さまは、そのお名前の通り、幾重にもかさなり咲きこぼれる八重桜のように華やかで、どこか儚げな方でした。歩かれるたびに衣擦れの音がさやさやと鳴り、そのお姿を見つめるだけで、わたくしの胸は苦しいほどに波打ったのでございます。
やがて、八重子さまもわたくしを好いてくださるようになりました。「澄江さまの横顔は、亡くなった母にとてもよく似ていらっしゃるわ」と、涼やかな声でささやかれたときの震えを、わたくしは一生忘れることができません。幼い頃にお母さまを亡くされた八重子さまは、いつも春の宵の風のように寂しげでいらっしゃいました。
けれど、幸福な夢はあまりにも短くございました。
昨年の秋、八重子さまのお父さまが後妻をお迎えになり、すべては暗い影に閉ざされてしまいました。
新しく来られたお母さまは、「女子に学問など無駄な贅沢」「女学校へ通わせるなど無駄遣い」と冷たく言い放ち、八重子さまから本も、ピアノも、自由な時間も奪ってしまわれました。そして先月、八重子さまの意に反し、見も知らぬ実業家の方との縁談が一方的に決められてしまったのでございます。
「私、この先にお嫁に行っても、幸福なんてものはないような気がするの」
放課後の誰もいない講堂の陰に咲く、遅咲きの鬱金桜の花びらが降り注ぐ中で、八重子さまはわたくしの肩に額を埋めて、啜り泣かれました。
「母もね、望まぬ結婚をして、心をすり減らして若くして死んだのよ。私もきっと、母と同じようにして、美しくない姿で死んでいくのだわ。汚れきってしまう前に、綺麗な処女のままで、あなたの胸の中で死んでしまいたい」
その言葉を聞いたとき、わたくしの迷いはすべて消え失せました。
わたくしもまた、八重子さまのいない灰色の世界で、誰の妻とも知れぬ身となって生きていくことなど、とても耐えられそうにありません。汚濁にまみれた世間の泥に足を取られ、いつか老いて、醜く変わり果てていく己を姿見に写すくらいなら――。
いま、もっとも清らかで、ふたりの愛が濁りを知らぬこの瞬間のまま、永遠の眠りにつくことこそが、わたくしたちに残された唯一の天国への扉なのだと悟りました。
これから八重子さまとふたり、鎌倉の別荘へ出かけてまいります。
雨に濡れた初夏の紫陽花を見て、夕暮れの鐘を聞いたあとに、波の静かな海へ手を取り合って歩んでまいります。
どうか、探さないでくださいまし。
お父さま、お母さま、これまで慈しみ育ててくださったご恩に、何一つ報いることもできず旅立ちますこと、ひらにご容赦のほどをお願い申し上げます。
さようなら。わたくしの身と心は、永遠に八重子さんと共に、清らかな海の底にあります。
昭和十一年六月二十三日夜
澄江
お父さま、お母さま



