月は数を数えない。街を沈めるように、どこか無関心だ。
もう息が吸えない。どのくらい走っただろう。何度も道を間違えているはずだが、気にしている余裕はない。
とにかく可能な限り、離れたい。
夜の山は深く、足を前に出しているのか、ただその場で足踏みをしているのか分からなくなる。
登山道は途切れもしなければ、行き止りもしない。この暗闇は永久だと呟き続けている。
腕と足の動きもちぐはぐになり、スマホの灯りが葉から葉へ大きく揺れた。無数の葉の視線を感じ、吐き気を催す。
服装は登山用ではないため、体力の消耗が激しい。
「せめて、ニューバランスを履いて来ればよかった」と口をついて出た。この異常事態を「よくある事」に収めようと、理性もしくは防衛本能というものが焼き切れんばかりに働いている。
肺も足も、痛い。
痛い、痛い、痛い、と叫ぶ甲高い声が耳を掴んで離さない。四方八方からこだまするその声を振り払うように、走り続ける。
足底は感覚がなくなってしばらく経つ。踏んでいるのが土なのか石なのか、判別がつかない。痛みの最中においては、麻痺が精神を保っているのかもしれない。
木の幹だろうか、硬い出っ張りに足を取られてしまった。咄嗟に左手を首から放す。
前へ突き出された左手は、月明かりを黒く反射させた。左手を纏う卵の白身のような液体は、夜風に吹かれ体温を奪おうとする。思っていたより首の出血がひどい。
胸から腹にかけて、びたりとつきまとう不快な肌触りの正体は、血に濡れたシャツだったようだ。
鉄の匂いが鼻を突くと同時に、体は地面に投げ出された。
もう、いいんじゃないか―と頭をよぎる。
執着の対象がはっきりとしない。無事に山を下りた先を走り続ける意義は持ち合わせていない。
山を下りようが下りまいが、同じことだ。それももう、ついさっきできなくなった。
痛い――
今夜、真の救いが訪れると彼女は言った。なぜ抗うのかとも。
痛い。痛い。
どれほどの時間、その場に転んでいただろう。一分そこらか、または一時間のようでもある。
呼ばれたような気がして後ろを振り返ると、道が開けている。二十メートルほど先に小さく道路灯が見えた。
道路灯を認識するより寸分早く、一瞬の静寂に包まれる。
肌を刺す葉の視線や夜風も感じない。
心地良い――
痛いと叫ぶ声は止み、鼓膜が布で覆われたかのように「ぼー」という低音と血が流れる音がこもる。
一歩、また一歩と道路灯を目指して進み始めると、麻痺が足底から、膝へ腰へと昇ってくる。
へその辺りが熱い。じんわりと赤や黄に色を変える道路灯に、腹の中をまさぐられているようだ。
出血の影響なのか、頭は鉛のように重く、一歩ずつの震動に頭が左右へ振れる。
ずざ ずざ
乾いた土を踏みしめる音が立つ。
ずざ ずざ
落ち葉を分けるように、何かを引きずっている。
ずざ ざ ずざ ざざ ずざ
違和感を抱くのが――自分の足音ではないと気づくのが遅かった。
ずざ ざ ざ ずざ
それは背後から来ている。
「は……す……」
意味を成さない音が喉から漏れる。
指先は冷え切り、足は地面に打ち付けられたかのように上がらない。
足音は真後ろで止んだ。
背に触れる気配が喉笛を締める。
きゅう きゅう
子鼠が鳴くような、細い息づかいが頭上から聞こえた。
息づかいは時間をかけて、背後から体の右側に移動する。
生暖かいものが耳を一度、二度、撫でた。
「くびらのびいゃった」
耳の傍で聞こえると同時に、強い力で足を引かれる。
抵抗する力は残っていない。足を引かれるがまま仰向けに転がる。
痛みは感じない。
木々の隙間から月がのぞき込む。
今夜の月も、ただそこにある。
もう息が吸えない。どのくらい走っただろう。何度も道を間違えているはずだが、気にしている余裕はない。
とにかく可能な限り、離れたい。
夜の山は深く、足を前に出しているのか、ただその場で足踏みをしているのか分からなくなる。
登山道は途切れもしなければ、行き止りもしない。この暗闇は永久だと呟き続けている。
腕と足の動きもちぐはぐになり、スマホの灯りが葉から葉へ大きく揺れた。無数の葉の視線を感じ、吐き気を催す。
服装は登山用ではないため、体力の消耗が激しい。
「せめて、ニューバランスを履いて来ればよかった」と口をついて出た。この異常事態を「よくある事」に収めようと、理性もしくは防衛本能というものが焼き切れんばかりに働いている。
肺も足も、痛い。
痛い、痛い、痛い、と叫ぶ甲高い声が耳を掴んで離さない。四方八方からこだまするその声を振り払うように、走り続ける。
足底は感覚がなくなってしばらく経つ。踏んでいるのが土なのか石なのか、判別がつかない。痛みの最中においては、麻痺が精神を保っているのかもしれない。
木の幹だろうか、硬い出っ張りに足を取られてしまった。咄嗟に左手を首から放す。
前へ突き出された左手は、月明かりを黒く反射させた。左手を纏う卵の白身のような液体は、夜風に吹かれ体温を奪おうとする。思っていたより首の出血がひどい。
胸から腹にかけて、びたりとつきまとう不快な肌触りの正体は、血に濡れたシャツだったようだ。
鉄の匂いが鼻を突くと同時に、体は地面に投げ出された。
もう、いいんじゃないか―と頭をよぎる。
執着の対象がはっきりとしない。無事に山を下りた先を走り続ける意義は持ち合わせていない。
山を下りようが下りまいが、同じことだ。それももう、ついさっきできなくなった。
痛い――
今夜、真の救いが訪れると彼女は言った。なぜ抗うのかとも。
痛い。痛い。
どれほどの時間、その場に転んでいただろう。一分そこらか、または一時間のようでもある。
呼ばれたような気がして後ろを振り返ると、道が開けている。二十メートルほど先に小さく道路灯が見えた。
道路灯を認識するより寸分早く、一瞬の静寂に包まれる。
肌を刺す葉の視線や夜風も感じない。
心地良い――
痛いと叫ぶ声は止み、鼓膜が布で覆われたかのように「ぼー」という低音と血が流れる音がこもる。
一歩、また一歩と道路灯を目指して進み始めると、麻痺が足底から、膝へ腰へと昇ってくる。
へその辺りが熱い。じんわりと赤や黄に色を変える道路灯に、腹の中をまさぐられているようだ。
出血の影響なのか、頭は鉛のように重く、一歩ずつの震動に頭が左右へ振れる。
ずざ ずざ
乾いた土を踏みしめる音が立つ。
ずざ ずざ
落ち葉を分けるように、何かを引きずっている。
ずざ ざ ずざ ざざ ずざ
違和感を抱くのが――自分の足音ではないと気づくのが遅かった。
ずざ ざ ざ ずざ
それは背後から来ている。
「は……す……」
意味を成さない音が喉から漏れる。
指先は冷え切り、足は地面に打ち付けられたかのように上がらない。
足音は真後ろで止んだ。
背に触れる気配が喉笛を締める。
きゅう きゅう
子鼠が鳴くような、細い息づかいが頭上から聞こえた。
息づかいは時間をかけて、背後から体の右側に移動する。
生暖かいものが耳を一度、二度、撫でた。
「くびらのびいゃった」
耳の傍で聞こえると同時に、強い力で足を引かれる。
抵抗する力は残っていない。足を引かれるがまま仰向けに転がる。
痛みは感じない。
木々の隙間から月がのぞき込む。
今夜の月も、ただそこにある。
