衝動的に家を飛び出した佳乃だったが、結局、富士山にはたどり着けなかった。
目指す途中で人助けをした縁で、薬師として雇ってもらえることになったのだ。
ことのはじまりは、乗り継ぎの電車を駅で待っていたときのことだった。
夕暮れが近づいており、宿を取るために早く大きめの街まで行きたいと考えていたところへ、男女の言い争う声が聞こえてきたのだ。
見れば、きらびやかな着物を着た初老の女性が、黒く大きな医者鞄を持った男性を引き止めているところだった。
「医者が匙投げてどうするんだい! たかがなんて言ってないで、あの子を楽にしてやってくれ!」
「あれは月のものがひどいだけで、病気ではないですよ。痛み止めは処方したでしょう。僕にはこれ以上のことはできません」
佳乃はしばらく周囲の人々と様子をうかがっていた。
二人の言い合いは平行線のまま埒が明かず、やってきた駅員が女性をなだめるが、彼女はより興奮するだけだった。
けれどその必死さから、患者である“あの子”はかなり苦しんでいるのだろうと察せられた。
やってきた電車に人々は流れていったが、佳乃だけはその場に残り、すすり泣きしはじめた女性に声をかけた。
「あの……私がお手伝いできるかもしれません」
女性の涙がスッと引き、猫が獲物を狙うような鋭い眼光で佳乃を見据えた。
(もしかして……泣いていたのは演技だった?)
そう思ったときには時既に遅し。
小柄で華奢な腕からは想像できない力強さで、佳乃の腕を握ってきた。
「お嬢さんが? 本当に助けてくれる?」
「これでも治癒……薬師の知識はありますので」
「なら良かった。僕はもう行きますからね!」
やっと帰れるといわんばかりに、医者は早口で別れの挨拶を告げ、去っていった。
女性は佳乃の手を引き「こっちだよ」と足早に改札を出ていく。
意外と速い。佳乃は足をもつれさせそうになりながらもその後を追った。
✣ ✣ ✣
佳乃が連れていかれたのは遊郭だった。
ちょうど赤らんだ空が夜の藍色とまざりあい、大通りの道沿いに並ぶ妓楼に光が灯り始めていく。
これから訪れる夜にあらがうような明るさに慣れず、佳乃は目をまたたかせた。
そのなかの一軒に女性が入り、佳乃もそれに続く。
二階の一室に、痛みで苦しむ花魁がいた。お腹を抱えてうずくまっている。
顔中に脂汗が浮かんでおり、かなりつらそうだ。
「本当に月のものだと思うかい? 身ごもってたり、流産の可能性を聞いてもそれはないってあのヤブ医者は言ってたんだが……」
「少なくとも、身ごもっているわけではないと思います」
佳乃は治癒能力を失っても、他人の神力を見る力は残っていた。
神力使いとして力を使いこなせなくても、生きている者は神力をもっており、佳乃が目を凝らせば体を纏う光が見えるのだ。
妊娠した人は光が二重に見えるのだが、目の前の花魁は一重だった。
「ともかく処方された痛み止めを飲みましょう。それからこのお茶を煎じたものも。体が温まります」
花魁に薬と薬湯を飲ませ、布団に横たわらせて湯たんぽを抱えてもらう。
佳乃が声をかけながら腰をさすると、半刻ほどで花魁の表情がおだやかになった。
「ありがとう。いつもより痛みが重くて……助かったわ」
「お役に立てて良かったです」
二人の様子を見守っていた女性もほっと息をついた。
「楽になったようで良かったよ」
「ぜんぜん違うの。女将さん、この子すごいわ」
初老の女性はここの女将だったのか、と今さら名前を聞いてなかったことに佳乃は気がついた。
それは女将も同じだったらしく、佳乃の目の前に立って尋ねてきた。
「お前さん、名前は?」
「……佳乃です」
「ふうん? 名乗れるのは名前だけかい?」
「申し訳ありませんが」
「なんだい。訳ありか」
図星だった。佳乃が言い淀んでいると、女将は軽快に笑った。
「怖がらなくていいよ。ここは訳ありの者ばかりだからね。秘密のひとつふたつはどうってことない。それより佳乃、ここで働かないかい?」
「雇っていただけるのですか?」
「ああ。医者はみんなあんな調子で、妓楼の人間には寄り添っちゃくれないからね」
どうだいと尋ねられ、佳乃は迷った。
死んでもいいと思って逃げてきたから、働き口を探すなんて考えもしなかった。
そもそも、神力を使い果たし治癒能力の使えなくなった自分が役に立てる場所があるなんて、思いもしなかったのだ。
「ねえ、私からもお願い。佳乃がいてくれたら心強いよ」
布団に伏せていた花魁がゆっくり起き上がり、佳乃の手を握った。
「では……お役に立てるか分かりませんが、よろしくお願いいたします」
佳乃が頭を下げると、女将はふっと吹き出した。
「給金がいくらもらえるかも聞かないで決めるなんて危なっかしい子だねえ。まあ不便はさせないよ。これからよろしく」
「女将さんが出し渋ったら私から請求するから安心して。あ、私は花魁の牡丹よ。よろしくね」
こうして、勤め人としての生活が始まった。
✣ ✣ ✣
それから一週間もすると、妓楼の薬師として佳乃はすっかりなじんでいた。
小さな困りごとも丁寧に症状を聞き、一人ひとりに合わせて薬を調合するため、花魁たちからの信頼をあっという間に勝ち取ったのだ。
今日も──
「佳乃、最近寝付きが悪いの」
「喉が痛くて声が出しづらいんだけど……」
「私は吹き出物ができちゃって。いい塗り薬ある?」
こんな具合で、佳乃の部屋は小さな診療所と化していた。
忙しいけれど、やりがいがある。治癒師としての能力がなくても、自分はまだ人の役に立てるのだと思うと、佳乃は誇らしかった。
順番に薬を調合し、飲み方の説明をしていると、一人の禿──まだ10歳程度の花魁見習いの少女──がやってきた。
急な不調かと身構えた佳乃をよそに、禿は声を弾ませた。
「姉さんたち! 今夜はね、雅様がいらっしゃるんだって!」
「あら、本当?」
「今夜は誰を指名されるかしらねえ」
「そりゃあこの妓楼で一番の牡丹姉さんよ」
「蝶まじりの方は気の多い方ばかりだからねえ……どうかしら」
禿や花魁が賑やかに話すのを聞いていた佳乃は、“蝶まじり”という一言に肩を震わせた。
蝶の妖と人間の混血を意味する言葉で、楓雅を思い起こさせる。
「雅様って?」
「佳乃は初めてよね。ちょっと前からふらっと現れた遊び上手な殿方よ」
「遊び上手?」
「金払いが良くて人柄も良くて、後腐れがないの。身分を隠してるけど、絶対いいところのお坊ちゃまよ。妖まじりの方はどの方も綺麗だけど、雅様はひときわ美しいの」
「へえ……」
「なんでも心に決めた方がいるとかでね、どの花魁とも深い仲になったことはないの。その一途なところもいいのよね」
「……心に決めた方がいるのに、あちこちで遊んでいるということですか?」
深い仲になっていなくても、女たらしであることにはかわりなく、それが長所になるのか疑問に思う。すると牡丹はにっこりと微笑んだ。
「妖まじりの方々は、神力がうまく作れたいことは知ってる?」
「そうなんですか?」
知らなかったし、あまり深く考えたことがなかった。
楓雅は病弱だから、神力を補充する必要があるのだろうとぼんやり思っていたくらいだ。
「雅様は私たちから神力をもらいにきているの。少しの間手を握るだけで、夜のうちに帰るのよ。花魁一人分の神力じゃ足りないから、毎日相手を変えなきゃいけなくてね」
「なるほど……事情があるんですね」
牡丹が興味深そうに目を輝かせた。
「佳乃が殿方に興味を持つなんて珍しいわね」
「昔、蝶まじりの知り合いがいたから……」
「へえ! 雅様のお顔を見てみる? もしかしたらそのお知り合いかも」
「ありがとう。でも、その方はもう亡くなっているから」
困ったように微笑んだ佳乃を見て、牡丹は気まずそうに視線を下げた。
「そうだったの……。でも、一目見るだけでもどう? 疲れが癒されるくらい美男子だから」
「疲れが癒される? すごいわ。薬師いらずじゃない」
「そうよ。商売敵の顔は見ておかないと」
「もし、知り合いに顔が似ていたら動揺しそうだから……やめておくわ」
「分かった。気が変わったら宴会場を覗いてみてね。さて、じゃあ私はそろそろ行くわ」
牡丹につられてほかの花魁や禿も出ていった。
部屋が静かになったせいか、自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。
雅様という青年が楓雅と似ていたら、そう考えただけでドキドキと速くなっていく。
(何年経っても、楓雅様のことを考えるだけで私は動揺するのね。その雅様には会わないようにしましょう)
こんなに簡単に、しかも本人を見てもいないのに心が惑わされてしまう。
しかも会っても佳乃は雅の役には立てないのだ。
若白髪になるほど神力をなくしてしまった今、花魁たちのように雅へ神力を分けることはできない。もし触れてしまったら、残ったわずかな神力ばかりか、寿命も吸い取られてしまう。
そんな厄介な女を、雅が相手をするとは思えなかった。
✣ ✣ ✣


