それから、佳乃の生活は悪い方に一変した。
「はやく起きなさいよ」
昨日まで使用人として接していた女中の2人に起こされたのは、夜明け前の時間だった。
「うわ、本当に白髪だわ。気味が悪い」
「艶もなくなっておばあさんみたい」
「あの……何か用ですか?」
戸惑う佳乃に対して、2人は顔を見合わせて肩をすくめた。
「自分の状況を理解していないのね」
「仕方ないわよ。一夜で自分が役立たずになったなんて、認められなくても無理ないわ」
「役立たず……?」
「旦那様に教えてもらわなかったの? お嬢様……じゃない、佳乃はもう何の力もない。この家のお荷物なの」
「お荷物が世話をされるなんておかしいでしょ? せめて食事がもらえるよう、懸命に働くのよ」
肌触りの悪い木綿の着物と前掛けを渡され、言われるままに着替えた。
頭はいまだ混乱中で、楓雅と二度と会えないと考えるだけで涙がにじむ。
力を失ったことによる倦怠感で、歩くだけでも息が上がる。
けれどそれを訴えても、“甘えるな”の一言で片付けられてしまう。
「私たちはかまどの火をつけるから、井戸から水を汲んできて」
「台所の水がめに入れるのよ。サボったら奥様に報告するから」
桶を渡され井戸の前にぽつんと残される。
奥様……つまり義母に報告されたら何をされるか分からない。
気に入らない女中を竹の物差しで叩くなんて日常茶飯時だ。
目のうえのたんこぶだった佳乃が神力を失ったとあらば、絶対に手を出してくるはず。
責められる要素は少しでも少なくしておいたほうがいい。
そう判断した佳乃は、重たい体を引きずって懸命に水を運んだ。
その後も掃除や洗濯といった下働きとしての仕事を割り振られ、佳乃は疲労困憊していた。
食事を出されても喉を通らない。心身ともに疲れていただけでなく、乾いたご飯に水で薄めたと思われる汁物を、弱った心身が受けつけなかったのだ。
おまけに、やっと一日が終わったと物置小屋に戻ろうとした佳乃を義母が呼びつけた。
「役立たずのくせに、雑用もまともにできないなんてねぇ」
義母の部屋で正座をさせられ、延々と佳乃がいかに愚かであるかを説かれた。
もちろん座布団なんて与えられず、畳に直接座らされている。
足のしびれを自覚していたのは遠い昔で、今はもう足全体の感覚がなくなり、いつ終わるのだろうと考える気力さえなくなっていた。
いつの間にか気を失っていた佳乃は、頬を思い切り叩かれて目が覚めた。
「汚いままここで寝ないでくれる? さっさと自分のいるべき場所に戻りなさい」
当然歩けない。しかし手を貸してくれる人はいない。
やっとの思いで廊下に這い出た。雲が濃いのか、いつもより暗い廊下を眺めていると、さらに心が萎えていく。
「いい気味ね」
頃合いを見計らっていたのだろうか。通りかかった義妹が、佳乃を見下ろすと鼻で笑った。
「お姉様ってば、本当にただの穀潰しになっちゃったのね! あんなに楓雅様をお救いするだの何だの言っていたのに。自惚れた罰ね。お気の毒!」
言い返すことはおろか、顔を上げるのもしんどい。
(……楓雅さまに会いたい)
「楓雅様に会いたいって考えてるの?」
「!!」
目を見開いた佳乃に気づいたのか、義妹はニヤリと意地悪く微笑んだ。
「今まで神力頼みだったから、頭が悪いのね。たとえ楓雅様が生きていらしても、今のお姉様を相手になんてしないわ。抜け殻状態の役立たずでしょう?」
義妹の言葉は一字一句、容赦なく佳乃の心を切り裂いていく。
楓雅を失った悲しみとは別に感じていた不安を、そのまま言い当てられた。
「……それでも、楓雅様が健やかにすごされていたら、なんでもよかったわ」
「あはは、おかしい。お姉様が殺したのにね」
「そうね……完治させられるという私の慢心が」
「違うわよ。お姉様は楓雅様に毒を渡していたの」
「え?」
「気づかなかった? 仁科家の秘薬、あれは毒だったのよ。お父様はね、生かさず殺さずで治療期間を長引かせようとしたの。でも、最近は少し元気になられたでしょう? だから濃い毒に入れ替えておいたんですって。でも、ちょっと強すぎたみたいね」
「そんな……では、私がやっていたことは……」
「無意味どころか、害悪だったわね。いい気味ね。さっさと消えて」
義妹は廊下に這いつくばる佳乃の背中を躊躇なく踏みつけ、振り返りもせずに行ってしまった。
背中の痛みをかばいながら、時間をかけて佳乃は物置小屋へ戻った。
幸い、薬箱は没収されていなかった。
何があっても自分でなんとかしろという意図なんだろうが、佳乃としてはありがたい。
治癒師に必要な神力はなくとも、薬草の知識はあるため自分で手当ができる。
手当をしながら、義妹から明かされた事実がぐるぐると頭を巡る。
(毒を飲ませていたなんて──)
自分と関わらなければ、とっくに楓雅は健康になっていたかもしれないということだ。
「なにが治癒能力よ。大切な人を救うこともできないなんて……」
それから佳乃は、物置小屋で毎晩涙を流した。
何年もそんな日々が続き、佳乃が二十歳になり成人を迎えても続いた。
なめらかだった佳乃の指は、すっかりあかぎれとその治療痕だらけだ。
母の残してくれた書物を読んだり、幼い頃に学んだことを思い出しながら、神力を扱う初歩的な訓練を行ってみた。
けれど、神力の扱いどころか、力の量が回復する兆しさえなかった。髪ももちろん白いままだ。
成人式を控えてどんどん華やかな装いになり、それが様になっている義妹を見るたび惨めな気分になるが、分不相応だと諦めるしかなかった。
ある日、佳乃は父に呼び出され、居間を訪れた。
父と義母、そして義妹と座卓を挟んで向かい合うと、このまま回れ右して立ち去りたい衝動に駆られる。
義母と義妹から嫌味を言われたり罵られるのは、今でも日常茶飯時だ。
けれど父は、蓼藍家の屋敷から帰宅する車内で怒鳴ったきり、佳乃の前に姿を現さなかった。それなのに今さら何の用があるというのだろう。
「お前に御三家の蜂喰家から縁談がきている。とても光栄なことだ」
御三家とは、この国の頂点に君臨する、天帝を支える有力華族の筆頭だ。
何代も前から三家は権力争いをしており、蓼藍家がここ何代かは優勢だったが、楓雅が亡くなってからはやや劣勢らしいと噂話を耳にしたことがある。
仁科家は治癒師の家系とはいえ、華族ではない。類まれなる才能ともてはやされた以前の佳乃でも、御三家に嫁入りなんてありえない話だった。
神力がなくなったのに迎え入れようとする家があるなんて、天変地異が起こる予言でもないとありえない。
「なぜ、蜂喰家の方が私を……?」
「お姉様、まさか跡取りの刹那様のお相手になれると思ってる?」
義妹が呆れたように笑った。
単に理由を聞いただけで、刹那とかいう男性のことは何も知らないし興味もないが、反論したところで罵倒が返ってくるだけだ。佳乃は沈黙したままでいた。
父が口角を上げた歪んだ笑みを浮かべる。
「迎えてくださるのは先代様だ。毛色の珍しい娘がお好みらしい」
先代様といえば、蓼藍家の長老様とそう変わらない年齢だったはず。
自分の祖父母と近い年齢の方に嫁ぐなんて……とショックを受けるものの、頭の何処かでなるほどと納得してしまう。
蜂喰家の先代様が珍しいもの好きなのも、噂好きの女中たちが面白半分によく話している。
あらゆる人や物を蜂喰家の権力と財力で収集しているらしい。同じくらい、集めたものを壊すことにも熱心で、心身ともにやつれて廃人になった娘は後を絶たないという。
そんなところに行くなんて。
佳乃は考えただけで指先が小刻みに震えてきた。
しかし父は上機嫌で、声も明るい。
「お前には誰からも御縁がないだろうと考えていたが、まさか御三家と縁続きになれるとは。穀潰しでも生かしておくものだ」
その隣で、義母も声を弾ませた。
「こんな形であなたが役立ってくれるなんて思わなかったわ」
「おめでとう、お姉様」
三人とも和やかに話しているが、佳乃を見る視線には、拒否したら許さないという意思が含まれている。
その証拠に各々言いたいことを告げ、佳乃の返事をまたずにそれぞれの自室へと戻ってしまった。
一人残された佳乃は、女中にうながされて立ち上がり、物置小屋へ向かった。
(私の人生って、何なんだろう)
治癒能力は、ずっと家のために使ってきた。
自分のために使ったのは、楓雅を救いたいと思って全力を捧げたあの一度だけ。
力をなくしてからも、なにか役に立てと言われるまま仕事をこなした。
義母や義妹の嫌味や小言に反論しなかった。
寒さや虫をしのげない物置小屋で、文句ひとつ言わずに生活した。
その仕打ちがこれなのか、と。
そのまま呆けていたらしい。いつの間にか外は暗くなり、夜回りの人々が拍子木を打ちながら火の用心を呼びかけている。
(このまま死んでしまおうか)
衝動的に思った。もうどうなってもいい。
あの世で楓雅や実の母に会えるなら、今よりも幸福だろう。
死ぬにも準備が必要だということで、少ない私物を整理し始める。
風呂敷一枚で包めるくらいの物しか持っておらず、すぐに終わってしまった。
「これ……楓雅様にもらった……」
見覚えのある巾着の表面を撫でてみる。
空色の糸で織った布が、窓からさしこむ月明かりでもキラキラと光っていた。
持ち上げるとチャリンと軽快な金属音が聞こえ、中身を取り出してみると、金貨が数枚入っていた。
──少ないけどもらってほしい。僕から佳乃への感謝の気持ちだ。
楓雅が亡くなる前日にもらった物だ。
謝礼は蓼藍家からもらっていると佳乃が遠慮しても「僕の気持ちだから」と、彼は絶対に譲らなかった。
先に根負けしたのは佳乃で、いつか返せばいいと考えて受け取ったのだ。
まさか、翌日に形見になるとは考えもしなかったが。
よく磨かれた金貨は、触れたら汚してしまいそうで袋にしまったままだった。
死ぬ前くらい、何が描かれているのか見ておこうと確認し、表面に藤の花が刻印されているのを見つけた。
細かな花びら一枚一枚が立体的に浮き上がっている様子に見惚れていると、楓雅の願いを思い出した。
「……富士山」
亡くなる直前、楓雅は佳乃とやりたいことのひとつに、富士山頂に登った景色を共に眺めることを挙げていた。
「行かないと……どうせ死ぬなら、楓雅様がしたかったことをやろう」
やり残したまま死んでしまったら後悔する。
もし道半ばで倒れて死んでしまっても、富士山の一部になれるなら、満足できる気がする。
少なくとも、蜂喰家に嫁いで殺されるよりずっといい。
楓雅にもらった金貨が一緒なら心強い。
「うん、そうしよう」
佳乃はこの金貨以外に金銭をもっていない。
蓼藍家からの謝礼は家の金として使われ佳乃には回ってこないし、使用人としていくら働いても、給金をもらったことがない。
楓雅にもらった金貨は5枚。
これを切り崩しつつ、1枚は残して登山しなければならない。
(やってみよう。楓雅様。見守っていてくださいね)
巾着を着物の懐にしまいこみ、風呂敷包みを抱えると物置小屋の隠し扉を開けた。
この扉はもともとあったわけでなく、生け垣に接する壁が傷んだのを自己流で修理した際にできたものだった。
また、生け垣一部も傷んでいて、よく見ると人が通れる隙間が開いている部分がある。
(逃げようと思えばいつでも逃げられたのね)
どうしてもっと早く思いつかなかったのだろう。
いらないと追い出されるのなら、自分の足で走るほうがいい。
佳乃は風呂敷包みを抱え直すと、夜の闇に紛れて逃げ出した。
✣ ✣ ✣


