「私の妻をどこへ連れていく」
「景殿……!」
振り返った先で景が青年を見据えていた。口調こそ落ち着いてはいるものの、その目には怒りの色が現れている。
「ああすみません、奥様の具合が悪そうでしたので。休憩室に案内しようとしてたんですよ」
景の視線に雪緒は何も答えることができない。彼は青年への警戒を解かぬまま、形だけの謝辞を述べる。
「妻が世話になった」
「いえいえ。では僕はこれで」
去って行く背を睨んだまま、景はこちらを見ることなく訊いた。
「具合が悪いのか」
「大丈夫だ。長旅で少し疲れただけだ」
「わかった。今夜はこれで切り上げる」
「え、いや私は大丈夫だと」
返事を最後まで聞くことなく、彼は雪緒の手を取ると会場をあとにした。無言で歩く横顔に、慌てて問いかける。
「待ってくれ。まだ来賓者と話があったんじゃないのか」
「長峰殿との話は終わった。他はどうでもいい」
「でも……」
有無を言わさず迎えの車に乗せられ、宿泊ホテルへ向かう。道中もずっと景は無言で、雪緒はなぜ彼がこんなにも不機嫌なのかがわからない。
(きっと私の振舞いがまずかったんだ)
ああいった場に馴れていないせいで、気づかないうちに恥をかかせてしまったのだろう。そう思うと申し訳ない気持ちで胸が潰れそうになる。なにより青年の言ったことが、雪緒の中に重く暗い影を落としていた。
ホテルに到着し、案内された部屋に入った雪緒は思わず声をあげた。
「景殿と一緒の部屋じゃないか」
「当り前だ。夫婦が別々の部屋に泊まるわけにはいかないだろう」
「それはそうだが……」
名取川家では互いに別の部屋で過ごしているため、急に一つ屋根の下で過ごせと言われても、どうすればいいかわからない。
気まずさから景の顔を見られずにいると、おもむろに彼が口を開いた。
「なぜ拒まなかった」
なにを聞かれたのかが分からず戸惑っていると、こちらを振り向いた景が詰め寄ってくる。
「なぜあの男の誘いを拒まなかったと聞いている」
「それは……」
理由が理由だけに、雪緒は口を閉ざすしかなかった。咄嗟の言い訳など、聡い彼が納得するはずもない。
「まさかあの男に惚れたのか?」
「ち、違う!」
「じゃあなぜだ!」
強い口調で詰問したあと、景は何かに気づいたような顔になった。
「……まさか脅されたのか」
雪緒は逡巡したが、隠しきれないと観念した。
「あの男は私の過去について知っていた。長峰殿にバラしたら景殿にも迷惑をかけると……」
絶句する彼をじっと見つめる。心の内で渦巻いていた感情を、もう抑えきれなかった。
「私は足手惑いだということがよく分かった。このままではいつか君に迷惑をかけてしまう」
この言葉を口にするのはつらい。けれど今身を引かなければきっと後悔すると、雪緒は意を決した。
「今からでも遅くはない、私たちは離縁すべきだ」
そう告げた瞬間、視界が反転した。
ベッドに押し倒されたのだと自覚したとたん、頭が混乱する。こちらを見下ろす景の表情からは何も読み取れない。
「景殿、どういうつもりだ?」
「どういうつもりもなにも、私は君の夫だが」
雪緒に覆いかぶさった彼は、ゆっくりと顔を近づけてきた。鼻先が触れそうになったとき、我に返り何とか抵抗する。
「ま、待ってくれ! この結婚は形だけのものじゃなかったのか」
「最初はそのつもりだったが気が変わった」
「な……」
景が何を言っているのかわからない。目の前にいるのは『けいちゃん』ではなく、自身を組み伏せる大人の男なのだと嫌でも思い知らされる。
彼の吐息が耳にかかり、背筋がぞくぞくする。体の内が熱くなり何も考えられない。
完全にオーバーヒートしてしまった雪緒は、まるで少女のように震えていた。そんな様子を見た彼は困ったように苦笑し、微かに嘆息する。
「そんな顔をされたら何もできないな」
彼の指の背がそっと雪緒の頬を撫でた。激しい鼓動に翻弄されながらも、少しずつ状況を理解した彼女は消え入るように問いかける。
「その……景殿は……私を女として見ているのか」
「そうだ」
「……いつから」
「君と暮らし始めてひと月くらい経った頃だ」
「そんなに前から⁉」
思わず声をあげた先で、彼は少々困ったようにうなずいた。
「もっと早く伝えるべきか迷ったが。雪緒の気持ちが変わるのを待っていた」
「どうして……」
「君は私のことを『けいちゃん』の延長でしか見ていなかっただろう」
確かに今の景が見違える男になったとはいえ、雪緒はしばらくの間、あくまで幼馴染として彼のことを見ていた。
少しずつ見方が変わっていったのは、初めて一緒に出掛けた頃からだったろうか。
「私は弱みに付け込んで君を妻にしたようなものだ。せめてこういうことは無理強いしたくないと思っていたんだが」
見知らぬ男が雪緒の腰に手を回しているのを見て、理性が吹き飛んだ。そう語る彼は珍しく弱ったような顔をしている。
「嫉妬心から君に怒りをぶつけてしまった。そのうえ離縁などと言い出すから……」
「す、すまない……」
「謝るのは私だ。不安にさせてすまなかった」
景は雪緒に向き合うと、長峰氏には妻の事情を話したと語った。
「この先何があっても添い遂げるつもりだと伝えた。だから君が私に遠慮する必要は何もない」
驚く雪緒の手を彼は取り、甲にそっと口づけする。
「あの頃からずっと、私の心は君に占められている」
男の雪緒に憧れ、女の雪緒に焦がれた。
こちらを見つめる色素の薄い瞳が、甘さと熱を帯びてゆく。
「君と真の夫婦になりたい。私を愛してくれ、雪緒」
少しの間のあと、雪緒は手を伸ばし、景の頬に触れた。
自分のような女など、誰にも愛されないと思っていた。
せめて彼には幼馴染としてでいいから慕ってほしいと、願うようになっていたけれど。
「本当に私でいいんだな?」
「私には君しかいない」
用済みだと捨てられた雪緒にとって、その言葉は何より嬉しいものだった。景の頬にそっと口づけた彼女は、目元を滲ませながら微笑んだ。
「ありがとう。私も景殿が好きだ」
そう告げた直後、再び雪緒は押し倒されてしまう。どうしようまだ心の準備がと固まっていると、景は彼女の額に口づけを落とし、幸せそうに笑うのだった。
「本当に可愛いな、雪緒は」
結局その夜はそれだけで、二人でひとつのベッドに眠った。人の体温を感じながら眠るのは子供の頃以来で、雪緒はもうずっと忘れていた幸せという感情に満たされながら眠ったのだった。

