◇
「ゆきお、ゆきお!」
自身を呼ぶ友人の声に、剣術の稽古中だった雪緒は振り向いた。
「どうしたんだ、けいちゃん。そんなに急いで」
「聞いてくれ。私、今週は熱が出なかった」
息を切らすけいちゃんの白い頬に赤みがさしている。どうしても雪緒に話したくて、ここまで走ってきたのだろう。
そんな彼女の一生懸命さが可愛くて、思わず笑みが漏れた。
「それはよかったじゃないか。体が丈夫になっている証拠だ」
「だろう? 私もそう思う!」
大きく頷いたけいちゃんは、それは嬉しそうに笑った。色素の薄い瞳と亜麻色の髪が、陽の光できらきらと輝いている。
一年ほど前近所に越してきた彼女は、年頃の近い雪緒に懐き、近頃では毎日のように顔を合わせていた。けいちゃんは自分のことをあまり語りたがらないが、身に着けた所作から見るにそれなりの家柄の娘なのだろう。
華奢で小柄な彼女はいつも髪を大きなリボンで結い上げ、愛らしい絵柄の着物を身に着けている。可憐な見た目と少女らしからぬ話し方が面白いと、雪緒は感じていた。
袴にたすき姿の雪緒を見つめていた彼女は、ふいにきゅっと口元を引き結んだ。
「このまま元気になれば、私もゆきおのようになれるだろうか」
「けいちゃんが僕のようになる必要はないよ」
こんなにも愛らしい少女がなぜ自分のようになりたいなどというのか。あまりのギャップに、苦笑してしまう。
「そんなことはない。私はゆきおのように強くなりたいのだ。そうでなければ……」
そう言ってけいちゃんはどこか思いつめたような目をした。その理由が分からず、雪緒は小首を傾げる。
「けいちゃん?」
「……なんでもない。稽古中に邪魔して悪かった」
きびすを返す背を思わず呼び止める。
「稽古が終わったらうちにおいで。この間けいちゃんが好きそうな本を見つけたから、一緒に読もう」
「いいのか? 私と遊んでいたらまた御父上に叱られるんじゃないか」
「叱られるのなんて慣れてる」
そう言って悪戯っぽく笑って見せると、けいちゃんもつられて笑いだした――
◇
目を覚ました雪緒は、ようやく見慣れてきた天井をぼんやりと見つめていた。
「……懐かしい夢を見たな」
この家に来るまで、ほとんど思い出さなかった記憶。けれどあの日々のことを忘れたわけじゃない。
三枝の後継者に指名されて以降、雪緒は苛酷な生活を強いられていた。遊びは一切禁じられ、稽古が終われば座学、座学が終わればまた稽古と、疲れ果てて眠りに落ちるのが常で。
蝶よ花よと育てられる華代を横目に、あの頃は跡継ぎとしての使命を果たそうと必死だった。
そんな日々を送っていた雪緒にとって、『けいちゃん』との交流はささやかな癒しだった。突然引っ越していなくなったときは、ずいぶん傷ついたものだ。
どうして何も言ってくれなかったのか。友達だと思っていたのに、彼女にとって自分はその程度の存在だったのかと――
(今さらになって再会するとは、思いもよらなかった)
しかもあれほどまで凛々しい美丈夫となって現れるなど、誰が予想できるだろう。再開した幼馴染に対する複雑な感情を、雪緒はいまだに持て余している。
名取川景の求婚を受けてから一ヶ月。
滞りなく彼の妻となった雪緒は、あの日から名取川家で暮らしていた。経緯が経緯だけにどんな扱いを受けるのか身構えていたが、予想に反して彼は雪緒のことを丁重に扱ってくれている。
衣食住を整えるのはもちろんのこと、雪緒のための専用訓練室まで準備してくれて申し訳ないほどで。
「君から技術供与を受けるのだからこれくらい当然だ」
さすがは御三家だけあって何もかもに余裕を感じる景に、かつての弱々しい姿はない。それはよかったと思う反面、少しだけ寂しい気持ちもあった。
あの頃から自分は何も変われていないことを、まざまざと突き付けられるから。
彼との関係については、かつてのような気やすさは無いものの、概ね良好なものとなっている。
最初こそ挨拶を交わす程度だったが、道場のことで相談するうちに話す機会も増え、近頃はちょっとした世間話もするようになっていた。
とはいえ結婚は契約上のものであるため、彼との間に夫婦らしいやりとりはない。あくまで雪緒は天刀流異能術を授ける術士であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。
こんな形だけの妻を名取川家の人間はどう思っているのだろう。妻としての雪緒はまったくの役立たずなのだから、普通に考えれば後継者問題が持ち上がってくるはずだ。
(私が景殿の子を産むわけではないし、彼が妾でも囲えば解決するのだが)
今のところ彼にそのつもりはないらしい。
であるならば名取川家の人たちから邪険にされても仕方ないはずだが、今のところ彼らからは丁重な扱いを受けている。いやむしろ、歓迎ムードさえある空気に、雪緒は少々戸惑っていた。
「おはようございます奥様」
今日も雪緒付きの女中たちが、かいがいしく世話を焼いてくれる。道場で稽古する際は今でも男物の袴を身に着けるため、支度を手伝ってもらっているのだが。
「雪緒さま今日もお美しい……」
ためいきを漏らした女中は、なぜだかうっとりした表情で雪緒を見ていた。稽古着に美しいも何もないだろうと思いつつ、手伝いに対して礼を言う。
道場へ向かっていると、出勤支度を済ませた景が顔をのぞかせた。
「今から稽古か。早いな」
「三枝の家ではもっと早かったからな。それにここに来てから調子がいいんだ」
そう言って雪緒はこちらを窺っていた女中たちに微笑みかける。
「きっと良い食事のおかげだ」
目が合った女中たちが、顔を赤くしながら去って行った。不思議に思いつつ景に挨拶して別れようとすると、彼に呼び止められる。
「ひとつ忠告していいか」
「なんだ?」
景は一瞬迷うような表情を見せたあと、ためらいがちに告げた。
「君はもう少し、振舞いに気を付けたほうがいい」
「ん? どういう意味だ?」
首を傾げる雪緒に、景はため息を吐いた。
「もっと自分の見目に自覚を持て。これ以上、女中たちを惑わせるな」
「は……?」
予想外の指摘に、雪緒は困惑してしまう。
三枝家の女中たちは父たちを恐れていつもびくびくしていたし、雪緒に対しても常に遠慮がちだった。名取川家の女中たちはみな明るく親切だとは思っていたが……。
「ここの使用人はみな親切だ。訳ありの私を不憫に思ってくれているだけだよ」
「このところ道場の見学希望者も増えている。みな君目当てだと気づいているのか」
「それは天刀流異能術を使う私が珍しいだけだろう」
景はダメだこいつはといわんばかりに、大きなため息を吐いた。
「……とにかく、他者を惑わすような振舞いは慎め。いいな」
有無を言わせぬ物言いに、思わずムッとなる。
「貴方に言われるのは納得がいかないな」
怪訝な表情を浮かべる景に、拗ねたように言いやった。
「自分より遥かに美しい男に『見目に自覚を持て』と言われてもな」
「は……」
今度は景の方が目を見開いた。どうしたのか窺っていると、彼は視線を彷徨わせながらつぶやく。
「……君は私のことをそんなふうに見ているのか」
「え……ああいや一般論を言ったつもりだったが。気を悪くしたならすまない」
素直に謝ってみたものの、景は「別に気を悪くしたわけじゃ」ともごもご言いながら、去って行ってしまう。
「なんだったんだ……」
様子のおかしい彼のことが気にかかりつつも、雪緒は道場に行く時間が迫っていたためそのまま邸を出ることにした。
「ゆきお、ゆきお!」
自身を呼ぶ友人の声に、剣術の稽古中だった雪緒は振り向いた。
「どうしたんだ、けいちゃん。そんなに急いで」
「聞いてくれ。私、今週は熱が出なかった」
息を切らすけいちゃんの白い頬に赤みがさしている。どうしても雪緒に話したくて、ここまで走ってきたのだろう。
そんな彼女の一生懸命さが可愛くて、思わず笑みが漏れた。
「それはよかったじゃないか。体が丈夫になっている証拠だ」
「だろう? 私もそう思う!」
大きく頷いたけいちゃんは、それは嬉しそうに笑った。色素の薄い瞳と亜麻色の髪が、陽の光できらきらと輝いている。
一年ほど前近所に越してきた彼女は、年頃の近い雪緒に懐き、近頃では毎日のように顔を合わせていた。けいちゃんは自分のことをあまり語りたがらないが、身に着けた所作から見るにそれなりの家柄の娘なのだろう。
華奢で小柄な彼女はいつも髪を大きなリボンで結い上げ、愛らしい絵柄の着物を身に着けている。可憐な見た目と少女らしからぬ話し方が面白いと、雪緒は感じていた。
袴にたすき姿の雪緒を見つめていた彼女は、ふいにきゅっと口元を引き結んだ。
「このまま元気になれば、私もゆきおのようになれるだろうか」
「けいちゃんが僕のようになる必要はないよ」
こんなにも愛らしい少女がなぜ自分のようになりたいなどというのか。あまりのギャップに、苦笑してしまう。
「そんなことはない。私はゆきおのように強くなりたいのだ。そうでなければ……」
そう言ってけいちゃんはどこか思いつめたような目をした。その理由が分からず、雪緒は小首を傾げる。
「けいちゃん?」
「……なんでもない。稽古中に邪魔して悪かった」
きびすを返す背を思わず呼び止める。
「稽古が終わったらうちにおいで。この間けいちゃんが好きそうな本を見つけたから、一緒に読もう」
「いいのか? 私と遊んでいたらまた御父上に叱られるんじゃないか」
「叱られるのなんて慣れてる」
そう言って悪戯っぽく笑って見せると、けいちゃんもつられて笑いだした――
◇
目を覚ました雪緒は、ようやく見慣れてきた天井をぼんやりと見つめていた。
「……懐かしい夢を見たな」
この家に来るまで、ほとんど思い出さなかった記憶。けれどあの日々のことを忘れたわけじゃない。
三枝の後継者に指名されて以降、雪緒は苛酷な生活を強いられていた。遊びは一切禁じられ、稽古が終われば座学、座学が終わればまた稽古と、疲れ果てて眠りに落ちるのが常で。
蝶よ花よと育てられる華代を横目に、あの頃は跡継ぎとしての使命を果たそうと必死だった。
そんな日々を送っていた雪緒にとって、『けいちゃん』との交流はささやかな癒しだった。突然引っ越していなくなったときは、ずいぶん傷ついたものだ。
どうして何も言ってくれなかったのか。友達だと思っていたのに、彼女にとって自分はその程度の存在だったのかと――
(今さらになって再会するとは、思いもよらなかった)
しかもあれほどまで凛々しい美丈夫となって現れるなど、誰が予想できるだろう。再開した幼馴染に対する複雑な感情を、雪緒はいまだに持て余している。
名取川景の求婚を受けてから一ヶ月。
滞りなく彼の妻となった雪緒は、あの日から名取川家で暮らしていた。経緯が経緯だけにどんな扱いを受けるのか身構えていたが、予想に反して彼は雪緒のことを丁重に扱ってくれている。
衣食住を整えるのはもちろんのこと、雪緒のための専用訓練室まで準備してくれて申し訳ないほどで。
「君から技術供与を受けるのだからこれくらい当然だ」
さすがは御三家だけあって何もかもに余裕を感じる景に、かつての弱々しい姿はない。それはよかったと思う反面、少しだけ寂しい気持ちもあった。
あの頃から自分は何も変われていないことを、まざまざと突き付けられるから。
彼との関係については、かつてのような気やすさは無いものの、概ね良好なものとなっている。
最初こそ挨拶を交わす程度だったが、道場のことで相談するうちに話す機会も増え、近頃はちょっとした世間話もするようになっていた。
とはいえ結婚は契約上のものであるため、彼との間に夫婦らしいやりとりはない。あくまで雪緒は天刀流異能術を授ける術士であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。
こんな形だけの妻を名取川家の人間はどう思っているのだろう。妻としての雪緒はまったくの役立たずなのだから、普通に考えれば後継者問題が持ち上がってくるはずだ。
(私が景殿の子を産むわけではないし、彼が妾でも囲えば解決するのだが)
今のところ彼にそのつもりはないらしい。
であるならば名取川家の人たちから邪険にされても仕方ないはずだが、今のところ彼らからは丁重な扱いを受けている。いやむしろ、歓迎ムードさえある空気に、雪緒は少々戸惑っていた。
「おはようございます奥様」
今日も雪緒付きの女中たちが、かいがいしく世話を焼いてくれる。道場で稽古する際は今でも男物の袴を身に着けるため、支度を手伝ってもらっているのだが。
「雪緒さま今日もお美しい……」
ためいきを漏らした女中は、なぜだかうっとりした表情で雪緒を見ていた。稽古着に美しいも何もないだろうと思いつつ、手伝いに対して礼を言う。
道場へ向かっていると、出勤支度を済ませた景が顔をのぞかせた。
「今から稽古か。早いな」
「三枝の家ではもっと早かったからな。それにここに来てから調子がいいんだ」
そう言って雪緒はこちらを窺っていた女中たちに微笑みかける。
「きっと良い食事のおかげだ」
目が合った女中たちが、顔を赤くしながら去って行った。不思議に思いつつ景に挨拶して別れようとすると、彼に呼び止められる。
「ひとつ忠告していいか」
「なんだ?」
景は一瞬迷うような表情を見せたあと、ためらいがちに告げた。
「君はもう少し、振舞いに気を付けたほうがいい」
「ん? どういう意味だ?」
首を傾げる雪緒に、景はため息を吐いた。
「もっと自分の見目に自覚を持て。これ以上、女中たちを惑わせるな」
「は……?」
予想外の指摘に、雪緒は困惑してしまう。
三枝家の女中たちは父たちを恐れていつもびくびくしていたし、雪緒に対しても常に遠慮がちだった。名取川家の女中たちはみな明るく親切だとは思っていたが……。
「ここの使用人はみな親切だ。訳ありの私を不憫に思ってくれているだけだよ」
「このところ道場の見学希望者も増えている。みな君目当てだと気づいているのか」
「それは天刀流異能術を使う私が珍しいだけだろう」
景はダメだこいつはといわんばかりに、大きなため息を吐いた。
「……とにかく、他者を惑わすような振舞いは慎め。いいな」
有無を言わせぬ物言いに、思わずムッとなる。
「貴方に言われるのは納得がいかないな」
怪訝な表情を浮かべる景に、拗ねたように言いやった。
「自分より遥かに美しい男に『見目に自覚を持て』と言われてもな」
「は……」
今度は景の方が目を見開いた。どうしたのか窺っていると、彼は視線を彷徨わせながらつぶやく。
「……君は私のことをそんなふうに見ているのか」
「え……ああいや一般論を言ったつもりだったが。気を悪くしたならすまない」
素直に謝ってみたものの、景は「別に気を悪くしたわけじゃ」ともごもご言いながら、去って行ってしまう。
「なんだったんだ……」
様子のおかしい彼のことが気にかかりつつも、雪緒は道場に行く時間が迫っていたためそのまま邸を出ることにした。

