「お前は用済みだ」
実の父親から告げられた言葉を、三枝雪緒はすぐには理解できなかった。
「父上、それはどのような意味でしょうか」
「言葉の通りだ。先ほども言ったが、お前はもう三枝の後継者ではなくなった」
信じがたい宣告に、雪緒は立ち尽くした。震えが始まった唇をなんとか開く。
「では、一体誰に」
「華代が子を身ごもった。医者の見立てでは男子とのことだ」
妹の名が出てきたことに、心臓が嫌な音を立てる。息の吸い方を忘れてしまったかのように、上手く呼吸ができない。
「つまり、華代の子を、三枝の次代にと」
「今からなら十分間に合う。華代も了承済みだ」
足元が崩れ去っていくような感覚をおぼえた。血のにじむ思いで積み上げた十五年が、一瞬にして無に帰したことを理解する。
(私はこれまで何のために)
何もかもを諦めて、この家のために尽くしてきたというのに。
雪緒は異能武術の名家として国家に仕えてきた三枝家の長女として、この世に生を受けた。
雪のように白い肌にちなみ雪緒と名付けられ、名家の子女に相応しい淑女に育てられる――はずだった。三枝家の跡取りである兄が、質の悪い病にかかり亡くなるまでは。
三枝家には亡兄以外に男子はおらず、即座に後継者問題が持ち上がった。普通に考えれば、雪緒もしくは妹の華代が婿養子を取るのが定石だろう。
しかし異能を扱う彼らにとって、そう簡単な話ではなかった。三枝家は天刀流異能術の開祖として、多くの門下生を抱えている。
歴代の当主は天刀流の達人であったし、次代も当然その資質がなくてはならない。雪緒の兄も幼い頃から厳しい訓練を受け、後継者に相応しい技を身に着けている最中だった。
なにより門外不出の奥義を継げるのは、三枝の血を引く者のみという掟がある。
――悩んだ末、雪緒の父は大胆な決断をした。
残った娘のうちどちらかを「男」として育てることにしたのだ。
「雪緒、お前が兄の後を継げ」
三枝の後継者として白羽の矢を立てられたとき、 まだ六つだった雪緒は了承するしかなかった。
男として生きていくなんて、考えたこともなかった。長く伸ばした黒髪は自慢だったし、雪のように白い肌を大切にしていた。
けれど妹の華代は名前の通り花のように愛らしい娘で、彼女を兄の代わりにさせられないと思った。
これまでの生は捨て、今後は父を支え自分が三枝の家を継いでいく。たとえこの先、偽りの人生を歩むことになっても――
そう覚悟した日から十五年。
雪緒は厳しい修行に耐え、立派な後継者へと成長した。自慢だった長い黒髪は短くし、男物を身に着けるのもすっかり板についた。
十八の歳には護国寮の異能士官に合格し、軍人としての功績も順調に挙げ始めた矢先のことだった。
突然、父から告げられた”用無し”の言葉。
思えば華代が天刀流筆頭門下生であり、華族でもある有沢洋輔と懇意にしていると聞いたときから嫌な予感はあった。
彼女は子供の頃からなんでも雪緒のものを欲しがる癖があり、大切にしていた硝子細工の猫飾りも、見事な刺繍が施された匂い袋も、両親の言いつけで華代に取られてしまった。
洋輔は雪緒が後継者となった経緯を知る数少ない人物であったため、時折悩みなどを打ち明ける仲になっていたのだが。いつの間にか華代が洋輔と親しくなり、またたく間に恋仲となっていた。
結婚するつもりもない雪緒にとってはまたかと思うだけで、それ以上考えないようにしていたのがいけなかった。
両親から溺愛されている華代は、大抵のわがままが許されてしまう。洋輔は有沢家の次男であるため、婿養子になることも可能だろう。
洋輔を三枝家の当主にしてくれと華代に頼まれたら……そう考えて雪緒は即座に打ち消した。天刀流の奥義は三枝の血を引く者ではならないのだから、父が認めるはずがない。
なにより女性としての生を捨ててまで後継者となった自分を、父が外すわけがない――そう信じていたのに。
(まさか、既に子を身ごもっていたなんて)
己の迂闊さを呪い、雪緒は絶望した。
父から可愛がられなかった自覚はあったが、まだ産まれてもいない子を後継者にしてでも、華代を選びたかったのだと。
それほどまでに自分は愛されていなかったのだと、思い知ったから。
おぼつかぬ足取りで三枝家の廊下を歩いていると、前方から華代と洋輔が歩いてきた。
「あら雪緒お兄さま」
「華代……」
「うふふ間違えましたわ。お姉さまに戻ったのでしたわね」
沈黙する雪緒の前で、彼女は愛おしそうに腹を撫でた。長いまつげで縁取られた瞳が、勝ち誇ったように細められる。
「洋輔さんとのこと、許してくださいますよね?」
「許すもなにも、彼との間には何もないのだから。二人の結婚を祝福するよ」
それを聞いて安心しましたわと、華代は洋輔と微笑み合い、雪緒をちらりと見やる。
「でもよかったじゃありませんか、お姉さま。一生男として生きていくなんて、おかわいそうでしたもの」
「……私は姉に戻るつもりはないよ。このまま男として生きていくつもりだ」
淑女教育を何ひとつ受けてきてない自分が、今さらどうやって女としての生を歩めるというのか。三枝の後継者になれずとも、このまま一介の異能士官として生きていければそれでいい。
精一杯の強がりを言ったつもりだったが、相手はまあと愉快そうに笑った。
「おかしなことを言いますのね」
「……どういう意味だ?」
「お父さまの後を継ぐ『男』は一人でなくてはなりませんのよ?」
急速に温度を失くした、冷ややかな視線。
彼女の言わんとしていることに気づき、雪緒は慌てて言い募る。
「華代、私は生まれてくる子の邪魔をするつもりなどないよ」
「お見苦しいですわ。お姉さま」
「待ってくれ」
思わず伸ばした手を、彼女は強くはじき返した。
「触らないで!」
汚らわしいものを見るような目が、雪緒を睨みつけていた。
「本当に鈍いのねお姉さま。目障りだって言ってるのがわからないの?」
立ち尽くす雪緒に、華代は忌々しそうに言い放った。
「さっさと私たちの家から出て行きなさいよ」
二人のやりとりを見守っていた洋輔が、やれやれと肩をすくめる。
「これ以上華代さんに負担をかけないでくれませんか。腹の子に何かあっては困りますから」
「洋輔さん、私すこし目眩がしますの」
「ああそれはいけない。すぐに休もう」
寄り添うように去って行く二人を、雪緒は呆然と見送るしかない。何もかもがこぼれ落ちていくのを、止めるすべなどなかった。
実の父親から告げられた言葉を、三枝雪緒はすぐには理解できなかった。
「父上、それはどのような意味でしょうか」
「言葉の通りだ。先ほども言ったが、お前はもう三枝の後継者ではなくなった」
信じがたい宣告に、雪緒は立ち尽くした。震えが始まった唇をなんとか開く。
「では、一体誰に」
「華代が子を身ごもった。医者の見立てでは男子とのことだ」
妹の名が出てきたことに、心臓が嫌な音を立てる。息の吸い方を忘れてしまったかのように、上手く呼吸ができない。
「つまり、華代の子を、三枝の次代にと」
「今からなら十分間に合う。華代も了承済みだ」
足元が崩れ去っていくような感覚をおぼえた。血のにじむ思いで積み上げた十五年が、一瞬にして無に帰したことを理解する。
(私はこれまで何のために)
何もかもを諦めて、この家のために尽くしてきたというのに。
雪緒は異能武術の名家として国家に仕えてきた三枝家の長女として、この世に生を受けた。
雪のように白い肌にちなみ雪緒と名付けられ、名家の子女に相応しい淑女に育てられる――はずだった。三枝家の跡取りである兄が、質の悪い病にかかり亡くなるまでは。
三枝家には亡兄以外に男子はおらず、即座に後継者問題が持ち上がった。普通に考えれば、雪緒もしくは妹の華代が婿養子を取るのが定石だろう。
しかし異能を扱う彼らにとって、そう簡単な話ではなかった。三枝家は天刀流異能術の開祖として、多くの門下生を抱えている。
歴代の当主は天刀流の達人であったし、次代も当然その資質がなくてはならない。雪緒の兄も幼い頃から厳しい訓練を受け、後継者に相応しい技を身に着けている最中だった。
なにより門外不出の奥義を継げるのは、三枝の血を引く者のみという掟がある。
――悩んだ末、雪緒の父は大胆な決断をした。
残った娘のうちどちらかを「男」として育てることにしたのだ。
「雪緒、お前が兄の後を継げ」
三枝の後継者として白羽の矢を立てられたとき、 まだ六つだった雪緒は了承するしかなかった。
男として生きていくなんて、考えたこともなかった。長く伸ばした黒髪は自慢だったし、雪のように白い肌を大切にしていた。
けれど妹の華代は名前の通り花のように愛らしい娘で、彼女を兄の代わりにさせられないと思った。
これまでの生は捨て、今後は父を支え自分が三枝の家を継いでいく。たとえこの先、偽りの人生を歩むことになっても――
そう覚悟した日から十五年。
雪緒は厳しい修行に耐え、立派な後継者へと成長した。自慢だった長い黒髪は短くし、男物を身に着けるのもすっかり板についた。
十八の歳には護国寮の異能士官に合格し、軍人としての功績も順調に挙げ始めた矢先のことだった。
突然、父から告げられた”用無し”の言葉。
思えば華代が天刀流筆頭門下生であり、華族でもある有沢洋輔と懇意にしていると聞いたときから嫌な予感はあった。
彼女は子供の頃からなんでも雪緒のものを欲しがる癖があり、大切にしていた硝子細工の猫飾りも、見事な刺繍が施された匂い袋も、両親の言いつけで華代に取られてしまった。
洋輔は雪緒が後継者となった経緯を知る数少ない人物であったため、時折悩みなどを打ち明ける仲になっていたのだが。いつの間にか華代が洋輔と親しくなり、またたく間に恋仲となっていた。
結婚するつもりもない雪緒にとってはまたかと思うだけで、それ以上考えないようにしていたのがいけなかった。
両親から溺愛されている華代は、大抵のわがままが許されてしまう。洋輔は有沢家の次男であるため、婿養子になることも可能だろう。
洋輔を三枝家の当主にしてくれと華代に頼まれたら……そう考えて雪緒は即座に打ち消した。天刀流の奥義は三枝の血を引く者ではならないのだから、父が認めるはずがない。
なにより女性としての生を捨ててまで後継者となった自分を、父が外すわけがない――そう信じていたのに。
(まさか、既に子を身ごもっていたなんて)
己の迂闊さを呪い、雪緒は絶望した。
父から可愛がられなかった自覚はあったが、まだ産まれてもいない子を後継者にしてでも、華代を選びたかったのだと。
それほどまでに自分は愛されていなかったのだと、思い知ったから。
おぼつかぬ足取りで三枝家の廊下を歩いていると、前方から華代と洋輔が歩いてきた。
「あら雪緒お兄さま」
「華代……」
「うふふ間違えましたわ。お姉さまに戻ったのでしたわね」
沈黙する雪緒の前で、彼女は愛おしそうに腹を撫でた。長いまつげで縁取られた瞳が、勝ち誇ったように細められる。
「洋輔さんとのこと、許してくださいますよね?」
「許すもなにも、彼との間には何もないのだから。二人の結婚を祝福するよ」
それを聞いて安心しましたわと、華代は洋輔と微笑み合い、雪緒をちらりと見やる。
「でもよかったじゃありませんか、お姉さま。一生男として生きていくなんて、おかわいそうでしたもの」
「……私は姉に戻るつもりはないよ。このまま男として生きていくつもりだ」
淑女教育を何ひとつ受けてきてない自分が、今さらどうやって女としての生を歩めるというのか。三枝の後継者になれずとも、このまま一介の異能士官として生きていければそれでいい。
精一杯の強がりを言ったつもりだったが、相手はまあと愉快そうに笑った。
「おかしなことを言いますのね」
「……どういう意味だ?」
「お父さまの後を継ぐ『男』は一人でなくてはなりませんのよ?」
急速に温度を失くした、冷ややかな視線。
彼女の言わんとしていることに気づき、雪緒は慌てて言い募る。
「華代、私は生まれてくる子の邪魔をするつもりなどないよ」
「お見苦しいですわ。お姉さま」
「待ってくれ」
思わず伸ばした手を、彼女は強くはじき返した。
「触らないで!」
汚らわしいものを見るような目が、雪緒を睨みつけていた。
「本当に鈍いのねお姉さま。目障りだって言ってるのがわからないの?」
立ち尽くす雪緒に、華代は忌々しそうに言い放った。
「さっさと私たちの家から出て行きなさいよ」
二人のやりとりを見守っていた洋輔が、やれやれと肩をすくめる。
「これ以上華代さんに負担をかけないでくれませんか。腹の子に何かあっては困りますから」
「洋輔さん、私すこし目眩がしますの」
「ああそれはいけない。すぐに休もう」
寄り添うように去って行く二人を、雪緒は呆然と見送るしかない。何もかもがこぼれ落ちていくのを、止めるすべなどなかった。

