けれどそれ以上に陽和の気を引き締めたのは、夜ごと静かに張り詰める後宮の異変だった。
美しく整えられた花壇の陰や妃たちが通る渡り廊下の隙間から、粘つくような不吉な呪言の気がほのかに見えるのだ。
(やっぱりこの後宮には、恐ろしい呪詛が渦巻いている……)
夜遅くなれば、玄宵が足音もなく離れを訪れる。陽和は濡れた着物を着替えると、心を落ち着かせて彼を迎えた。しかし玄宵は陽和が用意した温かいお茶に口をつけることもなく、冷ややかな声で淡々と状況の報告だけを求めた。
「本日の捜査報告をいたします。第一妃、藤紫の妃の待女周辺から、黒い霊気の痕跡を見つけました。呪言の源流は間違いなく、あのお方たちの近くにあります」
「……そうか」
玄宵は短くそう応じると、ふと陽和の足元に視線を落とした。着替えを済ませたとはいえ、床や足に残った僅かな腐敗臭と霊気の乱れを、彼が見落とすはずもない。
「昼間……なにかあったな」
それは淡々とした物言いだったが、その声の低さに陽和は思わず肩を跳ねさせた。
「た、大したことではございません。少し着物が汚れてしまっただけで……」
「隠すな」
玄宵の一言が、冷たい刃のように静寂を切り裂く。
彼は立ち上がると、陽和との距離をすっと詰めた。そのとき白檀の香りがふわりと立ち込め、彼の影が陽和を包み込む。
「お前から感じるのは、ただの嫌がらせの気ではない。これは嫉妬に乗じた“毒”の気だ。なぜ、すぐに報告しない」
「……玄宵さまは、お忙しいお方なので。それに、私はこれくらいのことで音を上げるつもりはありません。この程度の毒なら、私の鳳凰の力で弾き返せます」
「慢心するな!」
玄宵の激しい一喝に、陽和は反射的に息をのんだ。彼は苦しそうに顔を歪めると、陽和の細い肩を強く掴んだ。布越しに伝わってきた彼の指先の温度は、驚くほど冷たい。
「鳳凰の力だと? 下女として隠れ潜んでいたお前ごときが、後宮全体を覆うような呪念をどこまで防ぎきれるというのだ。囮としての役目を果たしたいのなら、私に余計な手間をかけさせるな」
「手間……ですか」
玄宵の容赦のない物言いに、陽和の胸がギュッと痛む。
けれど陽和は怯むことなく、玄宵の闇をたたえたような瞳を真っすぐに見つめ返した。
「わかったか。お前はただ、気配を感じ取るだけでいい。深入りはするな」
冷たい声で指示を出す玄宵の横顔を、陽和はそっと見つめた。燭台の揺れる灯りに照らされた彼の目の下には、うっすらと黒い隈が浮かんでいる。
美しく整えられた花壇の陰や妃たちが通る渡り廊下の隙間から、粘つくような不吉な呪言の気がほのかに見えるのだ。
(やっぱりこの後宮には、恐ろしい呪詛が渦巻いている……)
夜遅くなれば、玄宵が足音もなく離れを訪れる。陽和は濡れた着物を着替えると、心を落ち着かせて彼を迎えた。しかし玄宵は陽和が用意した温かいお茶に口をつけることもなく、冷ややかな声で淡々と状況の報告だけを求めた。
「本日の捜査報告をいたします。第一妃、藤紫の妃の待女周辺から、黒い霊気の痕跡を見つけました。呪言の源流は間違いなく、あのお方たちの近くにあります」
「……そうか」
玄宵は短くそう応じると、ふと陽和の足元に視線を落とした。着替えを済ませたとはいえ、床や足に残った僅かな腐敗臭と霊気の乱れを、彼が見落とすはずもない。
「昼間……なにかあったな」
それは淡々とした物言いだったが、その声の低さに陽和は思わず肩を跳ねさせた。
「た、大したことではございません。少し着物が汚れてしまっただけで……」
「隠すな」
玄宵の一言が、冷たい刃のように静寂を切り裂く。
彼は立ち上がると、陽和との距離をすっと詰めた。そのとき白檀の香りがふわりと立ち込め、彼の影が陽和を包み込む。
「お前から感じるのは、ただの嫌がらせの気ではない。これは嫉妬に乗じた“毒”の気だ。なぜ、すぐに報告しない」
「……玄宵さまは、お忙しいお方なので。それに、私はこれくらいのことで音を上げるつもりはありません。この程度の毒なら、私の鳳凰の力で弾き返せます」
「慢心するな!」
玄宵の激しい一喝に、陽和は反射的に息をのんだ。彼は苦しそうに顔を歪めると、陽和の細い肩を強く掴んだ。布越しに伝わってきた彼の指先の温度は、驚くほど冷たい。
「鳳凰の力だと? 下女として隠れ潜んでいたお前ごときが、後宮全体を覆うような呪念をどこまで防ぎきれるというのだ。囮としての役目を果たしたいのなら、私に余計な手間をかけさせるな」
「手間……ですか」
玄宵の容赦のない物言いに、陽和の胸がギュッと痛む。
けれど陽和は怯むことなく、玄宵の闇をたたえたような瞳を真っすぐに見つめ返した。
「わかったか。お前はただ、気配を感じ取るだけでいい。深入りはするな」
冷たい声で指示を出す玄宵の横顔を、陽和はそっと見つめた。燭台の揺れる灯りに照らされた彼の目の下には、うっすらと黒い隈が浮かんでいる。

