後宮の冷徹陰陽師と朱き花嫁

 翌朝──。
 後宮内は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
 つい昨日まで雑用をこなしていた身分の低い下女が一夜にして姿を消し、あの大陰陽師“玄宵”の特別なお気に入りとして屋敷の離れに囲われたという噂が、あっという間に宮中を駆け巡ったからだ。
「ここが今日からの、お前の居場所だ」
 そう案内された離れは後宮の最北端に位置しながらも、手入れの行き届いた閑寂(かんじゃく)で美しい庭を備えた一画にあった。下女たちの雑居部屋とは比べものにならないほど上質な畳の匂いのする部屋で、そこには幾重にも高度な結界が張られていた。
 しかし毎日通ってくる玄宵の態度は相変わらずで、徹底して冷淡そのものだった。
「昼間は周囲の目を引くよう、この離れの庭に出て見せつけるように優雅に暮らせ。下女が不相応な贅沢をしていれば、妃たちの嫉妬は勝手に煽られる。夜が更けたころ、私が捜査の報告を聞きに来る」
 玄宵はそれだけを無慈悲に言い残すと、陽和と目を合わせることなく狩衣の裾を翻して立ち去ってしまった。
 そうして、離れでの偽りの寵愛生活が始まった。
 陽和は『玄宵から特別な贔屓を受ける、生意気で身分違いの側室』という役割を完璧に演じるため、昼間は豪勢な着物を纏い庭の縁側に腰かけ過ごした。すれ違う待女たちの刺さるような視線や不躾なうわさ話が耳に入るたび、胸がちくちくと痛む。
「陰陽頭さまをたぶらかした、下種な女」
「いつまであの顔が保つかしらね」
 そういった陰口は、日に日に露骨さを増していった。そしてその悪意は、うわさ話だけに留まらなくなる。
 ある日の夕刻のこと。
 陽和が離れの庭に面した縁側で佇んでいると、頭上からバシャリと重い水音が響いた。
「あら嫌だわ、手が滑ってしまいましたの。ごめんなさいね、下女上がりのお妃さま」
 見上げれば、渡り廊下の二楼から高貴な衣装を纏った待女たちが、嘲笑いながら陽和を見下ろしていた。陽和の足元には汚泥と腐敗した花弁が混ざった、臭気のある水が大量にぶちまけられている。豪勢な上着の裾は不快な色に染まり、冷たい水が肌を刺す。
(これは、ただの嫌がらせではないわ……)
 陽和は濡れた着物の裾をギュッと握りしめた。
 ぶちまけられた汚水から立ち上がってくるのは、不快な臭いだけではない。水底に漂うようにねっとりとした、真っ黒な呪言の気が渦巻いていたのだ。
 水に託して、陽和の霊力をじわじわと削ぎ落そうとする執拗な思惑。妃たちが放つ嫉妬の裏に、もっと深く陰湿な呪詛の影が確実に忍び寄っている。